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諸の聖典に綴られている言葉、教えを通じて神に近づくという場合、その言葉、教えは道標のようなものと考えられる。
この時、その道標たる言葉や教えを信じて精励するのであるが、どのような境涯に至れば、それらの道標達は役目を終えたといえるだろうか。
それともいつまでも、それらが道標として機能するゆえに、道を踏み外さないでいられるのだろうか。

A 回答 (7件)

「基本に始まり、基本に終わる」


という言葉があります。
よくいわれる言葉ですが

「なぜ? 基本なのか?」
が分かれば卒業なのだそうです。
それくらい「基本」が大切だということだと思います。

同様に
「道標」はなぜ「道標」なのか?
道標の深い意味が分かったとき、はじめて道標は、その人のものとなるのでしょう。
その人のものとなって一生忘れることはない。
そんなふうに思います。

>神に近づく

眠っている神様にいくら呼びかけても起きてこない・・
でも
眠っているふりをして聞いているのかもしれない・・
もっと呼びかけなさい、大きな声で・・と
道標の言葉とは、そうしたものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほどです。基本がなぜ基本であるのか分かれば、基本をマスターしたことになる、ですか、道標についても同様だと。

お礼日時:2013/12/06 23:51

 こんにちは。



 ★ 神に近づく
 ★ どのような境涯に至れば
 ★ 道を踏み外さないでいられる
 ☆ これらのすべては 人間の――あるいは じんるい全体の――判断に帰着します。

 人間の判断なる能力は 万能か?
 とうぜん 有限であるとなります。

 言いかえると この問いのすべては あとは一人のひとの主観という問題に行き着きます。ひとりの主観の問題でしかないとなります。



 これをさらに言いかえると 問題は もしそれでもひとつの主観を超えて その内容が共同化しうると(つまり 人びとのあいだにコモン・センスをかたちづくり得ると)するならば そのときには 《神に近づく / 道を踏み外さない》といった外形的な主題としてや切り口において問う〔だけ〕ではなく ずばり《境涯》の中身を問い求め 互いにその・とにかく主観の外に表現された中身を吟味検証しあう。ということ。ここに帰着します。

 


 ★ どのような境涯に至れば、それらの道標達は役目を終えたといえるだろうか。
 ☆ これは しかしながら けっきょく《神に近づく》とはどういうことか? に帰着します。

 だとすれば 

 ○ 神とは何か? 
 ○ 神とわれとの関係は どういうことなのか?
 ○ ・・・
 
 といった主題を立てて扱わねばなりません。
 問い求めには 切り口と順序とがあります。


 このように知ることは たぶんひとつの道標がその役目を終えたと言えると自負しています。そういうひとつの段階の境地です。

 主題を一つひとつ 地道に問い求めること。その中間報告を互いにつねにおこなうこと。そういう問題ではないでしょうか。
 行き当たりばったりでは 用を成さないと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
その境涯の中身にその答えを求める、それは妥当だと思います。中々言葉にするのは難しい事柄ですが、一つ一つ言葉にして行く作業が理解につながるのかもしれませんね。

お礼日時:2013/12/06 23:54

 


>そのような諸々の徳たるものが、人間の信じるべきもの、人間の真理ではないだろうか。

例えば聖書にはおびただしい数の奇跡の話が盛り込まれています。
これらの奇跡が真理でなくただの演出であり偽りであるとすると、例え聖書が善や愛や徳、友や賢、清いことを説いたとしても、真理を説いてはおらず偽っている以上道標には成り得ないゆーこと。
 

 
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この回答へのお礼

私はそうは考えない。見るべきところを見て、見なくてよいところは見なくてよいと考える。たった一つでも金言を得たならそれでよい。それで十分道標にはなるだろう。読む側の問題であり、その書が満遍なく正しくなければ我慢ならない人は、その書を放棄すればよいのだと思う。誰かにとっての道標が、万人にとってもそうであるということにはならないだろう。それぞれの人が、何処から道標を得ようとも構わないだろう。

お礼日時:2013/12/06 01:19

a_hona様、こんにちは。




「参考資料」と思います。
(今回、それでよかったとしても、次回それでいいとは限らない)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど、一種、参考資料のようなものかもしれませんね。

お礼日時:2013/12/05 15:24

>>この時、その道標たる言葉や教えを信じて精励するのであるが、どのような境涯に至れば、それらの道標達は役目を終えたといえるだろうか。



○道標即我、我即道標の境地に至れば一つの道標の道は卒業したといえる。この世で仏神の道標の一つでも押し通せば当然、肉体生命の危機もあります。しかし、道標即我、我即道標の境地に至れば肉体生命など気にもかけないでしょう。吉田松陰や坂本竜馬などはそのような生き方のように見えますね。肉体生命や家族や地位や名誉、つまり、自身やこの世のことにかまうようなより良い生き方を目指すようでは道標の役目が終わることはないでしょうね。道標が神の教えであるということは道標即神ということなんですね。それが神の世界の掟ですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
それは大変難しいことですね。命よりも法が大事だというのは、私には計り知れません。過去の偉人たちはそのようであったのかもしれないですね。

お礼日時:2013/12/05 15:23

>善や愛や徳、友や賢、清いということなどについて書いてあるが、それらを読んだだけでそれらを身につけることはできないだろう。



聖典が善や愛や徳、友や賢、清いということなどについて説いたとしても、真理を説かなければ道標には成り得ないゆーこと。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そのような諸々の徳たるものが、人間の信じるべきもの、人間の真理ではないだろうか。

お礼日時:2013/12/05 15:21

 


>この時、その道標たる言葉や教えを信じて精励するのであるが、どのような境涯に至れば、それらの道標達は役目を終えたといえるだろうか。

聖典に綴られている言葉、教えはそもそもその出発点において既に道標としての役目を終えているのではないか。
奇跡で始まり奇跡で終わる聖書物語などはその出発点において既に道標としての役目を終えていると考えます。
 
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この回答へのお礼

例えば勇気という言葉を知っただけで勇者になることはできない。勇気という言葉を知って、それがどういうものであるかを体得してこそ勇者となる。諸の聖典の言葉も同じではないだろうか。善や愛や徳、友や賢、清いということなどについて書いてあるが、それらを読んだだけでそれらを身につけることはできないだろう。それで精励することが必要であると説かれる。
書物の始めであろうが中ほどだろうが、終わりであろうが、有意義な言葉を一つでも見出せたなら、その読書は有意義なことだったのである。

お礼日時:2013/12/05 07:55

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