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 文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

 ○ (神とは何か?) ~~~~~

   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

 《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― マチガイである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。

 X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。


  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。

 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

 ~~~~~~~~~~~~

A 回答 (38件中1~10件)

ブラジュロンヌさんと対立するかもしれませんが…



今のところ私は
神とは自己自身の本質であると考えます。

哲学的には外化とかいうらしい。

身体から離れて精神と分裂しているので
関係が転倒しているのです。

そして、自己の本質なので、
だから否定されると、人は怒るのです。

つまり、
神学は人間学とかなんとか。
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この回答へのお礼

 なるほど。久しぶりに――失礼な言い分ながら――血の通った自由なご見解をお聞きしました。

 ご回答をありがとうございます。


 いちばんの問題は・もしくはミソは――質問者の考えるにですが――:
 ★ 神とは自己自身の本質であると考えます。
 ☆ ここにありましょうね。

 すなわち

  (あ) 《本質》とは何ぞや?

 という問いに代えられもする問題です。

 つまりは

  (い) 本質とは 《経験世界 Y 》における・真理( X )の何かのシルシなのか?

 と言いかえて 問えます。
 すなわちもし:

  (う) その真理( X )のシルシとは けっきょく
   《神 X の霊》が わが心なる《非思考の庭》にやどるそのものである。

 と言いかえるなら このたたき台における神の定義と変わるところはない。こう帰結されます。どうでしょう?




 《梵我一如》なる信仰の類型に合わせてやはり捉えることが出来ます。

  (え)   梵我一如なる類型
    ( a ) 神(梵天)ブラフマン( X )=霊我アートマン( X-Z )
    ( b ) アミターバ・ブッダ( X )=ブッダター(仏性 X-Z )
    ( c ) アッラーフ( X )=人にやどる神の霊( X-Z )
    ( d ) ・・・・


 すなわち このままでも
 ★ 神学は人間学とかなんとか。
 ☆ としても通用するように思われます。


 ただしところが 問題はまだ複雑な様相を呈してもいるようです。
 ★ ~~~~
 哲学的には外化とかいうらしい。

 身体から離れて精神と分裂しているので
 関係が転倒しているのです。
 ~~~~~~
 ☆ こういう問題があるらしい。問題は こうであるらしい。

 どういうことか?
 ★ 哲学的には外化とかいうらしい。
 ☆ これは 

   (お) 人間の《本質》たる神を 《外化》してしまったかたちの
     《とにかくの神》も持たれているし どうやらこちらの神もどきが
     はびこっているとも見られる。

 といったことでしょうか? あるいはひょっとして

   (か) 神は人間の本質だというけれど 実際には その内在すると見られた
     本質を外化〔=その意味で 表現(おもてにあらわす)=あるいは疎外〕
     してしまった《神まがいの 観念の神 つまり神もどき》しか存在など
     していない。
 
 というところまで含みがありましょうか どうでしょうか?



 ★ ~~~~
 そして、自己の本質なので、
 だから否定されると、人は怒るのです。
 ~~~~~~
 ☆ といった事態が事実に適合しているとするならば そうだとしても まだ《本質= 神の霊がやどる》なるここでの仮説は 傷ついてはいないようです。

 なぜなら 人が自己の本質なる神を批評され否定されると怒るという場合にも 実際には (お)ないし(か)の《神もどき》としての観念の神が それは《死んだ》と言われたに過ぎないからです。《もどき》は初めから――少なくとも外化=疎外された瞬間から―― もはや主観内面における信仰の息吹きの消えたように・またはセミの抜け殻のごとくなったようにして《死んでいる》のだからです。


 つまり・すなわち・けっきょくにおいて いまのところなお たたき台として挙げた仮説は 持ちこたえるようです。どうでしょう。

お礼日時:2013/05/05 20:04

おそらく、神とは、人間が効率よく人間を支配するために造ったものでしょう。


私はそう思っています。
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この回答へのお礼

 かるばどくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですか。そうですね。つまり ただの感覚で言うとすれば半分くらいの人びとは そういった《人間の想像の産物としての神》説であるように感じられます。

 つまりは――回答No.1でのやり取りにも出て来ましたが―― 仮りにこの人間なる存在の中に・心の奥に存在の本質(?)と呼べるような何かがあったとしたとき 人間は それを無理にでも――言葉として――表現しようとする・外化する・したがって内面における本質は 概念化され観念化され疎外されてしまう。

 言葉にして表現しこれをふたたび心にいだくとするなら そのもの(一般に観念です)はじっさいにはいちど自分たちが《手放してしまったもの》なわけです。

 つまりは 《神もどき》を《神》としている。といった状態および社会的な情況が醸し出されて来ている。こういうひとつの見方があるようです。

 かるばどくさんが
 ★ おそらく、神とは、人間が効率よく人間を支配するために造ったものでしょう。
 ☆ とおっしゃるときには どうなのでしょう。いま上の《神もどき》と同じでしょうか 違うでしょうか?

 わたしが考えるに 《人間が想像力を駆使して表現し上げた想像の産物》なる観念としては 同じものであるように思います。






 さらにお考えの中には 《人間が造った》というだけではなく
 ★ 人間が効率よく人間を支配するために
 ☆ という説明内容が入っています。

 おそらくこれは 《神》という言葉そのものの外化=表現=疎外に限ることなく それだけではなく いわゆる道徳ないし倫理規範としても この《人間の内なる本質》をうたい上げたと言いますか 表現し尽くしたと言いますかによって 持つようになったいわゆる《宗教》のことでしょうね。


 たとえばこうです。
 わたしは わが心の内なる神の霊のおもむくところに従うなら――つまりは わが心の感性としても精神としてもまたわが人格存在の全体としてもわたしに告げる思惟やおこないの選択についてその告げるところに従うなら―― 《ひとは 自分をも他人をも ころすことはない》。つまり これが 信仰( X-Zi )です。信じるところを どうにかして言葉に表わした内容です。(ただし 神を外化してはいないわけです)。

 ところが この信仰内容をさらに実際に外化したかたちが現われました。
 《なんぢ ころすなかれ》と言うようになりました。これが 倫理規範であり――神の命ずるところを言葉で明らかにしたかたちであり―― これが集団として共有されるなら そのまま《宗教》となります。

 わが心なる《非思考の庭》における言ってみればそのときにも確かに倫理としての内容を持ち得た《ひとは ひとをころしはしない》なる《お告げ》が 人びとのあいだで神の命令として規範となって持たれるようになった。

 個人の信仰が あたかも蝉が脱皮するかのように その抜け殻としての規範を宗教のオシエとして残した。外化され疎外された。
 ★ 人間が効率よく人間を支配するために造ったものとしての神(つまり神もどき)
 ☆ とは この宗教のオシエのことではないでしょうか?


 としますと たたき台における《神 X 》ないし《信仰 X-Z 》なる仮説は まだ持ちこたえるものと考えますが どうでしょう。

お礼日時:2013/05/05 20:59

仰りたい事の意味は分かりますし、その辺の駅前などで『浄霊』等と称して訳の分からない事を言っている人たちよりよほどまともだとは思いますけれど。



ここで大事な事は、そういった思考を(あるいはそれに反対する思考を)しているのが哺乳類の動物であると言う観点が一切抜けて、生理や欲(ここで言う『欲』は一般的に言うところの金銭欲や出世欲でない事はお分かりと思います。食欲・睡眠・排泄など生命を維持する為に必要な物の事です)に関して、わざと触れないのか、そう言った物を抜きにして人間の精神世界を証明する事が可能だと誤解されているのか、まるで『人間』と言う名のロボットのプログラムについて解説している様に感じる事に違和感を覚えると言う事です。

『吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーションを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。』と言う言葉は、この質問の中で言われる様に、人間をロボットの様な物だと思ってはいけないよと言う戒めとも取れますが、いかがでしょう。

『自由に話し合う』為には、自由に話し合える環境の整備なくしては出来ません。それは『神』や『仏』やその他もろもろの物が何故人々に信じられ支持されているのか(これは単に形而上学的な精神論では無く、先に書いた様に哺乳類は何を好み何を嫌うのかと言った生物学的ないしは行動生理学的観点)抜きに論じられる事では無いと思っています。

私はあなたの仰る『大前提』は、まず『人は動物である』と言うところまでさかのぼるべきだと思います。

もっとも、仰っている『超自然』と言うのが、私の言う『自然な状態』を抜きにして(もしくは超えて)、とりあえず前頭葉で考える事(人間の本質はどうでも良くて、前頭葉の仕組みだけ知りたいと言う意味)ならば、仰る事は一理有ると思います。
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この回答へのお礼

 おんせん_だいすきさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 
 のっけから反対意見を述べますが もっとも重要なところは おんせん_だいすきさんが 次のようにこの神の仮説を《人間の精神》の問題だと受け取られたところにあると考えます。
 ★ 人間の精神世界を証明する事が可能だと誤解されているのか
 ☆ すなわち こうです。

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
 § 1
  ・・・
 人間の精神は 《絶対 X 》ではない。人間じたいも 《経験存在 Y 》であり その精神も有限であり 《経験世界 Y 》に属す。

 《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― マチガイである。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 確かにこの《信じる》という領域――《非思考の庭》とも呼びますが――をもわれわれ人間は 精神において(理性等をつうじて)認識するわけですから この《非思考の庭》も
 ★ 人間の精神世界を証明する事が可能だと
 ☆ という前提で語っていると見られたのかも分かりませんが 問題は そのように大きく《精神世界の風景》を捉えて明らかにしようとしているのだとしても 扱う対象は 《思考に非ず》なる領域のことです。
 つまりは言いかえると あくまで《想定する》のだと言って 定義をおこなっているところです。

 ぶしつけになりますが この点は 誤解されているように思います。




 ほかの批判点は こうです。 
 ★ まるで『人間』と言う名のロボットのプログラムについて解説している様に感じる事に違和感を覚えると言う事です。
 ☆ つまり
 ★ ~~~~
 ここで大事な事は、そういった思考を(あるいはそれに反対する思考を)しているのが哺乳類の動物であると言う観点が一切抜けて、生理や欲(ここで言う『欲』は一般的に言うところの金銭欲や出世欲でない事はお分かりと思います。食欲・睡眠・排泄など生命を維持する為に必要な物の事です)に関して、わざと触れないのか、そう言った物を抜きにして
  ~~~~~
 ☆ といった点 つまりもっと生活の具体的な場面などを考慮に入れよということのようです。


 借問しますが でしたら どう含み入れて扱うということでしょう? つまり その必要はありますか? 神の定義をあつかうとき そのような人間の自然本性のあり方についてくわしく触れる必要はありますか。

 あるいはまた そのような《生命維持のための生理的なまたは生存の欲求》において行動したとしても・またはそれらの欲求にたとえ《反対する思考》を人間がおこなったとしても それは ひとつにそのように――わが心に反してでも――自由におこないうるのですし もうひとつに そのような《欲求》は ほんとうに《信じる》に対してさからうことであるのでしょうか? と問えるとも思われるのだからです。
 
 《信じる》の問題は 生活日常の細かい振る舞いを抜きにしても 理論づけることが出来るのではないか です。

 さらにもうひとつには たとえ《信じる》に対してさからうような思惟や行動を人間がおこなっても・つまりは ですから そのように自由にいかようにも神に対して振る舞ったりしたとしても そのとき《神 X 》は 何ら痛痒を感じるわけのものではない。ということも言えるはずです。――つまり 理論は いささかもゆれたりしません。そのまま有効でありつづけます。
 ということが言えるのではないでしょうか。



 ですからぎゃくに
 ★ ~~~~~
 『吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーションを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。』と言う言葉は、この質問の中で言われる様に、人間をロボットの様な物だと思ってはいけないよと言う戒めとも取れますが、いかがでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ というような批評をいただくことが出来るわけです。だと思います。
 人間がロボットや論理機械のように振る舞うのではなく ふつうに感情ゆたかにも行動していても・自由に振る舞っていても 理論は 理論として つねに有効でありつづけることが出来るわけです。



 ★ ~~~~
 『自由に話し合う』為には、自由に話し合える環境の整備なくしては出来ません。それは『神』や『仏』やその他もろもろの物が何故人々に信じられ支持されているのか(これは単に形而上学的な精神論では無く、先に書いた様に哺乳類は何を好み何を嫌うのかと言った生物学的ないしは行動生理学的観点)抜きに論じられる事では無いと思っています。
 ~~~~~
 ☆ 《生物学的・行動生理学的観点》は 上に見て来たようにクリアしました。と思います。それ抜きに仮説を立てていますが それを含み入れても 理論は理論として有効であると見ました。

 問題は コミュニケーションの実際の場では どうであるのか? こういう問いでしょうか。

 つまり言いかえると ここでは(この理論では) 人びとの――それでは弱いと言われかねないところの――言わば《心構え》を問題にしている。となります。《どんな名の神であっても――また 〈無い神〉であっても―― この神論によるならば 心の明けが持たれることになる》と考えるからです。
 《どの神に対しても わが心は閉じられておらず 開かれている》という《心がまえ》のことです。
 これは 話し合いにとって大きな必要条件である。と考えるからです。

 むろん さらに具体的な細かい条件も必要でしょうし 十分条件は何かという問題もあるかも知れません。ですが 基礎としての条件は 満たしている。こうも 大胆に考えていますが どうでしょう。



 ★ ~~~~~
  私はあなたの仰る『大前提』は、まず『人は動物である』と言うところまでさかのぼるべきだと思います。

  もっとも、仰っている『超自然』と言うのが、私の言う『自然な状態』を抜きにして(もしくは超えて)、とりあえず前頭葉で考える事(人間の本質はどうでも良くて、前頭葉の仕組みだけ知りたいと言う意味)ならば、仰る事は一理有ると思います。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 《社会的動物である》という事項は 踏まえているつもりですが すでに触れて来ているように たぶん生活日常の具体的な人間の振る舞いについては 抜きにして理論を立てているとは思います。

 そうして 問題は重ねて触れますが

  ☆☆ 人間の精神は 《絶対 X 》ではない。人間じたいも 《経験存在 Y 》であり その精神も有限であり 《経験世界 Y 》に属す。

 という《神は 人間の精神ではない》という論点と そしてほとんど同じことですが

  ☆☆ ~~~~
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )
  ~~~~~~~~~
 ☆ というように《想定する》という定義の仕方 この論点だと思っています。神は《非経験・非思考》ですから これこれこうだとふつうに規定することはかないません。これこれこうだと《想定する》というかたちが ふさわしい。こういう論点です。



 

お礼日時:2013/05/05 22:11

私の回答を『より生活に密着したもの』と捉えられたのは、まさに仰る通りです。



私たちは平常、人しか居ない社会の中に居ますので、どうしてもその社会の成り立ちが思考の根底に据えられがちですし、通常人間社会の中にのみ生活する分にはその論理はなかなか破綻を見せません。

一つ例を挙げると、大きな山が(林や森でも構いませんが)有って、そこに何種類かの野鳥が居る時、その雄雌は生まれて初めて見ても自分と同種の雄雌を区別して交尾します。決して種類の違う鳥と交尾する事はありません。

これは『経験』では説明出来ません。『野生』とか『本能』と呼ばれる物です。

人間の行動の多くもこの『野生』や『本能』に依存して行われますが、一般的に(特にキリスト教的な)神学に於いてこの仕組みを説明出来る理論は存在しません。


動物の神経作用(もちろん『思考』も含めて)は、神経細胞膜上に有るナトリウムイオンとカリウムイオンの代謝によって発生する電気の伝達によってなされますが、それがどう言う仕組みで(あるいはどう言う神の意思で)前述の様な『野生』や『本能』の基幹となっているのかをきちんと説明出来る神学者を見た事がありません。

人の恋愛も同じ事なのですが、単に仰る様な『前頭葉の反応』(思考)としてのみ捉えられ、その思考そのものが動物(人間も動物です)が行っていると言う視点が欠けているので、『本質』(人間が哺乳類で有る事)を考慮に入れて、本能的にはどう思考し行動するのを、神学的にはこう解釈しているのであると言うところまで突っ込むべきではないかと言うのが、『ロボットのプラグラムの様だ』と言う感想になりました。

論旨としては大変面白いと思いますが、『普遍の論理』かと聞かれたら『それは違うよ』と思うと言う意味です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。 
 お応えしたことの趣旨は

   ○ 『より生活に密着したもの』を考慮に入れても
    神の定義としての理論は 理論の次元でそのまま有効である。

 でした。これに 初めからのご趣旨において 反論をされていると思います。

 ★ 人間の行動の多くもこの『野生』や『本能』に依存して行われますが、一般的に(特にキリスト教的な)神学に於いてこの仕組みを説明出来る理論は存在しません。
 ☆ つまり 質問者の言おうとしていることは もし《本能》の問題(その実際)を考慮に入れても 神とその信仰の定義は 何ら影響を受けない。とやはりお応えしようと考えます。

 ★ ~~~~
 一つ例を挙げると、大きな山が(林や森でも構いませんが)有って、そこに何種類かの野鳥が居る時、その雄雌は生まれて初めて見ても自分と同種の雄雌を区別して交尾します。決して種類の違う鳥と交尾する事はありません。
 ~~~~~~
 ☆ この事例が そのまま動物のこととしてでもよいでしょうし また同じようなかたちで人間の事例としてでもよいと思うのですが 問題は この《本能》としての行動もすべて 《神 X と 神と我れの関係としての信仰( X-Zi )》のもとにいとなまれる。ということだと見ます。理論は何ら 影響は受けない。ゆえに 神学が本能の仕組みを説明するか・出来るかの問題は 問われることはないと考えます。

 どうして 人間の《言わばどろどろしたところもある日常生活のこまごまとした実態》が問題になると 神の理論が影響をこうむるのでしょう? むしろそこに疑義をさしはさむことのほうが 何故なのだろうと思ってしまいます。



 このたたき台に 次の自然本性についての図解を添えたいと思います。

  ○ (ワタシなる存在における自然本性の内実) ~~~
 
   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ここで《非思考の庭》が――むろん想定であり仮定なのですが―― 《神の信仰 X-Zi 》を示しています。その《信じる》の問題が 思考や感性といった現実の経験事象のあることによって(またそれらを 考慮に入れることによって) どうして影響を受けるのでしょう? 《信じる》と《特には 本能的な行動》とは 領域と言いますか分担する分野と言いますかが 違っていると捉えられます。

 むろん神経組織とそのハタラキには 《非思考の庭》は 少なくとも直接的には関与していません。ですから 神学が そのような思考などにかんする神経作用を説明する必要はないと考えます。


 ★ ・・・、『本質』(人間が哺乳類で有る事)を考慮に入れて、本能的にはどう思考し行動するのを、神学的にはこう解釈しているのであると言うところまで突っ込むべきではないかと言うのが・・・
 ☆ 《本能の行動》を神学は どう解釈するのか? 本能――それがほんとうに人間にあるとするならですが――については 《非思考の庭》なる動態(――ちなみにそこでは 思考にかかわることとしては ヒラメキが起こります――)とかかわりがない。こう説明するだけのことです。

 言いかえると それは 理性の担当する知識や知性のほかに意志の問題であると捉えるでしょうね。
 意志を出し置いて 本能的な行動をするわけですが けっきょく事後的にでもそれは 何のなにがしなるワタシの意志行為の範囲に入ります。引き受けますと言って 処理することになります。

 たとえば満員電車で 急ブレーキがかかって人びとが押されてしまうというとき 不可抗力であっても となりの人に自分のからだを預けるようなかたちになったなら すみませんと言って 自分の意志行為であるから自分の責任だと見なして 処理する。というたぐいのごとくに 本能的に・つまりは 意志を出し置いて行動してしまった場合にも 同じく意志行為と見なして処理されます。

 そういうことは この神の定義としての理論では 扱う必要がないのです。


 よって
 ★ 論旨としては大変面白いと思いますが、『普遍の論理』かと聞かれたら『それは違うよ』と思うと言う意味です。
 ☆ という結論をくだされた根拠は まだ成り立ちません。

 普遍妥当性をもった神の定義として提出しているわけですから おいそれとは引き下がれません。

お礼日時:2013/05/05 23:46

残念ながら、批判するためではなく理解するためにきたのですが、。


さて、クレドという言葉には、志という意味があるそうです。
ブラジュロンさんは、志している、何を?神を。
神というものを求めているらしい、と。そしてそれを、信仰とも言っておられる。さらに、時に閃きがあり、それも、神への志向性の中で行われていると。

して、そのような作用によって神を希求するブラジュロンさんにとって、神とは、あえて言語化すると、永遠、無限、絶対と言ったような言葉でいうことができる。

つまり、ブラジュロンさんは、信仰を通じて、そう言った性質を持つ神を求めている。

この様な概観でよろしいでしょうか?
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この回答へのお礼

 雨語りさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 一文づつお応えしていまいります。

 ★ クレドという言葉には、志という意味があるそうです。
 ☆ けれども ここでは(わたしの場合) 《われ信じる( I believe. )》という本来の意味で使っています。
 
 《信じる》には たとえば《われ 親友の無実を信じる》といったように《神を》ではなく《人や経験的なものごと》について使う場合もあります。

 それは 《非思考においてナゾの何ものか(つまり神)を心に受け容れる。また それを心にいだく。したがってそのような信仰の動態が過程されること》を表わすその本来の意味を別の意味に転用しています。

 すなわち 《・・・無実をつよく思って うたがわない》というように《経験的なものごとについて 思う・考える》ことを強調するための用法です。

 《確信する》とか《信念・信条》とも言って《信》を用いますが これらはみな《経験思考》の問題です。
 一般にその内容の妥当性を疑っていないというような強調の用法です。この用法では 《神》は関係ありません。

 それと同じように 《こころざし》という意味でのクレドの用法は もはや神とは関係ありません。(直接には かかわりません)。
 (信仰個条としてのクレドつまりその意味での信条の場合は 信仰の動態においてわたしは・そしてその宗教は 神についてこれこれこうだと明らかにして表わすというふうにオシエを持ち出して来る場合です。げんみつに言えば オシエはすでに人間の思考にそのまま呼応しているものですから 本来の《信じる》とは別です。信仰の外郭ないし蝉の抜け殻が 宗教のオシエです)。
 
 (現代スペイン語では 《信じる》という本来の用法のほかに ごくふつうに《わたしは思う》という意味でも使われています。 クレドは クレオと変わっていますが 《クレオ ケ スィ。》と言えば 自信はないけれどたぶんそう(スィ)ぢゃないかと思うといったうたがわしい意味にも使っています。つまり I think so. のことですね)。


 ★ ブラジュロンさんは、志している、何を? 神を。
 ☆ すなわち 《神》は 《その名を心に受け容れる》というかたちで《信じる》ものであり 《心差し》は思いや考えのおもむくところとして 経験思考の問題です。



 ★ 神というものを求めているらしい、と。そしてそれを、信仰とも言っておられる。
 ☆ 《聖霊を信じる》と《経験的なものごとを信じる》との区別は もう明らかだと考えます。

 ちなみに その信じる問題を取り上げるにしても 《神を求める》という表現は 必ずしも意味が明解ではありません。一般に――いえ 問い求めても むろん よいわけですが それにしても一般的に言って―― 人間のほうから神の方へ進み入るというようなことではなく むしろぎゃくでしょう。その一般に従えば 《神を求める》という表現は 微妙でしょうね。

 たとえば 次のような考え方をひとしく持ちます。

 ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~

   自己を運びて万法を修証するを迷とす。
   万法進みて自己を修証するは悟りなり。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ★ さらに、時に閃きがあり、それも、神への志向性の中で行われていると。
 ☆ 非思考の庭において(つまり 信仰の動態過程にあって) ヒラメキが得られるというのは そのままそうだと思っています。そのように表明しています。
 そしてそれは 《神を 具体的には神の名を 心に受け容れたそのあとの信仰の動態において》のことです。《神への志向性の中で》というのは すでに触れて来ましたように 大いに不正確です。


 ★ 神とは、あえて言語化すると、永遠、無限、絶対と言ったような言葉でいうことができる。
 ☆ これは そういうことです。つまり 信仰の中身を どうにかして理解しうるように表わしたいとすれば 神のことを そのような――経験思考における――概念で仮りに代理としての表現において表わしてみる。こういう意味合いにおいてです。

 ★ つまり、ブラジュロンさんは、信仰を通じて、そう言った性質を持つ神を求めている。
 ☆ つまりは 初めに《志向性》を立ててそれに従うなら そう考えられるということだと思いますが・そしてそういう道筋で捉えると分かりやすいということかも知れませんが ふつうの信仰としては じつは違うわけです。

 信仰は 神からあたえられるものです。神は 人間が造ったものではありません。
 人間の想像の産物としての神を――神もどきを――後生大事にいただいていても おもしろくありません。(一時的には 強いチカラを得るのかも知れませんが)。



 さて《非思考の庭がわが心に成る》という信仰についてそれは どういうことか?
 敢えて・返って コテコテの抹香臭い説明を ご披露してみましょう。


 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
   愛は死のごとく強し。(雅歌8:6)

 と言われるわけは 愛は われわれがかつてなかったものになるように われわれがかつてあったものを殺すからである。
 愛はわれわれの中にはたらいて われわれの中なる或るものが死滅するのである。
 (アウグスティヌス:詩編講解 122・12)

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そのときはるかに高いところから

    私はおとなの食べ物だ。

    成長して私を食べられるようになれ。

    食べると言っても 肉体の食物のように

    おまえが私を自分のからだに変えるのではない。

    逆に おまえが私に変わるのだ。

 というみ声を聞いたように思いました。
  (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  私の体験に於いて 神は 私に私自らを示そうとし給うた。
 (アウグスティヌス書簡21・1)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

お礼日時:2013/05/06 05:49

>神とは何か?



 良くも悪くも世界に対して強い影響力があると思う。
 今だって、神についての話題を広げて文章書いてますが、この文章を書いてる時間、例えば「いじめ相談カテゴリ」で悩める人の相談に乗る事ができました。
 神という概念がこの世になければ、人々の目は、もっと社会的な有意義時間に使われたかもしれない。
 虐め自殺なんて起こらない社会だったかもしれない。
 良くも悪くも神は世界に対して強い影響力がある。
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この回答へのお礼

 さくどぅらださん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 なるほど。神の信仰についての現実的な効用を問題にしておられます。
 ★ 良くも悪くも世界に対して強い影響力があると思う。
 ☆ ただしわたしが思うには 神についてというのは 

  個人の主観内面における信仰の神と そして
  その信仰の抜け殻のようなオシエを集団として規範のごとく受け取っている宗教と

 これらふたつの場合があると思います。
 次のような場合は明らかに後者の宗教のことでありオシエとしての神(神もどき。ないし観念の神)のことだとわたしは考えます。
 ★ ~~~~~
 神という概念がこの世になければ、人々の目は、もっと社会的な有意義時間に使われたかもしれない。
 虐め自殺なんて起こらない社会だったかもしれない。
 良くも悪くも神は世界に対して強い影響力がある。
 ~~~~~~
 ☆ なぜなら 個人としてのワタシの主観における神は ワタシの思惟や行動に――実際にはわが心の意志をつうじてですが――かかわっているかも知れないとしても これが(つまり神がとそして神へのわが思いが)直接にオモテに出るというわけではないからです。

 主観の内なるわが心の神が もしオモテで出てしまったなら それはもはや神ではありません。神という言葉です。( kami というただの発音だけかも知れません)。概念です。観念です。神もどきです。あるいは そういうオシエです。ただのオシエです。

 オシエは 言わば命令にまで成り得ますが それはあくまで内面における信仰が 言葉で表わされてすでにモノとして取り扱われるようになったかたちです。つまりは 規範です。一般に倫理としての規範です。

 このオシエないし規範としての神がこの世になければ 人びとは・つまりわれわれは もっと自由に振る舞い生活していたでしょう。
 《むさぼるなと言われなかったなら わたしは むさぼりなる概念を知らなかった》かも知れません。


 《いじめ》は ここで安易に論じるわけには行かないと思いました。考えて行きたいと思います。
 どうすればよいか お考えがありましたら またお立ち寄りくいただきたいと思います。

お礼日時:2013/05/06 06:06

あなた頭良いですね。

論理的な文章書くの上手いですね。
だっから、ちょっと勿体ないなぁ・・・思います。
哲学的分野以外には興味はありませんか?

今のその力を神とか哲学ではなくて、社会全体を幸福にするべく利用してくれたりしたら良いと思うし、そうであれば私は貴方を、より強く尊敬できるという事ですね。

いま、私はネット上で副総理の麻生太郎と繋がってます。

私の様なイレギュラーな境遇の者が偶然にも貴方に出会うというのは、恐らく、なんらかの運命に導かれるものと感じました。

もし、興味があるのであれば、一緒に政治アイデアを創造したりして遊びません?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 お褒めにあずかりました。

 ただですね ただ もうこういうことは ここで数年にわたって問い求めて来ています。(過去の質問履歴で分かります)。考えたのは 二十年くらい前です。

 ですので 憎ったらしく図々しくおごり高ぶった言い方をしますが このような《神の定義》をみんなが――つまり差し詰めここでの多くの人びとが――ふつうに持って身につけたかたちになれば よほどそしてうんと身の周りの生活情況はあたらしいものへと変わって行くでしょう。

 そういう社会貢献の仕方はありだと思っているのですが。・・・



 《いじめ》をめぐっては 確かに正面から取り上げたことはなかったかと思います。
 ひとつ 間接的にどういうことを考えどう問い求めているかにつきまして 次の質問を挙げてみます。

 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html

 クウキは 読めないほうが 健全である。ただしいまの段階では それはあたかも陰画(ネガ)の状態になっている。やがてあたらしい社会になるときには KY やヒキコモリの人びとの思想は 陽画と成って 主人公の役割を大いに果たすことになる。――こういう趣旨です。
 いじめにも当てはまると思ってのことです。

 もう一個 かかげましょうか。
 【Q:パワ・ハラ電磁波はアース役が核反応させうるか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7847204.html

 《アース役》のいじめられ役の人たちよ 自然においてがんばれと。





 《共同自治》につきましては 社会のあり方や運営の仕方にかんして インタムライズムという旗印をかかげています。ムラ=村つまり市町村のことです。

 たとえば 次のような質問での問い求めです。

 【Q:アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7485189.html
 ☆☆(その趣旨説明欄より) ~~~~~~
 アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。

 いわゆる地域主権について問うものです。

 ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?

 なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?

 それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。
 すっ飛びの仮説によって考えてみます。
 うんぬん。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といったかたちです。
 
 そしてこれを――つまり スサノヲ市民社会(=ムラムラ)の主導による社会の運営を 日本だけではなく 国際的なムラムラの連携形態において実現して行くという展望です。
 
 インタナショナルなインタムライズムとは 日本のひとつのムラが 日本のほかのムラムラと連携し また中国や韓国その他その他の国のそれぞれムラムラと――ムラが主体となって ムラどうしで――やはり連携していくという仕組みです。
 
 社会生活のあらゆる分野や領域で 交流し交通します。
 ムラ議会の議員に 外国人をも容れます。互いに選挙しあって容れます。
 企業との連携も 欠かせないでしょう。
 うんぬんとつづきます。(むしろあまり考えておらず 歴史の流れにつれて 必要な制度をつくっていけばよいと考えています)。

 
 そしてそれには あらゆる名の神を世界中の人びとが互いに受け容れあうこと。これは 基礎的なしごとのひとつとして大事なことだと思っています。


 お察しのとおりわたしは お二階のおえらい方々から見ると けしからぬヤツだと思われると思います。
 とりあえず このようにご返答をいたします。


 おまけです。
 【Q:アマテラス公民の世は終わらせるがは どうですろうか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6682085.html
 (回答の中には あまり関係ないことを書いて来ている場合がありますので 気をつけてください。スルーしてください)。

お礼日時:2013/05/06 09:25

先生 やられてますね


すさまじい・・

まあ
フルボッコのご批判をどうぞ と 啖呵をきったのだから仕方がないんだけど

なんでそこまでして
神とは何か?
と問うんでしょうか ね

人に聞いても分かるはずがないと承知しているはずなんですが

芯のない皮をむいていって 何もない と言いたいのか
神の存在の証拠 決定的証拠にふさわしい美しい言葉を聞いてみたいのか
どうなんでしょうね

或いは
いくら言葉を尽くしても 神は言い表せないだろう・・と
言えるなら言ってみろ・・と
まあ
信仰に対する挑戦状みたいなもの
ちょっと長い挑戦状ではありますが・・



私はというと 神のほうではないんで
ギャラリーになってしまうんですが
信仰そのものはかじってきた
だいぶかじってきて
美味しかったか? と問われれば
美味しい まずい という感じではない

常に分かれ道に立つようなところで呼びかける
暗くなりかけたところで大きな声で呼びかける
大きな声で呼びかけられるものを頂いている
信心とはそうしたもんです

何が返ってくるのか と言われれば
何も返ってはこない
言葉ではないんです
ただすべてが なるようになってゆく
欲をかかなければ自然に良い結果になっていく
振り向いてみれば
自力ではなかったと思い当たることが多い
そんな感じです
稀には はっ とする事もありますが・・

神の信仰の場合も同じようなもんではなかろうかと
盲目(めくら)が 象の尻尾をさわるようなもんで分からない
理解とは 信仰の体験を通してその一端を知るだけなんでしょう
理解した という傲慢さは人間の愚かさでしかありえない
そんなふうに思うんですがね・・



神を理解するのか 信じるのか?
理解できなければ 信じないのか?

そんな悠長な・・
悠長な人の前には神は現れない と思いますよ
現れる必要がない
黙って遠くから見ているだけですよ

いる と分からなくても見ている
来た と分からなくても来ている
神とはそうしたものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ★ やられてますね
 ☆ 弁慶の仁王立ちでがんばっていますねか。それとも フルボッコでコテンパンにやられていますねか。


 こちらに来ましたか。まづは ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~
 なんでそこまでして
 神とは何か?
 と問うんでしょうか ね
 ~~~~~~~
 ☆ これはちょうど直前の回答に対する答えとして書きました。

 《いじめ》問題にしても 社会の共同自治の問題にしても 《あらゆる名の神を世界中の人びとが互いに自由に相手のこととしては受け容れあう》 こういう下地が出来上がれば まづは基礎固めとして万々歳である。こういう展望です。




 ★ ~~~~~
 常に分かれ道に立つようなところで呼びかける
 暗くなりかけたところで大きな声で呼びかける
 大きな声で呼びかけられるものを頂いている
 信心とはそうしたもんです
 ~~~~~~~
 ☆ このような信仰体験を取り上げ 哲学は そこにどの主観にとっても共通の要素はあるかと問うて その中身を整理します。

 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることであるという共通のすがたを持つ。
 その信じる対象は けっきょく非対象だと捉えられるナゾの何ものかである。
 雲をつかむようなワケの分からないナゾだから これを霊と呼んでいる。
 うんぬん。
 といった経験合理性にもとづく整理は できるものです。

 そういう自己認識あるいは自己了解あるいはつまり《わたしがわたしであるそのわたしに立ち帰ること》を 目指しているとも言えましょうね。
 これが 神論の内容であり目的です。
 

 ★ 神を理解するのか 信じるのか?
 ☆ やっていることが微妙に違いましょう? 信仰の類型を見い出して共通の理解に供することによって 主観内面の骨格が分かるようになります。
 言わば神を 搦め手から攻めていくようなものです。濠や中の城の配置や設計図やを明らかにする作業です。
 天守閣やその住人の本体を知らなくても 人間の主観内面はあんがいあきらかにして行けるものです。

 こういう交通整理としてのしごともあるわけです。

 神はいると言うひとにとっても いないと言うひとにとっても 共通の主観内面の仕組みを――《信じる》という動態にかんして明らかにすることによって―― 捉えてみておこうというものです。

お礼日時:2013/05/06 09:46

『もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい』と言うのは、誠に仰る通りなのです。



がしかし、今のキリスト教やイスラム教や仏教その他の宗教の様に『信徒何億人』となると、それは多分不可能です。大混乱になります。場合によっては、派閥に分かれて戦争を始めるでしょう。

『議論しなおせばよい』だけの事が出来ない(妄信して暴走してしまう)仕組みは、理性に基づく『理論』より、『本能』や『野生』から導く方が多分よほど簡単で正解に近いと思うのですが、先に書いた様に神学者はまず間違いなくそれを拒否します。

人は動物ですから、元々自然の中で発生し野生や本能と言う囲いの中に生きていますので、その中で人間が考えた神の理論が野生や本能より上位に位置する事が可能なのかと言う疑問は常に有ってしかるべきだと思います。

いくつかの事例に合致する定理が有るとして、その定理に合致しない事実が判明した時は定理が間違っていると考えるのが科学的(理性的)対処だと思うのですが、多くの宗教とその信徒はこれを拒否します。

ひとえに、これまで『これが正しい』『これが正しい』と念仏の様に過去何代にもわたって唱え続けて来た物を『大前提について議論しなおす』と言うのは『死ね』と言われるに等しいくらい自らを否定する事だと考えている様に思います。

野生や本能で拒否している者に言葉は通じません。

私はそう考えます。
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この回答へのお礼

 おんせん_だいすきさん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 『議論しなおせばよい』だけの事が出来ない(妄信して暴走してしまう)仕組みは、理性に基づく『理論』より、『本能』や『野生』から導く方が多分よほど簡単で正解に近いと思うのですが、先に書いた様に神学者はまず間違いなくそれを拒否します。
 ~~~~~
 ☆ わたしは神学者ではありませんが 信仰についてはたいていの神学者よりもよく知っているつもりです。(ほんとうです。神学論文をある程度読んで 自分でながら そう思います)。

 《本能や衝動》によって行動する側面がある。この側面が生活の中で大きな比重を占めている。ゆえに社会としても その側面を重点的に取り上げ 対処して行かねばならない。――というご趣旨でしょうか。

 そうですね。それは その人たちや情況や具体的な場面に応じて そうしなければならない場合があるでしょうね。
 

 (あ) 人びとが意志を離れてのごとく前後の見境なく衝動的に行動してしまうという広い意味の不可抗力の問題は もし器質的な神経や精神の問題でなければ すべては社会を原因として発生する問題だと見ます。

 (い) 言いかえると その《不可抗力となるような振る舞い》問題は 社会がそれ相応の秩序を回復すれば なおります。

 (う) つまりは いまここで神論を取り扱っている問題と直接にはかかわりはない。こうわたしは見ます。

 (え) ですから神学者がどう言っているか知りませんが この《不可抗力行動》論から出発して 神論をみちびく――こういう道筋は たしかに取りません。あなたから見れば 《拒否》になります。

 (お) ちょうど No.7&8の回答者の方が 《いじめ》問題を取り上げておられましたが その問題を広げてわたしは 《社会源にかかる不都合な精神状態》の問題として見ています。

 (か) すなわち簡単に述べるなら 社会が一階のスサノヲ市民とそしてそれを上から束ね寄せて統治するお二階のアマテラス公民とに分かれているところから 精神的な閉塞状態が生じて来ていると見ています。

 (き) アマテラス公民は けっきょく――いまは昔となったのかどうか――そのやること為すことについて無謬性の神話が語られていて その神話の威力に人びとはまいっている。お上に対してよわい立ち場にあるということです。長い者には巻かれろという問題です。

 (く) たとえマチガイであっても お上の言うことはただしいとなっている。のでした。これに遭遇すると まじめな人は特に やられてしまいます。まるっきり百パーセントただしいことが通らない。となると 人はもうやりきれなくなります。絶望とか落ち込むといった水準の問題ではなく しおれて来てしまいます。

 (け) その打ちひしがれた人ほんにんは まだよいのかも知れません。かろうじて持ちこたえて 家族のために仕事をつづけます。ただし その頑張りのしわよせは 知らず知らずのうちにも 配偶者や子どもたちに向けて――そのつもりがなくても――及んで行きます。

 (こ) こういう理不尽な事件に遭った場合 その弱い立ち場の者を わたしは《アース役》と呼んでいます。このアース役でがんばっている人も 身内に対しては気持ちがゆるむのでしょう ふとした拍子に 自分が相手をアース役に仕立てている場合が起こります。自分はガミガミ役にまわってしまうわけです。

 (さ) そのときガミガミ役の意識の排泄とも言えるガミガミ電波は アース役の相手に入り込んでこれが溜まって行くということが起きないとも限りません。

 (し) そのようにして 一代限りにおいてではなく次の世代へも アース役の余波がまわり回って受け継がれる形になり得ます。これが 社会源なるやまいです。

 (す) このやまいに罹ると 何かの拍子にふと自分の意志を超えて 衝動的な振る舞いに出てしまうということが起きます。

 (せ) こういう問題です。そしてこれは 社会源であるからには なおります。その源泉のガミガミ電波を除染すれば済みます。

 (そ) よって 神論にとっては この不可抗力行動論は 別建てとすることが出来ます。


 そういったやり取りは 次を参照ください。
 【Q:ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6191141.html

 【Q:ニート・引きこもり・あるいはうつなど精神の傾向は ふつうの社会現象であるに過ぎない。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6242183.html

 【Q:観念の運河を 《空気》なるゴンドラはきょうもゆく】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7136310.html

 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html

お礼日時:2013/05/06 11:43

お礼読みました。

私の読解力は多くの人よりも自信があるので、断定的に書きますね。

まず、貴方の境遇は貧乏ではないですか? 微妙に貧乏かもしくは、普通か、自分の事を貧乏だと思ってる金持ちだと思います。

やるせない日々、あるいは退屈とか、あるいは悶々と眠れない日、貴方の脳は哲学化する事で、それらの問題を解消し始めて救済された?

解消はいわゆる自傷行為の様なもので、リストカットする事についてエクスタシーを感じる精神障害の如く人から理解されにくくなったかな? そうでないなら、哲学という人としては珍しい趣味を持ってるという事かな?

周囲とは孤立無縁と化して友人が減る事に貢献したかもしれない。してないかもしれない。

そしてますます、やるせない日々、あるいは退屈とか、あるいは悶々と眠れない日が増えてった。

それについて、貴方は自身が哲学的思考で救済された様に解釈している。 実際、一理として哲学がその役割を担う側面もあるから、論理としては正しい。

こういう場に投稿して哲学的思考を周囲にバラマキ同調させ、あるいは感染させる事で、貴方と似た思考をしてる人を更に同意付かせ、周囲を救済させる影響がある。
強い影響を他者に与えたら自分を大きな存在だと自覚し、アイデンティの快楽を感じるから、哲学的な思考開拓を止められない。
また哲学思考をした経験則から止めなければならないとする答えは出てない。
やめるべき必要性が無いのと、スラスラ言葉が出てくるカリスマ性があるから、貴方は神に選ばれてかの如く、平均から乖離してる。(良くも悪くも異端者)

もし貴方が、異端者、変態者と人から呼ばれても平気であるならば、まさしく哲学に大きな救済力がある証明になるので、私も賛同せざる負えない。
22人もの逆お気に入りユーザーを抱えてる状態からして思考の姿勢は、極めた域まで到達してると言えると思う。
私はそういう人については「天才」と呼ぶに相応しい者として評価する。

もしかしたら、神が存在して貴方に使命としてその役割を与えてるかもしれない。 そうだとすれば、まだまだ貴方の未来に伸びしろがあるという事になるので、現状のありのままにが一番世界の為になると思います。
なので我が道を進んでください。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 周囲とは孤立無縁と化して友人が減〔った〕
 ☆ この部分が事実ですね。
 あとは よく眠りますし大食漢ですし考え事をしないときには能天気のからっからです。
 というわけで 哲学が趣味でもないですから ほとんどぜんぶお見立ては違います。

 人びとにとって――ということは わたし自身にとってということなのですが―― 何がもっとも自由な生活であるのか? これを追究している。のみです。
 結果として 世界という範囲にまでひろがりました。



 ★ 貴方は自身が哲学的思考で救済された様に解釈している。
 ☆ これははっきりしています。信仰があたえられた。ゆえに 能天気になりました。いえ その前からそうでしたが 確信が得られ ますますそうなったということです。



 ★ こういう場に投稿して哲学的思考を周囲にバラマキ同調させ、あるいは感染させる事で、貴方と似た思考をしてる人を更に同意付かせ、周囲を救済させる影響がある。
 ☆ これは見方が分かれます。 どういうふうにか?
 哲学は 誰が見ても考えてもそういう結論が得られるという主題とその解法を提出しているという見方が そのもう一方にあるからです。むろん こちらが 妥当であるということになるはずです。


 ★ ~~~~
 もしかしたら、神が存在して貴方に使命としてその役割を与えてるかもしれない。 そうだとすれば、まだまだ貴方の未来に伸びしろがあるという事になるので、現状のありのままにが一番世界の為になると思います。
 なので我が道を進んでください。
 ~~~~~~~
 ☆ 意外な結末でしたね。ありがとうございますとお礼を述べなければならないでしょうか。

 ひとつ微妙なところは 《我が道》という捉え方です。

 そうであると同時に それだけなら《神の国から来て地球に駐在する外交官である》意味がありません。
 みなさんも じつは独りひとりがこの外交官(アポストロス)であるということ あるいはむしろ そんな肩書きも取っ払って みなが地球市民であるということ。このことの 実質的な実現を目指すということでなければ 《使命》が泣きます。

 というようなことなのでしょうね。


 社会的政治的な立ち場でたもとを分かちましたが そういうところでしょうか。ニアミス と言っては 失礼かも知れませんね。でも 将来はどうなるか 分かりませんから。どうなりましょうか。
 では ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/06 12:00
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