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  織田の信長はなんで10年間も石山本願寺にこだわって石山合戦をしたのですか?
  他の戦国大名と共に攻撃していたと聞きました
  
 
  あと民衆が組織した一揆が行う救済を認めなかったのはなぜですか

  日本統一が関連しているのですか?

A 回答 (4件)

1556年 斎藤道三死亡により、美濃斎藤氏と敵対関係になる


1567年 稲葉山攻略、斎藤氏を滅ぼす
足掛け12年

1572年 三方ヶ原の戦い、武田家と正面衝突に入る(それまでは、徳川VS武田であり、表面上織田と武田は友好関係にあった)
1582年 甲州征伐 武田家滅亡
足掛け 11年

1570年 石山本願寺対信長挙兵
1580年 石山本願寺、大坂退去
足掛け 11年

先代も考えれば
1535年 守山崩れ 織田信秀VS松平清康
1540年 安城合戦 織田信秀VS松平広忠
1547年 安城合戦以降 織田信秀VS今川義元
1560年 桶狭間  織田信長VS今川義元、松平元康
足掛け 14年(対今川)なり26年(対松平)となる

信長は、石山本願寺だけに10年程度の長期戦を戦ったわけではなく、それなりの勢力を打倒するには10年くらいかかるということです。

他の戦国大名でも、10年単位で戦い続けている例は限りなく多い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%BF%E7%9B%B8% …
里見氏と後北条氏は1516年に最初に戦ってから1577年まで断続的に戦っている。

織田の信長はなんで10年間も石山本願寺にこだわって石山合戦をしたのですか?

と言われても、戦国時代の大名同士の戦いは、その程度の期間かかるのが普通のこと。
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宗教が政治にかかわることを嫌ったからです。


この信長の政策(延暦寺の焼き討ちも同様)のおかげで、ほぼ世界で日本だけ現在政教分離ができていると、井沢元彦さんの「逆説の日本史」で解説していました。

また、民衆が組織した一揆も同様に、本来政治にかかわりのない人間たちの専横を嫌ってのことでしょうね。つまり信長は筋を通していたということです。

この筋を通すということは、当然政治のシステムとして一貫性を持たせるということで、日本統一の青写真の中で行われていると言えるでしょうね。
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この回答へのお礼

詳しい説明ありがとうございます

お礼日時:2013/08/31 17:07

本願寺が信長に敵対する大名たちと手を結んで信長に敵対し続けたからです。

信長は少しずつ周りの敵対大名を倒して、10年かかってやっと本願寺を孤立させ降伏させるまで追い込んだのです。これでやっと京都周辺を安定化させることができました。

一揆は民衆が組織したものでも、救済を行おうとしたものでもありません。
一揆とは、目的を同じにする人々が団結することです。借金に困った人たちが借金帳消しを求めたのが徳政一揆、国人たちが団結して大名に対抗しようとしたのが国人一揆、江戸時代になって年貢が増やされたなど不満を持った百姓たちが、年貢引き下げなどを要求してデモ活動を行ったのが百姓一揆です。
一向一揆は、武士を含む本願寺門徒の人々が団結して、敵対勢力に対抗しようとした行動です。

ちなみに誤解がないようにいますと、本願寺は僧兵を持っていません。
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現在の宗教団体と、その当時の宗教団体は、まったく異質なものです。



石山本願寺に帰依している信者は、土地の殿様に年貢は納めないし、
関所を作って通行税を徴収するし、信者に何かを販売する場合には、
お布施を別途徴収するなど、一種の独立国家を形成していたんです。

だいたい、僧兵という名の軍隊も保有してましたからね。それも戦国時期
としては質量ともに一流の・・・。

独立国家、それも他の国家とまったく価値観が違って、条約なども一切
締結できないんですから、目障りでしょうがないんですよ。おまけにその
支配する地域が、結構優良な農地だったりするわけで・・・。
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