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  大坂夏の陣において、名城大阪城とともに運命を共にされたと言われている豊臣秀頼公ですが、
次のような伝説・伝承があります。
 ※秀頼公は、密かに大阪城を脱出し、
  (1) 真田幸村公達とともに薩摩へ逃れ、子供も授かり、島津氏の庇護のもと天寿を全うした。
  (2) 備中足守(?)へ逃れ、木下家の庇護のもと密かに天寿を全うした。(幕府も黙認)
  というものです。私は、当時は写真やビデオなど映像が皆無の時代であり、城からの脱出さえ上手くいけば…ありえないことではないと思うのですが、皆様のお考えやそのような説を唱える学者の方がいらっしゃるのかご教示頂きたくお願いします。
  また、島原の乱について「天草四郎は、秀頼公の子供か孫であり、真相は豊臣家の残党が彼を旗印にして、幕府に一矢報いたものであり、いくつかの外様大名が支持すれば幕府の存立にかかわる大事件(単なる一揆ではない)であったという話を聞いたことがあるのですが、真相はどうだったのでしょうか…
  併せて、お考え等をご教示くださればありがたく存じます。
  どうか、宜しくお願い申し上げます。

A 回答 (6件)

>豊臣秀頼公の生存説及び島原の乱について



秀頼の生存に関する伝承は多々あるようですね、皆様より有意義な回答が出揃い、私自身知らないエピソードも幾つか拝見致しまして、非常に興味深いものがあります。
さて御提示された伝説・伝承は、質問者様の興味半分座興半分と理解して、以下申し上げる次第。

釈迦に説法でしょうが、そもそも大阪冬・夏両陣を引き起こした、家康の真の狙いは、秀頼並びに豊臣直系の係累を根絶やしにするというその一点にあった訳で、しかも30万にも及ぶ大軍で水も漏らさぬ布陣を敷いておりましたから、他の枝葉末節はともかく、秀頼の脱出・生存というその点だけは、考え難いものと思われます。

次いで薩摩への逃亡説に言及しますが、恐らく関ヶ原の敗戦後に宇喜多秀家が薩摩に逃れ、島津家を頼った故事になぞらえて流布された、徳川政権に批判的な一般庶民レベルの願望であった可能性が、極めて濃厚でしょう。

無論脱出さえ成功しておれば、薩摩に辿り着く事自体は、物理的に不可能では無いが、そもそも島津家は古より自立した存在、依って豊臣恩顧の諸大名とは異なり、関ヶ原以降の政変劇も、彼らにとっては単に豊臣から徳川へとの権力移譲が行われた結末に過ぎず、自家の存続と旧政権に対する感傷を秤に掛け、敢えて火中の栗を拾う愚を犯す可能性は、ほぼゼロであったものと思われます。

更に足守藩木下家に至っては、御指摘の通り、北政所の実家にして豊臣恩顧の最たる存在であり、最も保身を考えねばならなかった小藩。
浅野家をその筆頭として、確かに家康は北政所の係累を大切に扱ってはいるが、天下の御政道を捻じ曲げるまでの遠慮は考え難く、加えて木下家は大阪の陣以前に一度改易せしめられた前科がある上、その後幕府より2万5千石という新恩を賜ったという経緯もありました。

しかも徳川歴代は、東照大権現の遺法を200数十年後に至るまで、金科玉条の如く護りに護り抜いた政権であって、明確であった家康の意思(秀頼を亡き者にするという)に背く温情は、有り得なかったと考えるのが妥当であろうかと。

さて、福島正則他僅かな例外を除き、本邦津々浦々の大名・小名を大阪の陣に参集せしめ、巷間30万とも言われる大軍を展開させたもう一方の狙いは、豊臣恩顧を始めとする外様大名群にも、豊臣家滅亡の一端を担わせる事で、共同正犯との心理的効果を持たせる事にあったと思われるほど、この当時の家康は悪辣且つ巧妙です。

そもそも源義経・明智光秀他の生存伝説に関しましては、厳密な意味での天下統一という環境下になかった訳で、万に一つの仮説も故無きとはしませんが、一方の豊臣秀頼に関しては、仮に紅蓮の炎に包まれた大坂城を脱出し得たとしても、彼が身を寄せる一片の仮寓すら、この日本列島には存在しなかった、そう断定しても過言ではないでしょう。

以上、歴史のロマンを真っ向から否定して誠に申し訳ないが、秀頼の生存説に纏わる殆んど全ての伝承は、仮説そのものが成り立たないという結論に達しざるを得ないようです。

>島原の乱について

前段に於いて、豊臣秀頼及び彼の係累に関わる生存説を、思い切り否定してしまいましたので、その流れで行きますと、天草四郎=豊臣秀頼の御落胤(或いはその孫)説も、否定せざるを得ませんが・・。

まあ島原の乱の本質に関しては、信教の自由・過重な年貢の取立て・徐々に強まってきた身分制度の固定化に対する、不満分子の複合形といった事なのでしょう。

但し「世に乱の兆しがある限り・・」という事で、大阪の陣の終結に依り、行き場を失ったアウト・サイダー達(或いはその係累)が籠城軍に加わり、戦国乱世最後のシャッフル・敗者復活戦を意図したという側面・ロマンをも、決して否定は致しませんが・・。
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この回答へのお礼

 ご回答いただきどうもありがとうございました。
 今回様々な方からご回答を頂戴し、これまで知らなかったことも幾つか学ばせていただきました。と同時に、自分の勉強不足を痛感させられた思いです。
 さて、今回のご回答、ここまで明確に否定されると、むしろ清々しい思いであります。冷静に考えると確かにそうなのかもしれません、徳川幕府は(というより日本の組織は)愚直なまでの先例主義を執っていました。仮に、暗黙の形とはいえ、秀頼公を助命したら、それが先例となり後世に禍根を残す…非情なまでの現実主義者家康公が変な温情を見せることは考え難い、また、当時の諸大名も取り潰しを恐れて縮込っていた状態であり、敢えて火中の栗を拾うか?と言われれば「それもありうる!」と言い切れる自信は私もありません。
 島原の乱については、天草四郎の件は別にして、領主の悪政やキリシタン弾圧に対する民の反発に、改易大名家の浪人たちの「今一度!」という思惑が絡んで発生したというお考えは同感であります。ただ、それに対する幕府の対応を見ると「裏に何かあるな…」と勘繰りたくなります。
 ただ、情において秀頼公に関しては、現実はわかっていても万に一つの可能性があれば…とも考えてしまいます。今回の質問は飛躍した面もありましたが、是非とも皆様のお考えをお伺いしたい思いで投稿した次第です。あまり現実(歴史の基礎)ばかりを見ていると面白味が無くなるし…、かと言ってロマンばっかり追いかけていると見る目が曇ったり、誤った見方をしてしまうし…。その辺のバランスをいかに取るかは難しいところです。物事に流されやすい私は特に心しなければと改めて思いました。
 そのような思いに至らせ頂いたことも含めまして、今回は誠にありがとうございました。

お礼日時:2013/10/17 14:37

長崎県・平戸のオランダ商館長、リチャード・コックスというカピタンが、大坂落城直後、わずか1か月後という、ほとんどリアルタイムで、秀頼の、阿波、薩摩、琉球等への逃亡各説が、世間に流布している、と書いていて、それらを紹介しています(『大日本史料』所収、東大史料編纂所)。



また、島原の乱は、徳川幕府を激震させた九州大反乱であったことは確かです。戦闘方法に無知なキリシタンの庶民や百姓たちだけではなく、関ヶ原や大坂の残党である武士たちが、相当数、指導部にいたこともわかっています。滅んだ豊臣家とのつながりが、ここでも噂されています。

これらを正面から研究する専門の歴史学者はいませんが、在野の研究者は多いのではないでしょうか。

ちなみに、古書となりますが、『豊臣家存続の謎』『天草四郎・島原決起の謎』(日本文芸社、前川和彦)をご参照ください。
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この回答へのお礼

 ご回答いただきどうもありがとうございました。
 庶民の間にそのような説が流布していたとは…。同情や願望から来たものもあったでしょうが、「火の無い所に煙は立たぬ」とも言われますし、あながち的外れではなかったのかも…。そういえば、確か当時の京都で「真田が秀頼様連れて…」という内容のわらべ歌が流行ったみたいです。
 さて、「島原の乱」についてですが、「乱」とは反乱、内乱を意味し、ある程度の武力戦が伴うときに使用されます。(例「保元の乱」「平治の乱」)
 百姓一揆の場合は「~一揆」と呼称します。(例「郡上一揆」(江戸後期に美濃郡上郡で発生した)。ネーミングが「島原の一揆」ではなく「島原の乱」となっていることを見ても、これは局地的な内乱ととらえたほうが良いと私は考えます。学校で「島原の乱」のことを百姓一揆と混同して教えているから、その様なイメージで見ている人が多いのかもしれませんね。戦術的にもかなり巧妙であり、先程回答を頂いた方も、旧小西家等の浪人がだいぶ入り込み、指揮を執っていたとのご教示をいただきましたが、今述べたことを勘案すると、旧豊臣家とのつながりはあったと私個人は考えます。鎮圧にあたった幕府が、当初から、重臣の板倉重昌に指揮を執らせ、後に老中の松平信綱を派遣したことを見ると、幕府も相当危機感を持っていたのではないでしょうか。(将軍家光が自ら出陣することも密かに検討されたらしいですから)
 ご紹介頂いた、『豊臣家存続の謎』『天草四郎・島原決起の謎』の2冊の史料につきましては、近くに図書館がありますので、探してみようと思います。
 今回は、本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/10/16 03:12

天草四郎はオランダ人とのハーフです


まぁ秀頼が薩摩に逃れてオランダの娘との間に作った子 という可能性も無くはないですが…


こういう死に方をした人物は必ず生存説がありますね

源義経…衣川で難を逃れ北海道に渡ったのちモンゴルへ行きチンギスハーンに
織田信長…本能寺を落ち延び裏で天下を支配
明智光秀…山崎で落ち延び天海と名を変えて江戸幕府のブレーンに


ただ
この秀頼が薩摩に逃れその子が天草四郎…
という話は かつての大阪の陣に参戦した武将の子が
島原の乱で四郎を見て「大坂にて拝謁致し秀頼公に尊顔瓜二つの事…」と述べている記述があります

つまりかつて自分が大阪で謁見した豊臣秀頼に天草四郎が激似だった と言っているのです
ご承知のとおり秀頼は秀吉には似ず母の淀殿に似てイケメンだったと家康も言っています(家臣の本多佐渡に宛てた手紙で)
ですから四郎が秀頼の子だとしたら
似ていたという事もありえますし そうするとあながちこれは伝説ではないのかも?
と思えなくも無いですよね
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この回答へのお礼

 ご回答いただきどうもありがとうございました。
 確かに、生存説はたくさんありますね。昭和に入ってからも、満州で暗躍した川島芳子や名参謀辻政信など、古今東西を問わず語られています。
 ただ、秀頼公の伝説については、昔からいろいろな方面で見聞きしておりましたし、あながち荒唐無稽な話ではないなと思っておりました。質問文にも書かせていただきましたが、当時は写真などの映像は皆無でしたし、城内からの脱出にさえ成功すれば、現代に比べてはるかに逃亡しやすかったと思われます。
 また、隠れシンパが存在してたでしょうし、どこかで天寿を全うしたのかなと思っております。
 天草四郎の話は、非常に興味深く思いました。ご教示ありがとうございました。私なりにも調べてみたいと思います。でも、オランダ人とハーフだった説があるとは… まさに、"じぇじぇじぇ…"ですね。
 今回は、本当にありがとうございました!

お礼日時:2013/10/14 17:58

佐竹藩士長山千齢が文政期に書いた「耳の垢」に


下記の記述がある。

享保期に薩摩藩家老猿渡某が老中松平左近将監に会い、
藩に住む十七歳の男子の所持した大事な物といい、黒塗り
の古い小箱を渡した。
将監は吉宗に言上し、吉宗があけると中には、家康の
書いた太閤秀吉にあてた起請文があった。
「秀頼が15歳になったら、天下の政務は秀頼に属す」
との内容であった。
その後薩摩の守がその男子同道で吉宗に参上した。
その男子はお咎めなしとし、赤坂山王の神主(500石)
として抱えられ、樹下民部と名乗らせたという。

秀頼の子孫とすると、秀頼の脱出、薩摩生存となるが、
この伝聞の信憑性、また秀頼の証拠はないことから
あくまでも伝説にに過ぎない。

伝聞が確かとしても、他人が文箱を持ちだしたと考え
られる。
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この回答へのお礼

 ご回答頂き、どうもありがとうございました。
 非常に興味深い話です。「耳の垢」ですが、私も何とか探して目を通してみたいと思います。
 このような史料が残っていることから考えても、「火の無い所に煙は立たない」の言葉通り、何かあったのではないかと思います。吉宗時代には「天一坊事件」という出来事がありました。ご指摘の出来事と「書付を幕府に提出した」共通点があります。「天一坊事件」の結末については、関係者の処罰となっています。相当吟味したみたいです。おそらく、この件も幕府は相当吟味したでしょうし、薩摩藩にしても、虚偽とバレれば、「お家断絶」の可能性があったと思われます。薩摩の守とは、当時の薩摩藩主を指しますから、藩主自ら将軍に引き合わせたことになります。そのようなことを考えますと、「耳の垢」の記述が事実ならば、かなり信憑性は高いと考えますが…
 しかしながら、これを裏付ける確定的な証拠や史料は絶対に出てこないと思います。幕府にとってあまり都合のよい話ではないからです。残念ながら、歴史の裏といいますか、永遠にミステリーの域を出ないのではないでしょうか。だけど、このようなことを考え、探究するのも歴史を趣味とする者の醍醐味ではないかと私は思っております。楽しみでもあります。
 今回は本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/10/14 14:13

学者さんてのは、あんまり面白半分なことをやっちゃいけませんわね。

当然研究の根拠になるのは公文書的に信憑性が高いものとなります。日本政府の公式文書に「ロッキード事件はCIAの陰謀でした」なんてことが書いてあることは決してないわけで、当然真面目に研究している人からすれば、信憑性の高い資料に記載がないことは「信用するに足りない」ということになるかと思います。

あの平賀源内は実は最後は人を殺めて獄死していましてね。ところが源内にも生存伝説があるんです。ある地方の旧家には隠し部屋がありまして、その部屋では密かに平賀源内が暮らしていたとその家では代々伝わっているそうです。しかも、平賀源内と親しい人脈は小伝馬町の獄に顔が効く人が何人もいまして、当時の老中、田沼意次とも源内は交流がありましたから、密かに源内を逃すことは状況的には可能だったんですよ。しかし、当たり前ですがそんなことが公けになったら大変ですから、表ざたになるってことは絶対にありません。
またあの昭和大事件のひとつ、三億円事件も犯人は不良少年だった警察官の息子であるというのが今はほぼ確定しているようですが、これもまた警察の体面に関わることでもあるので(もし当時そのことが明らかになれば警視総監の首が飛んだともいわれています)、今後も決定的な証拠が出ることはないでしょう。

そういう決定的な証拠が出ないあたりが、むしろ歴史のミステリーの魅力であるともいえますよね。

さて本題ですが、秀頼生存伝説については、私個人はとても面白いと思いますが、決定的な証拠なんかどうあったって出るわけがないのですから伝説の域は出ないでしょう。まあ江戸幕府としても、いくら秀頼自身が危険な人物ではなかったとしても存在そのものが幕府を転覆しかねないものではありましたから、黙認したってのは考えづらいでしょうね。無名の侍に名前を変えて密かに暮らしていたところを、幕府の刺客が迫って、なんてのは小説としては面白そうですね。

天草四郎伝説は、ああいう宗教的指導者というのは誇張された伝説はつきものですからね。
ただ江戸幕府は、あえて天草の乱が発生させたという説があります。戦国時代、金で雇われて立身出世を狙うフリーの武士というのが大勢いたのです。ところが天下統一の世となると、正規雇用の武士ではなかった彼らは浪人となってしまったのですね。彼らは戦争慣れしている上に武装しているわけですから、もう幕府にとっては危険極まりないんですよ。元軍人がライフル持ってそこらじゅううろちょろしてるようなものですからね。大阪の冬夏の陣で、主に豊臣側に浪人の多くが雇われて敗北することでだいぶその数を減らしたのですが、まだ多くの浪人が失業者としてうろちょろしていて、彼らは再び戦乱の世がくるのを望んでいたわけです。
そこに「島原では今、天草四郎という者の元に大勢人が集まり、乱を起こすようだ」という噂が広まるとその浪人たちは続々と島原に集まるんですね。幕府は彼らを一網打尽にできるチャンスとみてあえて彼らを島原に集めさせた節があります。
で、実際に乱が起きると、天草軍は浪人の集まりとはいえ実戦経験豊富な古強者の集団、一方幕府軍はもう戦場を経験したことがない人が主流のアマチュア集団だったので散々苦戦することになります。そりゃそうだわな。ちなみにあの宮本武蔵も武士として雇われるチャンスとみて幕府軍側に一時雇用で参加しますが、大ケガを負ってとうとう望みが叶うことはありませんでした。どうも宮本武蔵、選手(剣客)としては超一流でも監督(指揮官)としての才能はなかったようです。長嶋さんみたいなもんだったんでしょうね。
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この回答へのお礼

 ご回答いただきどうもありがとうございました。
 確かに、この手の話は、絶対証拠や史料が出てくる訳がなく「永遠のミステリー」なのでしょう。でもたまには、そんなことを空想することも歴史を趣味とする人の醍醐味ではないかと思います。
 三億円事件の話は、私も聞いたことがあります。現場ではあと一歩のところまでいったらしいです。
 平賀源内の話や島原の乱の裏話については、初耳です。私もまだまだ勉強不足ですね。大変参考になりました。
 平賀源内といえば、確か「土用の丑の日に鰻を食べる」習慣を考案した人なんですね。アイデアマンだったんでしょうね。
 島原の乱については、ご回答内容を拝読し、改めて歴史の闇の深さを感じました。徳川氏の天下取りまでのプロセスを考えると、このような非情な手段を講じてもおかしくないなと私も思います。
 本当に勉強になりました! どうもありがとうございました。

お礼日時:2013/10/14 13:51

小説のネタとしては面白いかも知れない



1.薩摩までどうやって移動したのだろうか?
 薩摩側に何かメリットがあったのだろうか?

2.木下家に何か思惑があったのか、メリットがあったのか

オマケ.天草四郎自体が後世伝説化したモノであってその素性自体に疑問符がつく
 もし、その血筋が事実なら何で大々的にアピールしなかったのか?
 地方豪族の家老筋?よりもよっぽど注目されたとおもうが・・・・

似たような話であれば、駿河大納言もあれば、義経北帰行説もある
皇室関係にもそんな地方伝説があったような気もする

何れも伝説
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この回答へのお礼

 ご回答いただき、ありがとうございます。
 確かに当時の情勢を考えると、島津氏にとっては、メリットよりは「取り潰し」というデメリットとの方が大きいですね。そこまでの危険を冒してまで天下を狙う時代でもありませんしね。
 木下氏は、秀吉の妻、北政所の実家にあたるので、情において匿ったのではないかと思ったのですが…
やはり、「取り潰し」のリスクを考えると、幕府が暗黙に知らないふりをしたという前提で立てた仮説です。
 島原の乱につきましては、都市伝説なのかな…
 確かにこの種の伝説はたくさんありますね。でも、そんなことを空想するのも歴史の醍醐味。のめり込んでは、目が曇ってしまいますが、少しくらいならと考える私です。
 今回は、本当にありがとうございした。

お礼日時:2013/10/14 13:40

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