プロが教えるわが家の防犯対策術!

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人間は躊躇いなく虫を殺したり動物実験を行ったり普段から生き物を食べたり、たくさんの命を奪っています。
殺生は悪とされていますが、それをはじめに決めたのは自分が殺されたくなかったから、ではないですか。
善や悪というのは人が決めたものです。
普段牛や豚を食べている人が動物実験に強く反対をしていることがありますが、殺される側にとって理由なんて関係なく命が奪われるのは一緒です。
殺しは悪で、どうしても殺す場合には合理的な理由が必要だというのは、そう言わないと生き物をむやみに殺すことになってしまい人間に都合のいい自然が壊れてしまうからと、やはり人間が決めたことだと思います。
本当は動物は他の命を奪いながら生きていくのに、人間は人間だけの平和を求めて勝手に殺生を悪としました。

私は他の生き物を平気で殺す人間に恐怖を覚えました。
自分も今まで多くの命を奪ってきたのでこのように正当化して考えないと本当に罪悪感に押しつぶされそうになります。
ここ最近このようなことを延々と考えてしまい、答えが出ず、人間は悪だと思って周りの人も怖く見えてしまったりします。
上に殺生は悪ではないと正当化した意見を書きましたがやはり罪悪感はあるし、でも殺さないと生きていけないし、という具合にとても苦しいです。
自分のことを客観的に見たら他の生き物の死など別に興味はなく自分が善良な人間だと思いたいことと、他人が悪に見えてしまい怖くなることに苦しんでいるのかなとも思います。
善悪は所詮人が決めたことだと思いたいのに結局はその感覚に囚われていて矛盾していることはわかっています。
とにかく苦しいです。
たすけてください

A 回答 (19件中1~10件)

我々人間は好む好まざるにかかわらず、今日まで個人から国や世界に至るまで争いや戦争のない時はなかったと記憶しています。

積極的殺人、消極的殺人にしろ、戦いに勝ち生き残ってきた子孫達で世界が構成されている事になります。私も貴方も1億~4億の精子から勝ち残ってきた一人一人です。他の精子は死に絶えました。「天上天下唯我独尊」です。

また、長い歴史は感染症等の原因の細菌類(ウイルス)との闘いでもありました。細菌で多くの人が命を失いましたが、近代になり、人はある程度、細菌を操作できるようになり、人間にとって不必要な細菌を抗生物質で排除(撲滅)できるようになりました。共存出来ればいいですが、出来ない敵も存在するのです。

植物人間になれば別ですが、人間と他の生物との違いは心(霊や感情)があるかないかだと思います。動物と人間に共通してあるのは反射神経あるいは反射神経に類似したものではないでしょうか。先日、テレビで他のペンギンの集めた石ころを巣を離れた隙に横取りしている悪賢いペンギンが動画で写っていましたが、「何で生きてるのか」とか「死んだらどうなるのか」とかは考えないと思います。

その根拠は「私は生まれよう」と計画したおぼえはなく、生命も身体も神によって創造されたと感じられるからです。同時に必ず120歳ぐらいに身体は死ぬように創られています。イエスの弟子は「先生、天国はどこにあるのですか」と聞くと、「天国はここにある、あこにあるというものではなく、あなた方の心の中にあるんだよ」といわれたそうです。

「殺すなかれ」は人間に対しての戒めですが、家族のように主人に愛されている犬や猫等のペットも有効と思います。ようは人間にとって有益なように用いればいいのではないでしょうか。全ては人類のために用意されたものにちがいないですから。
神は人類の共通の親であり、全世界の人類は兄弟であり、神(親)の子供であり、全ての物は親なる神からのプレゼントなのです。
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(長文にて失礼いたします)



「殺生のことで罪悪感を持たずに生きたい。どんな命も奪いたくない。」
そのようなお気持ちが伝わってきます。「命を奪う」ということに鋭敏な
感覚と,真摯な態度をお持ちです。

次の点は,事実に基づいていると言えると思いますので,お役に立てば
幸いです。

>「自分も今まで多くの命を奪ってきたのでこのように正当化して
考えないと本当に罪悪感に押しつぶされそうになります。」
>「上に殺生は悪ではないと正当化した意見を書きましたがやはり
罪悪感はあるし、でも殺さないと生きていけないし、という具合に
とても苦しいです。」

(1)「罪悪感」について
他からの影響を受けた結果でなく,人としての自然で自由な感じ方である
限り,その「罪悪感」は,人間の心の叫びとして受け止めるべきでしょう。
「ああ,自分はこういう気持ちなんだな」と素直に受け止めることです。
失礼ですが,苦しんでいるご自分を客観的に評価することは冷静な判断
にとってプラスになると存じます。

(2)「罪悪感」との向き合い方について
「平衡を取ること」と「道理に合わせる」ことが役に立つと思います。
「平衡を取る」とは,一方のことだけに注目せず,関係する事柄の全体を
考慮に入れようとするということです。「道理に合わせる」とは,「だれ
が見ても認めることのできる“すじ道”」に合わせようとすることです。
私も,いつも自分に言い聞かせています。

例えば,生き物にも感覚があり,それなりに苦しみますが,一方では生き
物の命は,はかないものです。動物類は無限に生き続けるわけではあり
ません。
ですから,例として「殺生の罪悪感」を無限に感じ続ける,あるいは罪悪
感に相当程度支配された人生を送ることと比較すれば,釣り合いの取れ
た見方をするためにプラスになると思います。

また,人と動物の「価値」に対する見方も,平衡や道理にとって重要だと
思います。
人は,どう考えても動物より価値があるのではないでしょうか。それとも,
私たち人間は,牛や豚,犬や猫と同じ価値なのでしょうか。もっとも,人
が生きるためではないのに動物を殺生することは慎むべきでしょう。しか
し,人は動物より価値があるという倫理観・価値観は,広く人間に認めら
れているのではないでしょうか。
 それでも,「たとえ人が生きるためであっても,動物を殺すことは許され
ない」という価値観を主張する人もいます。それは,その人の自由な倫理
観です。しかし,その倫理観は,人は動物より価値があるという倫理観を
否定する効力があるでしょうか。
 それで,殺生に伴う罪悪感を考える場合,「人は動物より価値がある」
かどうかを考えることは,意味があるのではないでしょうか。

(3)殺生の「責任」について
例えば,だれか,鳥や獣,あるいは家畜等を個人的に殺したとします。ま
た,法的に認められた仕方でしたとします。そして,正規の食肉とし
て売られているものを,買って食べる人がいるとします。それぞれの人の
「責任」は,どう評価すべきでしょうか。なかなか高度な問題ですね。

 まず,その人自身が直接,動物を殺したのか,という点は重要です。
また,「動物を殺す行為の性質・程度・意図や動機」も考慮しなければな
りません。「どんな屠畜・食肉加工も罪である」として「責任」を問うこ
とは,おそらくほとんど認められないでしょう。食肉は,人間が生きるた
めに相当の益になっている面は否定できないと思います。

 一方,単なる楽しみごとのために動物を殺すとすれば,その動機や目的
の性質に応じて,徐々に「責任」が発生すると言えるのではないでしょう
か。でも,例えばスポーツとしての狩猟は,何を規準に価値判断するべき
なのかについては,例えば,その地域社会の倫理観もあり,一概には評価
できないと思います。
 しかし,もっと進んで,残虐な態度で動物を殺すとすれば,もはや「罪
悪感」に責められてしかるべきだと言えるのではないでしょうか。

 以上,幾つかの例を取り上げましたが,まとめますと,「関係する事柄
全体をできるだけ知ること」,その知識に基づいた「人としての良心」は
(互いに)尊重するべきである,実際の責任を考慮すること,罪悪感を感
じても,それに支配されるべきではない,動物の殺生に伴う罪悪感に関
しては,「平衡」や「道理」などの理性面も益がある,などの点は,向き合
う上で助けになるものと思います。

(4)参考までに
 「命」とか「罪」を考える場合に,規準がはっきりしなければ,答えを
見つけることは困難です。答えらしきものに行き当たったとしても,確か
なものとは言えません。それで,例えば,動物を食用とすることについて,
「聖書」の中に,興味深いことが書いてあるのを紹介します。それは,
「創世記」という聖書の最初の部分なのですが,有名な「ノアの洪水」の
後,創造者であり命の源泉である神が,動物の食用に関して次のように
告げたということです。
 「 9:1神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、
地に満ちよ。9:2 地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、
海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、9:3 すべて生
きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに
与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。」
(創世記9章1節から3節日本聖書協会口語訳1954年版)

 このように,神は「あなたがたの食物となる」との「布告」を出している
わけです。もちろん,これは「キリスト教」の価値観ですが,動物の殺生と
いう問題を検討する場合に,対象となりうる一定の効力を持った「規準」と
なるものだといえましょう。
 ここで,「食物」と明確に記載されている点に注目できます。つまり,神は,
当初創造された世界に,「自由意思の乱用と神への反逆」という問題が生
じ,それを適切かつ完全に処置するため,当時の「暴虐が地に満ちた」状
態に対して,処置(警告後に洪水を起こす)を実施したのですが,その処置
が終わった後,当初の「青草(植物)」だけを食物とする環境を大きく変化
させることになりましたから,それに対して責任を持ち,人間の食物を担保
するため,動物の食用を許可されたと理解するのが妥当でしょう。ですから,
もちろん「ベジタリアン」の人々もいるわけですが,人類に広く読まれてき
た「聖書」によれば,「食物」とする限りにおいて,殺生は許されるといえ
る根拠があることになります。ただし,いつ,どのように殺生をするかとい
う「実施」の問題については,また別の論点になろうかと思います。

以上です。
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子供の頃(小学5年生の頃)ですので、遠い記憶にもなっていますが、わたし自身が重い肺炎で、肺胞のすべてがつぶれてゆく死のぎりぎりの中で意識が残っていて苦しんだ体験がありますので、



みなさんのご回答よりも、もっとリアルな回答となってしまうと思います。

どう考えても、動物も苦痛はあるはずなのです。同じ生物ですからあたりまえですけどね。


その限り、出来るだけそれが人間のためだからといっても、苦しめない方法を取るべきことは明白な正義ではあるでしょう。

しかし、例えば、

これは半分エスプリみたいな「回答の部分↓↑」
となりますが、



ゴキブリにはほとんど神経が無く、したがって痛覚もほとんどないようなのですが、それなのにヌクヌクムクムク生き抜いているのが、私達がゴキブリを本能的、直感的に嫌う理由のようです。

「ゴキチュワ~ン♪」なんて言いながら、頭をなでなでするのは私ぐらいなものでしょう(嘘ですが^^)

でも、ゴキブリだって、もし偏見ゼロの静かな平和な心で観たら美しいだけだと思いますよ。

虫も殺せない素朴な心というのはそういう心のことだと思います。



でも、虫の神経はもっと進化した動物と較べて小さいことは解ると思います。

同じように、本能でただ無心に生きているある意味動かされている生き物である動物と、私達人間の神経もかなり違うとは思うのです。

苦しみも、いや生物的苦痛のみに限ってすら、相当程度に違うとは思うのです。


動物は、昔の狩りの達人などの話では、本能的に殺されることも自然な大地の営みの一つであることを無心に受け入れて、静かな目をして殺されてゆくというのですが、そういうところも無きにしも非ず、

であって、人間の場合は、そういう動物の死や病気をも出来るだけは助けてあげるべきだし、

それに命を奪う必要がある時も安楽死を工夫してあげるべきだと私は思っています。

大事なのは、平和であたりまえの相身互いの人間性を生きることだと思うのです。

そうすれば、それが多少感情移入という幻想を伴ったとしても、動物の心ももっとわかってあげ、それに答えてあげられる人間の社会も生まれると思います。


上記の狩りの話を聞いていたため、以前 歩くこともまだ出来ない子猫が捨てられていたので、このまま静かに死なせてやろうとしてかなり大きな箱にそっとその二匹を入れて、次の朝「静かに死んでいるかな」と箱の中を覗いて見たら、

そこには二匹ともいなかったのです?

すぐ、やはりほとんど動けない二匹をすぐ近くで見つけましたので、誰かが見つけて外に出してしまったのかと思い、再び中に入れたのですが、さらにお腹がすいているはずのさらに弱っているはずのその子猫たちは、今度は私の見ているまえでその箱の淵をよじ登り脱出してしまったのです。


えっ、こんな子猫がそんなに「生きたい!」の?

その無心な様子に実際に触れることで、私の考えはいきなり180度変化し、急いで牛乳を買ってきて、二匹をなんとか元気にするまで育て、動物愛護協会までトラックで運んだ想い出があります。

二匹はそのトラックの助手席で、まるで子供みたいにはしゃいでいました^^。

かわいかったです(笑^^)


これ、実際の狩りで生活している人達の、動物への感謝の心も、そのいざ死ぬときの無心さの世界も、その神経も、おそらく私達が机の上で想像するのとは違うたくましくも細やかな心や配慮となっているのだと思います。

文明の世の中になり便利にはなったのですが、私達は卓上で物事を考えすぎて、

本質的に、苦しみを抜き楽しみを与える抜苦与楽の気持ちの実現化を、人間という脳を持ちながら忘れすぎていると思います。


すこしでも強くなって、どんなつらい時にも、前を向き、より人間的な明日に向かい、お互いよりたくましくいきていきたいものですね。


事実は事実として認め、であってけして明日の人間性への希望を捨てずに歩き続けてゆく、

もう一度、その悲しみをも乗り越えて、大きな心で、生きなおし、進みなおす、

それが、;


とうとう右の肺胞はすべて失い、左の肺胞もあと少ししか残っていないためにあと三日の命と医者が宣告するのを、まだ意識があり聞いてしまった、心身の苦痛の体験から

その三日後にぎりぎりで峠をこえて助かった命からの、

メッセージです。


神は、存在するにしろ、最初から存在した存在にしろ、そうでないにしろ、創造主であるにしろ、全能であるにしろ、…何にしても、今では誰も助けてくれる存在では無いことは、心の哲学からは解ってしまっています。


人間だけが、命の苦しみを助けてあげる力(その脳)を持った唯一の存在だと思います。

泣いて何ていないで、どんな時にも、希望を失わずに、私達こそが、いつか動物たちをも実際に助けてあげられるようなすぐれた社会を作っていきましょう。

そのために進み続けていきましょう。

生き抜いて生き抜いて、生き抜きながらです。

食べるものはちゃんと食べてです。

たとえ、動物への感謝で涙が流れてきても、

そのために、私達人間の脳は、たしかに今存在の中に実際に存在しているという事実を忘れずに、

倒れても起き上がり、くだけても立ち上がり、

真実を体験の深さを語り続け、語り継ぎつつ、前に前にすすみつづけていきましょう。

ckade11さん、もう一度希望を持ち直しましょう。

倒れない人が強いのではなく、倒れて起き上がる人が、少し強くなっているのだと思います。

がんばってください。
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その苦しみが罪滅しなのではないでしょうか。

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ckade11様、こんばんは。




論理的に考えるクセを、身に付けましょう。


>「人間は悪だと思って、周りの人も怖く見えてしまったりします」

これなど、論理的でない「思い込み」の、最たる事例です。


>「殺しは悪で、どうしても殺す場合には合理的な理由が必要だというのは、そう言わないと生き物をむやみに殺すことになってしまい人間に都合のいい自然が壊れてしまうからと、やはり人間が決めたことだと思います」

これは、イスラム「教」ですか



>「本当は動物は他の命を奪いながら生きていくのに、人間は人間だけの平和を求めて勝手に殺生を悪としました」

・・・これは、ckade11教ですか?


>「私は他の生き物を平気で殺す人間に恐怖を覚えました。
自分も今まで多くの命を奪ってきたのでこのように正当化して考えないと本当に罪悪感に押しつぶされそうになります」

「自分に恐怖を覚えた」ということでしょうか


>「自分のことを客観的に見たら他の生き物の死など別に興味はなく自分が善良な人間だと思いたいことと、他人が悪に見えてしまい怖くなることに苦しんでいるのかなとも思います。
善悪は所詮人が決めたことだと思いたいのに結局はその感覚に囚われていて矛盾していることはわかっています。
とにかく苦しいです。
たすけてください」

それはそれは、苦しい事と思います。
すべては、「善悪」ということを「他者」に委ねてしまっているから、に、起因していると思います。
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よく判らないけど、だから日本ではいろんなものの供養や食事の前にいただきますと言うんじゃないの?



食べないと生きていけないんだから、植物であろうが生き物を食べているので「いただき」生きる。これが健全な考え方に繋がるのかな?とか。
ちゃんと生きる事が命をいただいてる上でのケジメみたいなものとか。

また、日本ではいろんな物の供養をしますよね。ケンタッキーで鶏供養とか
よく考えてみると、それで生活させていただいてる方々が供養をしてる(針供養も針仕事をしてる方々だし。・・・人形供養は別問題みたいですが)・・・ケンタッキーで食事をしてる方々がしてるって聞いた事ない・・・殺して使う事で食わせてもらってる事を知ってるからでしょうね。


生きるってそういう事なんじゃないの?
他の生き物の命を奪って生きてるんだから、その分しっかり生きれば?
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私は以前、様々な凄逆や不条理に付いて、色々と伺い、


また全く構わないというので神仏様方に腹も立て平気で
文句も言ってました

凄逆や不条理の意味を探求されてはどうでしょう?

自分で出来る事からすると?、世界全体へ向けて色々な
霊的働き掛けを行う事だろうと思います、祈りまじない
・呼吸法・イメージング・その他、、どれも簡単な方法
です

食事の時の祈りや、命の犠牲になった生き者達の恐怖や
悲しみを癒すのもいいかと思います

余談になりますけど、これは他の惑星でも起きる経緯な
のかもしれませんが?、、自然界の生物達というのは人
間のような生命体が現れ、本当の霊的知性を獲得し、自
分達の凄惨な環境を改善し、コントロールして欲しい、
という希望のような物を抱き持っているのだとか

その一口、命1つ、日々耐えなく、続く、
膨大な犠牲の上、なのに人の様は如何?・・・
私は時々この自作詞を思い出します
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生命を消すすべてを殺生ということばで一把一絡げにする必要があるのでしょうか?


だからって自分の都合に良いように考えようというのではないが。
生命の誕生以来、いや誕生以前からある生命が存続していくには、循環の法則の中で必要なものを摂取していかなければならないのではないでしょうか?
それがどうして罪悪感や殺生となるのですか。
趣味でつりや狩をするのは殺生でしょう。
自分は蚊やダニの対象になりやすい体質だが、何の躊躇もなく退治しますよ。
これを殺生というのですか?
禁ずる殺生とはそういうものではないでしょう。
質問の趣旨、苦悩が不明ですね。
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こんばんは



殺生が悪いことだとお悩みのようですね
私の考えでは 人間が快適に生活できる環境は 全ての生き物にとっても住みやすい環境です
人間は地球の全ての生き物が快適に暮らせるように自分達の環境を良くすることを 他の生き物からやらされているんです

人間が悪と考えるのは 殺さなくてもよい生き物を殺す時だと思います
植物でも昆虫でも動物でも増えすぎることは 自分達の環境を悪くして絶滅に繋がる可能性が高いのですね
人間を含めた全ての生き物は 食物連鎖により間引かれることにより数を制限している訳です

確かに 今現在は 地球で人間が生命の頂点にいます 間引く選択権は人間にあるように思えます
しかし 人間には他の生き物を間引かなければ快適な環境は訪れないのです ピラミッドは下が崩れたら(絶滅したら)頂点はなくなります
いずれ 生きている人間にも死が訪れ他の生き物の一部となります 

地球環境を含め宇宙も変わっていきます 新しい生き物と世代交代することで 生命は新しい環境の下で命を繋いできました
人間を含めた全ての生き物は 新しい環境の変化に適応する「未来の生き物」=「子供達」のために生きているに過ぎないと思います
人間も生かされているだけですよ
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 あなたの視点は常に自分が殺す側だということ。

これがあなたの苦しみの原因。

 牛や豚を哀れんで罪悪感をもたれておられるようですが、あなたも殺される側であって豚小屋の住人なんです。命を張って守るべきものを守ったらいい。
 
 
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