天使と悪魔選手権

儒教は魯という国で、確かに統治がよくなったそうですが、小国でした。(争いなどで孔子自体は魯から出てしまいますが)

実力主義で身分制度(秩序)が崩壊しすぎてというのが孔子の説得力の背景にあると聞きました。

儒教というと明とか李氏朝鮮ですが、安定期に統治しやすくする意図が感じられて、一本でやっている国って弊害があるように思えます。

明の官僚は絶えず命の心配してたとか、李氏朝鮮は両班の派閥争いなど。

中国は儒教と道教だといいます。
儒教が人為的でそれに対して、道教があるとか。

日本も儒教(朱子学、陽明学があるものの)も思想の一つにしかすぎないですね。

いかがでしょうか。

A 回答 (5件)

儒教はそれなりに貢献してきたのですが、弊害も


多いです。

1,儒教そのものの弊害。
・徳のある君子が世を治めればうまくいくということで、
 人治主義になり法治主義が根付かず、結果、汚職
 が盛んになってしまった。
・社会を治める技術として、上下秩序を強調したため、
 新しいことを積極的にやっていこうという気概が
 失われ、発展が阻害されてしまった。


2,政治と結びついたための弊害
儒教圏では、政治と儒教が結びついたため、聖と俗が
不可分になってしまった。
・だから公私の区別がなく、汚職が当然となった。
・知識人の目的が政治において出世することになって
 しまった。
 杜甫や李白は皆キャリア官僚。
 ここから、万巻の書を読み何もしない、なんてのが
 尊敬される反面、額に汗を流す職人などが軽蔑される
 ようになり、工業面において遅れることになった。

 
3,道教との関係
人間には、聖なる部分と俗なる部分がある。
俗なる部分を抑制するのが聖なる宗教だが、中国の宗教である
道教は、富貴、長寿を理念としており、聖なる部分が
弱く、中国人の俗化を抑制する思想が育たなかった。


”日本も儒教(朱子学、陽明学があるものの)も思想の一つにしかすぎないですね。”
    ↑
日本は、教養ですね。
それに比べて、韓国などは宗教になっています。



 
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この回答へのお礼

整理していただいて、ありがとうございます。

結局、聖と俗が分かれてないといけないのですね。

法治でも徳がないといけないというのが現代日本なのかもしれないですが。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/03/31 19:50

確かに儒教にも弊害があります。



そして仏教にも道教にもキリスト教にもあらゆる宗教や思想にも弊害があり
科学にでさえ弊害があります。

なぜ弊害が起きるのかを考えてみますと「人間は自分の好きなように解釈をする」という
特性を持っているので、あらゆることに弊害が付きまといます。

孔子の時代、孔子の掲げた儒教の具体的な教えは、その時代にマッチしていたと思います。
歴史や時代背景を知り、孔子がいかように考えてその教えにしたのか。
孔子を理解しようとすることで孔子の思いと、儒教の根本が見えてくるかなと思います。

分かりやすく話されている表面的な教えは、その時代時代によって変化します。
根本を理解してしまえば、どの時代にもマッチする教えの一つとなり得ます。

表面だけを見て教えを守り続けたり、解釈を自分に都合の良いように変えたり
言葉尻や揚げ足取り、屁理屈を作る元として利用すれば
どのような物にも弊害が付きまといます。

根っこまで見据えることができるような、真っ直ぐな目を持つことが
弊害から自分を救う手段だと思います。

いつの時代も、何に対しても弊害はつきものです。
それを踏まえて読み解くなり選択するなり行動するなりが、個々に必要なのだと思います。

弊害は教えの中に無い。
それぞれ個人の中にあるものが弊害となって現象として現れる。
問題は、そこにあるのかなって思っています。

あなたも持ってる、私も持ってる、一つ間違えば弊害となる。
その認識があってこそ、常に自分が弊害に足を突っ込まないでいるかと確認できるのだと思います。
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この回答へのお礼

普遍の原則はあれど原則であって、運用まで普遍はないということなんでしょうね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/03/31 19:56

儒教での「正しさの根拠」とは、「ある権威者の言葉」だけであり、「なぜ正しいのか」「より正しい考えを導く手続きとは」などを一切示さないことです。

その教えの正当性とは、「古来から正当とされて来た」というだけです。仮定としては、「封建社会だけが続く」「一部の階級の人だけが政治を考えるべきである」などです。
支配階級(特権階級)がその社会を「儒教に(一部だけでも)従う」と宣言することで、自分たちへの批判の一切を封じることが可能となるのが儒教だと考えられます。事実そのように使われて来たようにも認められましょう。
ご心配のような弊害が確実にあったと考えております。
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この回答へのお礼

なるほど。

人治主義ってなんとでもできるという欠点がありますね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/03/31 19:57

儒教は中国では葬儀など全部儒教式だから、あちらでは立派な宗教だけど、日本では葬儀はたいてい仏教でやるから、宗教とは思われておらず、儒学という学問です。


江戸時代の幕府が林羅山や藤原惺窩に命じて、儒教の中でも南宋の朱熹(朱子)の朱子学を官学として全国の藩校で教えるよう指導しましたが、南宋の封建制を合法化する身分制度を日本にも導入しようとして、その結果「士農工商」の身分制度を作ったけど、実際は官僚である武士階級と庶民しかいなかったと言われます。
朱子学はその自然法によって、身分制度が恒久的なモノで天が定めた永遠のモノといったけど、江戸時代も元禄の頃になると町人・商人が商品経済の進展で実権を持つようになると荻生徂徠や伊藤仁斎が現れ、人間の身分の平等が唱えられ、身分制度が崩れてゆき、幕末になると有名無実になりました。
明治になって、日本のナショナリズムの台頭に伴って、儒教教育が盛んになり、明治天皇を中心とする同心円的な家族国家観の「イデオロギー」として復活しましたが、敗戦とともに雨散霧消しました。
思想もそれを担う階級が異なると変質を蒙るのが避けられません。
中国で儒教を担ったのは士大夫という官僚階級だったけど、日本で儒教を担ったのは戦士である武士階級とか町人・商人という、儒教では卑しい身分とされた階級です。
だから、当然、儒教は日本に入ると本場中国とは似ても似つかない思想に変質しました。
中国では「孝」や「礼」が重んじられたけど、日本では「忠」が重んじられ、「礼」は無視されました。
「仁」が中国の官僚階級の徳目だったけど、日本の武士階級はもともと戦士だから「仁」なんか大切とは思わず、戦闘力が重んじられました。
儒教で一番大切なのは「礼」です。
しかし、日本人は「礼」が大嫌い。「戒律」だとか「規律」が大嫌い。
奈良時代に唐から鑑真和上を招いて仏教の戒律を授けてもらう羽目にもなりました。
それを最澄は大乗戒といって骨抜きにしてしまいました。
それほど、日本人は「礼」とか「戒律」が嫌い。
だから儒教の経典でも、あまり「礼」が書かれていない「論語」が人気です。
中国では儒教で一番大切な経典は「礼記」なのとは対照的です。
結局、日本人には「儒教」は体質に合わないのか、末端までは浸透せず、表面的な知識にとどまりました。
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この回答へのお礼

日本の儒教の経緯ですね。

わかります。日本では何か儒教とか受け入れない気がします。

逆にフラットで荒れる傾向にあるので、きっちりしないといけませんと教えないといけませんね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/03/31 19:52

儒教は本質的に「人治主義」の思想です。



歴史上、漢帝国以降の体制では儒家は必ず法家と共に用いられました。

仕来りに従い、目上に逆らわない教えの儒教は支配者に都合のいい教えだったのです。

しかし儒教を推し進めると、孝行息子が罪を犯しても、それが親の為であるならば裁けなくなってしまいます。

その為に法を用い、表面上は道徳を重んじるわけです。

完全なダブルスタンダードです。

面白い事に現在進行形で、中国では儒教の復権が国家計画で行われていますよw
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この回答へのお礼

本当は法治の中で人治的なものが必要なんでしょうね。

ダブルスタンダードは柔軟性で大事な場合もあるように思えます。2つの原則をあてはめて使うというのは適切に適用できる場合もありますね。

でも場合によるので、なんとも言えないことは多いですね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/03/31 19:55

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