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そもそも男神像や女神像は、誰が何の目的で作ったのですか。
仏像は信仰の対象物ですが、神像もそうですか。
信仰の対象物として初めから意図して作られたのですか。
それにしては、神像は人の姿をしており、衣装から想像すると誰か特定の人(例えば神社のスポンサー)を表しているような気がします。
菅原道真を祀る神社の道真像は分かりますが、この像以外の神像について教えて下さい。
よろしくお願いします。

神像の例
「国宝 大神社展」神々の姿 
http://www.tnm.jp/uploads/r_press/52.pdf 

國學院大学蔵
http://www.kokugakuin.ac.jp/oard/4_m1634.html

小浜市神宮寺
http://www.city.obama.fukui.jp/section/sec_sekai …

A 回答 (3件)

> 仏像は信仰の対象物ですが、神像もそうですか。



貼っていただいたサイトに次のように書いてありました。


本来、日本の神は姿形を持たず、仏教の影響で神像も作られるようになったと考えられている
http://www.city.obama.fukui.jp/section/sec_sekai …より引用)

神社には鏡は置いてありますが、神像はないことが多いです。
もともと日本の神道は偶像崇拝をしない宗教だったようですね。

仏教が日本に伝来すると、仏教は神道と結びつくようになります。(神仏習合)

日本古来の神々は、仏教の神々が衆生を救うために仮にこの世に姿を現したものであるとする考え方が
神仏習合の考え方のベースとなりました。
このような考え方を本地垂迹説といいます。
また日本古来の神々のことを権現、仏教の神々のことを本地仏といいます。

菅原道真の本地仏は十一面観音であるとか、天照大神の本地仏は大日如来であるとか
そんな風に考えられていました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0 …

京都の北野天満宮の神宮寺で東向観音寺という寺があって次のように記した石碑がありました。
「天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩」
天満宮というのは菅原道真のことです。
なので、「天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩」とは、「菅原道真の本地仏である十一面観音をおまつりしています。」というような意味です。

北野天満宮には道真の神像はないと思いますが、その神宮寺には十一面観音があり、
その十一面観音は菅原道真そのものだとして信仰されていたのではないかと思います。

ですから、神像というのもまた信仰の対象だといえるでしょう。

>それにしては、神像は人の姿をしており、衣装から想像すると誰か特定の人(例えば神社のスポンサー)を表しているような気がします。

たしかに、仏像は腕が6本あったり、頭が11個あったり異形の姿をしているのに対し、神像はふつうの人間の姿をしていますネ。

日本の神は、人間そのものであったケースも多いです。

私が知っている人間の神をあげておきます。

菅原道真、早良親王、崇徳院、井上内親王、他戸親王、藤原広嗣 、天智天皇、平将門、柿本人麻呂、小野小町、 藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麿、吉備真備、春日王、志貴皇子など。

時代はばらばらです。すいません。
このうち柿本人麻呂や小野小町は神像が作られているようです。他にもあるかもしれません。

上にあげた人物は実在した人物で、死後、神として祀られた人物です。
それで神像は人間の姿をしているのかもしれませんね。

記紀の神代に登場する神々(スサノオや天照大神、大国主命など)も実在する人間であったのかも?

なぜ彼らは神になったのか。
彼らは全員政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人々です。
このような人々は死後怨霊となり、天災や疫病の流行は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。
それで祟らないように神として祀ったのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>日本の神は、人間そのものであったケースも多いです。

日本では、外国もそうかも知れませんが、死ねば「神」として祀られるケースが多いのですね。
この場合、生前の姿を絵や彫像にして遺したのでしょう。
そして、そのうちの幾つかは、いつしか「神像」と呼ばれるようになったのだろう、と思います。

>神社には鏡は置いてありますが、神像はないことが多いです。
>もともと日本の神道は偶像崇拝をしない宗教だったようですね。

そうですね。
山、岩、樹木、滝などが御神体とされている例もあります。
そこで、神像とは何だろうという疑問が湧きました。

お礼日時:2013/05/01 20:57

この神像が作られた時代とそのスポンサー(ってだれ?)を考えれば、スポンサーな訳がないことぐらい簡単にわかるでしょう。

西洋武術とは違うんだから。基本的には道真公の像を作るのと同じことです。

神を祀るという最初の形態は山や岩などに神が在ると考えていました。今でもその形式が残っているのが沖縄のノロなどの信仰形態です。
その後、氏族が力を持ち始めると自分達の先祖を神として崇敬しました。日本独自の信仰は神道しかなかったのですから先祖を神とするのは当然の成り行きですよね。これが氏神の起源です。

ちょっとハショりますけど、仏教が入ってくると考え方が変わってきました。
それまでは神に姿はなく、ひもろぎと呼ばれる榊や石柱に神を降ろして儀式をしていましたが、やがて聖地という考えが生まれ(これが神社)、祀る場所が固定されると拝殿が出来、やがて神降臨の専用の場所が出来て神殿となりました。
仏教公伝以来、仏教が神道を取り込む形になり、神は仏の化身だと考えるようになったのです(本地垂迹)
そして仏教で仏像という形ないものを具現化する風習が神道にも取り入れられました。
つまり、インドに起源を持つ仏教の仏像がインド形式、中国形式であるのに対し、日本独自の神々は日本の姿で彫られるようになったわけです。
通常神の姿は鏡を以って代えますが、鏡は天孫降臨の際にアマテラスの象徴だとされているので、崇敬の対象として仏像でも鏡でもない物が必要になってきました。
そこで基本的に当時の風俗衣装に似せて女性はおすべらかしに十二単、手には扇子を持っている形、男性は衣冠束帯に手には杓を持たせた形となります。いずれも杓や扇子は欠けてしまった例が多いですから判り難いのかもしれません。
道真や尊氏、義貞、家康などは姿も判る者が多いから似せて造ったでしょうが、神であれば見た事のある人など居ませんから、想像で作ったという事になります。
また仏教は庶民に向けて見せびらかし、崇敬を集めるから技工も高度なものになっていったのに対し、神道の御神体は原則公開しない上に小さな神殿や逗子の中に収められる場合が多く余り技巧を凝らす必要も無かったわけです。だからマトリョーシカのような単純な形になっているのではないでしょうか。

中には弁財天や大黒天などの様に、インド方面から来た姿でもやがて日本に来て神道の神と同義形にしたときに、そのイメージを投影して元の姿と似ても似つかない姿になった神もいます。これらも原型の神と比べるとかなり単純化されていますよね。
また稲荷の狐のように、ヒンズー教のダキーニ(ジャッカルに乗っている姿)と同体化したが、日本にジャッカルが居なかったので狐になったという例もあります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>そこで基本的に当時の風俗衣装に似せて女性はおすべらかしに十二単、手には扇子を持っている形、男性は衣冠束帯に手には杓を持たせた形となります。

すると、その神社の神官の知りあいか、神社に祈祷にでもやってくる高級公家か女官をモデルにした彫像ということですね。
確かに神像は、服飾史では当時の服装を知る貴重な史料になるらしいです。

>また仏教は庶民に向けて見せびらかし、崇敬を集めるから技工も高度なものになっていったのに対し、神道の御神体は原則公開しない上に小さな神殿や逗子の中に収められる場合が多く余り技巧を凝らす必要も無かったわけです。

なるほど、そういうことですか。
関係者だけがこっそり見て満足していた、そんな感じですね。

お礼日時:2013/05/02 20:23

神道勢力がスポンサーをつなぎとめる為に仏教に張り合って神像を作りました。

だから日本で仏教が正式に採用されるまでは神像は作られていません。仏教にスポンサーである貴族を奪われてしまうと食べていけない氏族が貴族を仏教に奪われないようにする為に仏像に対抗して神像を作ったのです。具体的に誰がどの神像を作ったかは分かりませんが、神像作りの職人を雇って製造させたといったことだった筈です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>仏教にスポンサーである貴族を奪われてしまうと食べていけない氏族が貴族を仏教に奪われないようにする為に

>仏像に対抗して神像を作ったのです。

前段は、まったく同感なのですが、後半の部分に疑問があります。
仏教に対抗するには神像なる物が、仏像に比べてあまりにもお粗末すぎるからです。
ご回答に反論できるほどの知識はないですが、
昔、何らかの事情で作った彫像を今になって「神像」と呼んでいるのではないでしょうか。

お礼日時:2013/05/01 21:15

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