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私は、この世界には宗教なんて必要ないと強く思います。

理由は二つあります。
1.今の人類は宗教が存在する「本当の理由」つまり平和と、共に助け合うことを忘れ、解釈を変え、「他の宗教は邪教だ!」と唱える人達が続出してしまったからです。

2.神が存在するという科学的証拠が無い
宗教は、人間が心の安らぎのために作った空想の産物に過ぎないのに、どうして宗教に頼ろうとするのか?
もし本当に神様が存在するなら、どうして東日本大震災や、世界中で起きる自然災害や犯罪から人間を救いに現れてくれなかったのか?
➡この質問の答えとして、「それがその人の運命であり、穢れた世界からの救済でもあるから」だとしたら、「では神様はどうして地球に人類を誕生させたの? 救済?神様っていろいろと勝手過ぎないか?」と疑問に思います。

異常です。つたない文章になってしまい申し訳ございません。
お答えいただけると助かります。

A 回答 (16件中1~10件)

#2,13です



稚拙のブログの記事をこちらに引用しておきます。#2で引用した、
「未だに麻原をグルとせざるを得ないアレフの方たちへ。。。」http://jinen.exblog.jp/24259828/
の直後に記述したものです。

===>>> 自らを崇高なる戦闘員と信じている方々へ。。。
http://jinen.exblog.jp/24278825/

生きている限り人生
死後のことは死後に考えればいい

だって死後のことについて、全く同じことを言う人など誰もいやしない
同じようなことを言う人がいたら
特定の宗教の教えを覚えていて語る人、別の宗教の人が間違っていると語る人
でも、全く完全に同じことを語る人など、誰一人としていやしない
だからこそ、宗派の分裂がおこることは、歴史を学ぶまでもない
なぜなら、生きている限りの人生において、それぞれの人生だから

たった一つ言えることは
皆、いつかは死ぬってこと

だったら死ぬまで生きようよ

そうやって生きていこうと
懸命に生きて行こうとする人々

自らの信じるところに基づいて
そうやって一生懸命に生きている人々を殺戮する人々は
その信じるところを誰に聞いたのだろうか? 何を読んだのだろうか?

その誰かとか、何かとか、そういったものが「絶対」だと
どうして分かったのだろうか?

どうして「複数の絶対なる者」同士が
この世やあの世で戦闘をつづけなければならないのだろうか?

その教えと、その教えを語った人々と、その教えと異なる教えと、その教えと異なる教えを語った人々と
それらは、貴方の信じる「絶対」なのだろうか?

「絶対」なるものは、そういった教えとか教えを語った人々のさらに向こう側にあると思わないのか?

形あるものに固執すべきではない
教えとか、教えを語る人々とか、そういったものは全て形あるものに過ぎない。

貴方たちの求めつづけるものが崇高なものでありつづけるのは、
そういった形あるものにとどまり続けないからだろう。

貴方たちにとって崇高であろうとするものなら
殺戮しようとしている人々にとって崇高であろうとするものと
どうして異なっていると分かるのだろうか?

彼らが「悪魔という形あるもの」を信じていると信じるのなら
彼らもまた貴方たちの信じる形あるものが「悪魔」だと信じるだろう

そういった「信じる」の向こう側に
お互いの「信じる」といった形あるものの向こう側にこそ
戦闘や殺戮を越えた求め続けている「崇高なるもの」が隠されているのではないのだろうか

いや、「崇高なる形あるもの」など
実のところないのかもしれない

でも、そういった「求め続けようとする心」は
貴方方が、生きている限り、貴方方の心が求め続けている

それだけは「死ぬまで」は確実にあるといえるのではないのだろうか?

貴方たちの心の中にも
貴方たちが殺戮しようとしている人々の心の中にも。。。
<<<===

今の私にとって、こういった類のとりとめのない言葉を、誰も見ていないかもしれないブログに書き綴るぐらいしか出来ないでいます。

形而上学的存在の有無(神的存在の有無)に関わらず、求め続けようとする心は確実に存在する。
その思いの源泉は、遥か昔に人類が類人猿と袂を分かつとされる、死者への弔いの思いから生まれている。
死後が存在しようと、存在しまいとに関わらず。。。
その思いを無くせば、人類は自ら定義した人類ではなくなってしまう。

いや、自らの定義などどうでもいい。

どうでもいいのだけれど、心情の本質までも失うべきではない。
そういった、思い・願いのみが、燈火のように心の中で揺れています。
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>神が存在するという科学的証拠が無い



存在しないという科学的根拠もありません。

形而上学は、科学の対象ではないのです。
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戦争は利害関係が絡み合って


それを揺らぎで抑えられなくなった時に
暴発してしまうものなんだと思います。

その際拠り所としての存在の意味が強い宗教と絡めることで
戦争における団結と正当性を強化するということになるのだと思います。

内側の不満がそこまで蓄積しないような
公正な社会と常識を構築することから、
ひずみのエネルギーが暴発のラインを越えないで、
直感的に正しいと思われる価値観が
常軌を逸脱せずに機能できる社会をキープし、
その状況では正常に機能しうる
直感的に正しいと思われる宗教的規範を、
それぞれの多様な社会環境なりに尊重しあえる
世の中の実現をめざすことが大事なんだろうと思います。

神という拠り所の存在意義は
個人差により千差万別であっていいように思います。
幸いなことに神の実在については
否定も証明もできません。
他者への攻撃性にならない限りにおいて、
神やその手に委ねた来世への信仰の質と程度は
個人の自由として尊重し合うべきです。
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#2です


先日、下記のニュースに関連してツイートをしました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151107-00000 …
「不思議な体験」 周囲が受け止めて
河北新報 11月7日(土)11時17分配信

===>>>
https://twitter.com/KISUGI_JINEN/status/66298833 …
知というものが情を統制・制御しうるとか、そういった概念が先行する限り、「非科学的な事象」として処理されてしまう。「知の判断」を越える「情」を大切にすべきだろう。
<<<===

人々の死者への弔いの情や、分断されてしまった人々の間の求め合おうとする情は、「知」では処理不可能で、たとえ「宗教概念」が否定されたとしても、その「否定」を越える「情」として連綿と受け継がれていくことでしょう。
求め合おうとする「思い・想い」が先行するのです。
その次に、たまたま、宗教概念に相応するモニュメントとしての何がしかがあったとき、水平的に繫がりあって「宗教団体」という構造を形成してしまうこともあるでしょう。
しかしながら、人々の「思い・想い」は、そういったモニュメントを貫き(モニュメントの有無に関わらず)、さらに「あるのでもなく・ないのでもない」向こう側へと注ぎ込まれ続けるものです。

「形ある」モニュメントとしての「宗教概念」に留まり続ける人々を「知的に否定」しても、何の問題解決にもならないと考えています。
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質問者さんにとって不要なら、それは質問者さんの価値観でしょう。



他方、必要だと感じる人もいます。価値観の違いです。

ちなみに、宗教否定側である共産主義が、最大の虐殺数を生み出したことも、忘れてはいけないでしょう。ミイラ取りが、ミイラになります。
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訂正です。


私がgood!したのは№⒋でした。ごめんなさい。

めんたいこさんさんにも謝ります。
でも、再度読み返せば納得する回答なので、good!しました。

edwinxさん、物事を見る時は極力視野を広げて見ることを心掛けることで、本質に近づけると思いますのでどうぞ、客観視或いは俯瞰してみると云う事を意識して、考えるようにしてみてください。
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edwinxさん、こんにちは。



とても、壮大な問題提起ですね。これに答えることはとても大変だと思います。。

edwinxさんは、宇宙の中の、この天の川銀河系の中の、太陽系の中の、第三惑星の地球という星に、
ごく稀に奇跡的に、私たち人類が棲息しているとお考えですか?

それとも、そうではなく、
ほとんどの惑星や衛星に様々な発展段階にある人類が生息しているかも知れない、
とお考えですか?

もし、後者であり、他の星の人たちのお話しを聞けば、
地球人というのは、どんな発達段階にある人間なのか?、というのがよく判るはずです。

実際、宇宙には、地球の人間にはとても考えもつかない、叡智を持った存在がおられ、
地球人に通信されているのです。
これを学び知ることにより、edwinxさんの質問は全て解決されると思います。
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宗教は、個人の意識の自己中心性を、(社会生命的な自覚化を


経ずに)社会的行動へと矯正する機能があります。
だから時の体制側が統治のために利用してきたのです。
そうした方便を捨てるならば、その必要悪を「必要」とした
原因(個人の意識の自己中心性)を解決してからでなければ、
社会的荒廃を招きます。
認識の深まりによる社会生命的自覚(自己の生命性の社会的
拡張の認識)に基づく、自律的社会行動(助け合いとしての
労働=生きること自体による喜び)の確立が先決である。
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edwinxさん


№7の回答は№6の独り言への返答でもあるので、スルーでもいいかと思います。

神は物としては存在しないので、科学では証明できなくて良いのです。
若し出来たと言う人がいたならば、それこそその人を疑わなければなりません。

空想って人間が心で思い描く事。
空想って必ず「種」があります。
「種」はこれまで経験して得た知識で記憶として保存されます。

例えば龍。
空想上の生き物ですね。
「種」は蛇、鳥の羽、うしやシカの角、それに空とか雲とか雷とか・・・
こんな「種」を元に空想力に優れた人が作り上げました。

心に浮かぶ事柄には必ず「種」があります。

それでは、経験したことが無いのに心に浮かぶ神の「種」ってなに?となりますが、生まれると同時に具わって居る"こころ"、この心こそが「種」なんです。

"こころ"って神、そのものなんです。でも人間は生きているので"生活"しなければなりません。そのために様々な手段を以て努力しなければならず、そうすることによって「欲力」は成長し、成長するに随って力を付け、"衣"を身に付けていきます。
段々と心の「中心」が覆われて神が見えなくなるんです。

心に欲力が有るのは、また現れ育つのは「中心」にその力があるから。
その「ちから」が"衣"の隙間から抜け出して「何か」を求め探(さぐ)るんです。

求めるものは生みの親、創造主、神なんです。
川の流れが大海に向かうように、心は大いなる心、神の国に向かおうとしているんです。
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こんにちは。



 《宗教》は 信仰とはちがって 一般に群れたがり屋が寄り集まるものと見られます。

 上に立って引っ張って行くのは 負けず嫌いのお山の大将屋でしょうが
 人びとの肌寄せあうほどの群れるクセの問題であるかも分かりません。

 戦争は 個人的なケンカとは違うとすれば
 群れをさらにどうにかしてあたかも心をひとつにするように束ねることを欠かせません。

 ただの仲間意識だけではなく 内と外 身内と赤の他人 味方と敵といったように
 集団をふたつに分けてあらそう。

 これが 戦争〔の持つひとつの中身〕だとすれば 
 群れたがり屋の集まりであった宗教――つまりその組織やクウキ――は
 戦争の遂行にとって 必ずしも遠い存在ではない。のかも知れません。

 信仰は わが《固有の時》を見つけたところに成ります。
 わが固有の時が 外に出かけることはありません。
 あったら お化けです。
 あるいは 信仰が蝉だとすれば その蝉の抜け殻として
 外に・世の中に――じつは―― 出かけて行きます。
 
 でもそのお出かけは すでに固有の時が死んでしまっています。
 抜け殻として――そしてそれは いわゆるオシへと成ってですが―― 顔を表わします。

 《オシヘ》をそこらじゅう顔いっぱいに書いた看板をかかげたゾンビ人間のまわりにすら
 群れたがる人間は いるものなんですねぇ。

 ★ 平和と、共に助け合うこと / 人間の心の安らぎ
 ☆ といったキャッチコピーを掲げ そのさとりの状態あるいはそこに到る道を
 ――外形的に説明するのではなく(家をつくるときの足場のような形の説明ではなく)――
 実際のあり方としては ついぞ明らかにしなかった男がいました。

 人びとは 自分でも考え これを検証しないのでしょうか。

 (凡夫には知り得ない・とうといオシへなんぢゃよと
 長い間 耳にタコができるほど 聞かされ続けて来ましたからねぇ。
 先の戦争で 真宗集団も煽る側に立ったそうです)。
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