この人頭いいなと思ったエピソード

江戸時代、上方に本店があり、江戸に支店のあるような場合、その江戸店の所有権は、どのように確定されていたのですか?

江戸店は、普通、上方から派遣されてきた支配人が運営しています。その江戸店は、上方の本店が所有しているものとされています。しかし、支配人が悪意を持っていたら、自分のものとして、強奪する可能性がありますね。

現代では、土地や建物は、登記所の登記簿に記載されていますので、その所有者が明確に確定しています。

江戸店などの所有権は、どの様に確定されていたのでしょうか? 

A 回答 (2件)

江戸時代は基本的に私有地(一般に田、畑、屋敷が対象)は年貢などが課されました。

このためそれらの土地の所有者は明確にされていました。
町地では土地の所有者や面積などを記した台帳として「沽券図」というものが作成されていました。
下は東京都中央区に残る沽券図に関するものです。
http://www.city.chuo.lg.jp/koho/230621/bunka/ind …

農村では田・畑・屋敷について検地帳(一般に「水帳」という)が作られており、また、これらを所有者ごとにまとめた「名寄帳」も作られていました。当然ですが売買等で所有者が変わると訂正されます。これを基に年貢の請求が行われるわけで、村にとっては必須の帳面でした。

したがって所有者が遠隔地にいても年貢などの課役は負担せねばならず、その名義人として所有者は明確でなくてはならなかったのです。

ついでに言えば、江戸時代の年貢は現代風に言えば所得税ではなく固定資産税です。土地に対して掛かるわけですから納付名義人(つまり所有者)は明確に把握されていました。
また大名や旗本は江戸市中に上屋敷や下屋敷を所有していましたが、これらは幕府から貸与された土地(建物は自前)ですから年貢などの課役はありません。しかし中には「抱屋敷」を所有することもありました。抱屋敷は私有地なのでその土地が所属する町や村に対して年貢などを納めねばなりませんでした。
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。
教えてもらって気付きました。私でも知っている太閤検地や、奈良時代の公地公民制があって、農地には年貢がきちんと(厳しく)課せられていたのでしたね。そのながれで、農地以外の土地も、当然お上が把握していたことになりますね。
従って、現代の登記簿に相当する、沽券図・検知図があったのですね。
上方の本店の大旦那も、枕を高くして眠ることができたのですね。
年貢は、固定資産税ですね。大名などは、貸与地に住んでいたのですね
江戸の時代は、かなり精密な社会だったのですね。

お礼日時:2013/06/22 19:28

支店長の他に副支店長もいれば支店長代理もいる



支店長の権限は思ったほど強くはなかった <-何事も合議を持って決するという仕来りがあった
ので、そう簡単に強奪などできない
それに、仕入れ先も顧客も江戸店として取引をしているので、急に看板を掛け替えても以前の様な取引はできない
(支店長は暖簾分けによって独立をする事はあっても、支店を買い取って自ら運営することがなかった)

前例の無い事をしても、周囲が受け入れない
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
所有を明確に表すものはないが、
実質的に、所有権は保障されている、ということですね。
(合議制、仕入先や顧客などの周囲の視点など)

お礼日時:2013/06/22 09:15

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