カール・レーヰットが 《名前 または 固有名》をめぐって次のように言っているそうです。
▼ (K.レーヰット) ~~~~~~~~~~~~
( a ) 或る人物にとってほんとうに固有の名は もっぱら一人称の人称代名詞 すなわち《私》である。
(レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.70
Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この主題は じつはすでに問うたことがあります。
【Q:《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7592307.html
先行する問い求めがあったということの確認のためにも あらためて掲げ じつはそのあとに 別様の主題を問います。
まづ確認すべきレーヰットの文章を拾います。
▼(同上・承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~
( b ) このいわゆる代‐名詞だけが各人それぞれにぞくする。
( c ) 一般化された「〈私〉なるもの」(* ここには傍点が振られていますが 省略します。以下にも同様箇所があります)あるいは「〈ぼく〉なるもの」は 「たんなる〈きみ〉」同様 意味に反した語りかたなのだ。
( d ) 〈私〉はただ「私がある bin 」としてのみある( ist ) つまりそのつど固有の一人称としてだけあるからである。
( e ) 或る者自身にとっては その呼び名もじぶんに固有のものではないことをもっともよく証明するのは 「そこにいるのはだれ?」という他者の問いに対して 思わず「私」(です)と答えてしまうという事情である。
( f ) 根源的にいえば ひとはその固有の名で他者に知られて(ベカント)いるのであって じぶん自身にとってはその名では知られていない(フレムト)からである。
* 引用者註:この( f )は 前後の文脈から言って
意味があいまいであるように思います。
( g ) 子どもがじぶんについてまづはなまえで語り出すという よく知られた事実もこの件と矛盾せず かえってそれを直截に証明する。じぶんを名前で語ることが子どもにとって可能であり自然でもあるのは 子どもは自身にとってなおまったく〈私〉ではなく したがってじぶんについて名を挙げて三人称で語りうるために すこしも自己を疎外する必要がないからである。
( h ) これに対して すでに「私である( bin )」というしかたをしている者にとっては――たとえば会合での自己紹介でよくおこなわれるように――なまえを使って自己をしるしづけるたびに それは人為的な自己疎外を意味する。というのも じぶんの名を使ってじぶん自身を紹介するとき ひとは自己自身であるにもかかわらず じぶんについて他者のように語ることになるからだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ところが このあと ひとは もともとは固有の名である《わたし》ではなく 呼び名としての《何の何べえ》という名前で呼び合われ 社会にあって互いに交通するとき そのような《共同存在性》は それぞれの人において《中立化》するとも言っている〔ように読めます〕。
ほかに誰も同じ存在はいないところの《わたし》が 何の何べえという呼び名を得て互いに共同存在であることによって社会的に中立化するというのは しかしながら 存在にとってはなおまだ互いの関係性としての接点を成す《縁側》のことを言っている。に過ぎないのではないだろうか?
これを問います。
共同存在および中立についての説明は つぎです。
▼(承前) ~~~~~~~~~~~~~~~
( i ) 他者とのこのような生の連関からはまた 伝記の主題となる《生 レーベン》の意味を見てとることができる。・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかったなら その生はいかなる生でもなく そもそも伝記の対象ともなりえなかったことだろう。
( j ) 伝記とは「他者(フレムト)の生を理解する文学的形式」(ディルタイ)なのだから 伝記的に描かれた生そのものも その生も外化〔表現〕の個別的な細部にいたるまで なによりも個人が有する同時代の生の‐関係によって規定されている。・・・
( k ) この一者(アイン)が他者(アンダー)に対して有する生の関係 両者の共同相互的な(ミット‐アイン‐アンダー)ありかた・・・。互いに‐共に‐在る(ミット・アイン・アンダー・ザイン)ことによって中性化されて 個人の生は 未規定的に‐規定された 生が生であるありかたとなる。私たちが単なる生なのである。
* (引用者註ないし疑問:)《互いに社会共同の存在と
なること》と《それが中性化すること》とは 別ではないか?
《中性化した存在》というのは まだ《わたし》なる存在の
一部分であって それは いわば他者との接点としての
縁側のような側面であるのではないか?
( l ) 個人が他者たちととりむすぶ生の連関によって 固有の種類の生がかたちづくられる。個人の現存在は共同相互存在のうちでこのように中立化されるが このことは たんなる生という言語的に中性(ノイトラル)の冠詞が有する 事象からして中立的な(ノイトラル)な意味そのものにおいて告げられている。
( m ) 生の経験 生を知ること 生の諸要求を充たすこと等々といった表現のすべてが捕らえているのは 互いに共に在ることでこのように根源的に中立化された生である。
~~~~~~~~~~~~~~~~
引用の途中に差し挟んだ疑問について 問います。どうでしょう?
すなわち
▼ ( i ) ・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかった
☆ としても その人の《わたし》は固有に生きられている。つまり そこに――社会にあって とにかく人びとと共に――あるなら それは 《にんげん》の生である。のではないか?
すなわち すでに植物人間であっても その《わたし》なる存在は にんげんである。
A 回答 (11件中1~10件)
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No.11
- 回答日時:
この質問は、私が縁起説には相互関係の解釈もあるという話をしたことを受けての
質問なのでしょうか。
知らないけど
華厳教学は、たしか奈良の大仏でしょう?
みんな奈良の大仏に文句を言っているのでしょうか?
毘盧遮那仏。
というか、因果関係の十二因縁ならそれはそれでいいはずなのに
ブッダの覚りは十二因縁ということになっている。
ところが、般若心経は十二因縁を否定している。
それだけの話だと思うのです。
声聞・縁覚・菩薩のうち
十二因縁を観察するのは縁覚です。
孤独でもいいのです。それこそ犀の角でもなんでもいいですが。
ところがそれを言い出すと、
サンガの存在意義がなくなりますから
縁覚は批判されて
なんとかサンガを存続させる理由づけがされるのです。
心の「安らぎ」パーリ語だと安らぎはsanti
しかし孤独な実存主義では「不安」が問題になります。
ところが孤独だと言い出すと、今度は人はつながっているだとか
人は一人で生きているのではないとかいう話になりますから
私はうんざりしているのです。
議論に勝ちたい人が多いのでしょう。
そこらへんの闘争心などのほうがよほどリアリティがあるのではないでしょうか。
☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
すなわち・つまり・要するに たとえば現代日本人であれば 《フクシマ》を共有しています。被害と原発の処理とでしょう。
ということは 例の拉致被害のもんだいやら やや古くは《ヒロシマ・ナガサキ》などなどいろんな《接点》があります。
ひとりの人がそういった社会共通の体験および問題を あたかも自分の縁側のごとく持っている。この縁側が互いに接しており重なっているとさえ言えるかも分かりません。
これが おそらく《社会的に誰もに共通となった歴史として その意味で中性化ないし中立化している》ということではないかと考えられます。誰が認識しても同じ内容となるという意味で 中立の史実なのであろうと。
ただ――ただですね これをどこから見てもけなすためにではないのですが ただ―― この互いに共有する縁側なる生 これは〔まして消そうなどという意味でも毛頭なく〕 それでも 《わたしがわたしであること》の中核には来ない。のではないだろうか?
これが この質問の問いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ とご理解ください。
ご回答をありがとうございます。
《縁起》説は 《共同相互存在》という見方と重なる内容を持つとは考えます。
問題は にんげんというとき それは社会的(つまり 関係的)でありながら 自由意志を中軸として独立性をも持つ。たとえば 同感というのは あたかもひとつの見解があると見えますが それでもあくまで一人ひとりの自由意志にもとづく判断がそこでは ほかの人の判断に左右されることなく 独立して成り立っているところから結果していると考えられます。
このような事情にかんがみて にんげん存在の中核は 共同相互存在という要因にあるのではなく そうではなく どちらかと言えば独立性のほうにあるのではないか? と問うています。
No.10
- 回答日時:
イメージだけの解説です。
#5さんの仰る写像iは、圏論(カテゴリー理論と言われます)の個体写像(Indivisual Map)の類と思われます。圏論ってなんなのさ?って話になりますが、圏論は数学理論で、もっとも良く構造主義的数学を反映した理論と言われています。
世に有名な(←本当か?)ブルバキの数学原論ってのがありますが、ブルバキ数学原論が構造主義数学の始まりと言われています。ブルバキ原論を、自分はかなりの巻数待ってますし、実際に読みましたが、どこが構造主義なんだ?と違和感を持ったものです。確かに抽象数学ではあるんですが。
またマルクスやウェーバー、レビィ・ストロースやチェムスキーを読んでも、確かに構造主義っぽく感じはしたものの、どうも本質がモヤモヤしていました。そんな時、これぞ極め付けの構造主義の定式化を行ったと一時期話題になった(←本当なのか?)哲学者がいました。残念ながらもう名前を忘れてしまったのですが、その人の著作を斜め読んだ時に、構造主義の数学的雛形は、圏論にありと書いてありました。
圏論も集合と写像(関数)は当然使います。というか、それらしかありません。写像を考えるためにはどうしても、既成数学との相性で集合が必要になり、仕方なく集合を導入しますが、圏論の本質は写像(関数)の集合(関係の束)にあります。そこで圏論での作業は、最初に仕方なく導入した集合を排除するために、写像の集合の構造を考察し、関係の束の構造が写像を定義する集合と無関係になるように、再抽象されます。その結果圏論は、とってもわかりにくくなります(ある意味で、明解ではあるんですけど(^^;))。
その結果個体は、集合の要素そのものでなく、集合の特定要素を指定でき(でも指定先が目標とは限らない)、逆に要素ごとに指定が一意になるような(これで必ず目標を指定するようになる)働きとみなされます。そしてそれが、要素(個体)の定義になります。圏論は世界を関係の束として語る訳です。拡張解釈すれば、それが構文論的に定式化された意味の発生です。
※ここでシニフェとシニフィアンの話をもう一回、やるつもりはありませんよ(^^;)。
で、これの人文系への応用はどうなんだろう?。確かに操作主義的主張とは相性が良さそうだ。またレビィ・ストロースやチェムスキーを越えるような人が現れれば、きっととても役に立つに違いない。数学はしょせん道具なのだ(そうでないところもあるけど、この文脈上では)。
個人的には、(ちっともわっかていないが(^^;)→)《共同相互存在》のような実存に関わりそうな話(まさに意味論の塊り)に、数学理論がどれだけ役に立つかは懐疑的だが、もちろん#5,9さんの意見を否定できるものではない。
ところでレーヴィットって、例のカール・レヴィットの事ですか?。
おお。でーでーてーさん。こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ 圏論は世界を関係の束として語る訳です。拡張解釈すれば、それが構文論的に定式化された意味の発生です。
☆ わたしのことですから 突拍子もないぶっきらぼうによる飛躍に継ぐ飛躍によって 質問してまいりますが:
このように《関係の束》において《意味の発生》を見るというのは:
(あ) この関係の束を捉えるまでは 意味や世界意識はなかったということですか?
(い) つまり 関係の束を捉えようとする人間 これがすでにいるのではないのですか?
(う) そしてそこには わたしと世界とについて すでに意識や意味が現われている。はずだ。
(え) それとも それはそうだ。圏論の言っているのは そのあとのことで きちんと《構文論的に定式化された意味》の問題なのだ。ということでしょうか?
★ その(* この内容は省略します)結果個体は、集合の要素そのものでなく、集合の特定要素を指定でき(でも指定先が目標とは限らない)、逆に要素ごとに指定が一意になるような(これで必ず目標を指定するようになる)働きとみなされます。そしてそれが、要素(個体)の定義になります。
☆ おもしろそうですが ぎゃくに言って
(お) 《要素(個体)》なる人間は 集合(関係の束)の拘束から離れられないのですか?
(か) 《わたし》は 関係の束の中の《結節点》であり得るのですか?
(き) つまり 結び目などはなく ただつなぎの線(ヱクトル?)が縦横に放射線状に行き交っているだけなのですか?
(く) 向きを決める自由意志 これの発揮が 《特定要素の指定》でしょうか?
いやぁ ちょっと違うかな。
★ 《共同相互存在》のような実存に関わりそうな話(まさに意味論の塊り)に、数学理論がどれだけ役に立つかは懐疑的だが
☆ そうなんですか。
★ ところでレーヴィットって、例のカール・レヴィットの事ですか?。
☆ そうですよ。日本に来たことがあるとか。
No.9
- 回答日時:
補足に対する回答
数学的に集合の要素たちは離散的であると定義されています。
もし集合の要素たちの間にある関係または要素の重なりや縁を取り入れたいのであれば、
そのような関係を表わす位相を集合に加えます。
ご指摘のように集合に位相という構造を加える(これは空間となります)と、
複数の要素を持つ集合たち、M や O はそれらの要素たちの間の関係が
位相付き集合(空間)のなかで定義されます。
一方、内包的に定義された単元集合 I は、
要素が1つしかないので位相を追加できません。
この結果 I は構造のない集合(空間)となり、M の他の要素たちから孤立します。
そして、他の人々との関係は I から O (またはその部分集合)への外部的な関係となります。
この方が、「私」という意味に近いかも知れません。
数学的に考えると、考え方が具体的(外延的)になり、
明確に反証することが可能となります。
私の考えは間違っているかもしれませんが、
いずれそれが明らかになるのが、数学の良い所だと思います。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
集合に位相という構造を加える(これは空間となります)と、
複数の要素を持つ集合たち、M や O はそれらの要素たちの間の関係が
位相付き集合(空間)のなかで定義されます。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ なるほど。なるほど。《位相》ですか。インタフェイスに成るのでしょうか。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
一方、内包的に定義された単元集合 I は、
要素が1つしかないので位相を追加できません。
この結果 I は構造のない集合(空間)となり、M の他の要素たちから孤立します。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ん? ――あとから追加するようなことは出来ないのだと。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
そして、他の人々との関係は I から O (またはその部分集合)への外部的な関係となります。
この方が、「私」という意味に近いかも知れません。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ あぁ。そうすると たぶん 内部での重複ではなく 外部における接触関係は出来る。でしょうか?
すなわち・つまり・要するに たとえば現代日本人であれば 《フクシマ》を共有しています。被害と原発の処理とでしょう。
ということは 例の拉致被害のもんだいやら やや古くは《ヒロシマ・ナガサキ》などなどいろんな《接点》があります。
ひとりの人がそういった社会共通の体験および問題を あたかも自分の縁側のごとく持っている。この縁側が互いに接しており重なっているとさえ言えるかも分かりません。
これが おそらく《社会的に誰もに共通となった歴史として その意味で中性化ないし中立化している》ということではないかと考えられます。誰が認識しても同じ内容となるという意味で 中立の史実なのであろうと。
ただ――ただですね これをどこから見てもけなすためにではないのですが ただ―― この互いに共有する縁側なる生 これは〔まして消そうなどという意味でも毛頭なく〕 それでも 《わたしがわたしであること》の中核には来ない。のではないだろうか?
これが この質問の問いです。
数学的に解けますか? よろしかったら おしえてください。
No.8
- 回答日時:
「わたし」という主語なしが許される言語を使用する人たちと、
「わたし」という主語の省略が許されない言語───英語が最もよい典型───の人たちが、
「わたし」について述べるとき、違いがあるのか、ないのか?
この問いは、2、3年くらい前から、漠然ながら、常に抱いている疑問なんですよ。
同じヨーロッパでも、
ラテン系の言語を使う人たちとゲルマン系の言語を使う人たちでは、
社会構造も文化も、人々の性格もずいぶんと違いますよ
。
ゲルマン系の人たちは、非常にプライベート、プライベートな時間を大切にします。公私の区別が厳格。
対して、
ラテン系は、大らかといいましょうか、他人の領分にズカズカと入っていく。イタリアなどでは、綺麗な女性を見かけたら、ナンパをしなければならない(笑い)。
そして、近代的な人権思想や個人(主義)という思想は、イギリスで生まれた。
これは単なる偶然なのか。
ではなく、
常に主語を必要とし、主語を意識しなければならない、それゆえに、他者とは違う自身を意識せざるを得ない英語という言語を使っていたから、
このような思想が生まれたのか。
極論が許されるならば、
英語という言語が人権思想や個人(主義)を生んだのか、
そんなことを考えたりもしているんですよ。
アメリカ人は「わたしが~」、「わたしが~」と何かと煩いし・・・。
この出しゃばる「わたしが~」が、わたしには、非常に鬱陶しい。
この出しゃばる「わたしが~」は、英語という言語に起因する部分が大きいじゃないか。
そんなことを密かに考えております。
そして、この出しゃばる「わたしが~」は、文字通り、世界と対立している。
世界を混乱の渦に突き落としている。
ご回答をありがとうございます。
ふたつあります。
【Q:《ウリナラ》は 《アフリカ的段階》だろうか?】
において見ようとしていたのですが 江上波夫によるなら ヨーロッパについては たしかに北と南との違いがあると言います。ゲルマンが 遊牧民で 文明をみちびき促す役割を果たすとか。
◇ ~~~~~~~~~~~~~
同じヨーロッパでも、
ラテン系の言語を使う人たちとゲルマン系の言語を使う人たちでは、
社会構造も文化も、人々の性格もずいぶんと違いますよ
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この点についてです。ただし ヘレニズムは やはり遊牧民の民主制や自由な学問のエートスを持つとか。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
アメリカ人は「わたしが~」、「わたしが~」と何かと煩いし・・・。
この出しゃばる「わたしが~」が、わたしには、非常に鬱陶しい。
この出しゃばる「わたしが~」は、英語という言語に起因する部分が大きいじゃないか。
そんなことを密かに考えております。
そして、この出しゃばる「わたしが~」は、文字通り、世界と対立している。
世界を混乱の渦に突き落としている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 一点だけ まだほとんど検証したことのない論点なのですが アメリカ人は 議論として説得し切れば 言うことを聞くのではないかというのぞみを持っています。
そして この《〈おれが〉志向の出しゃばり》は 漢民族については どうか? この一点です。
元や清は 遊牧民の建てた国ですが いまの指導部は 農耕民なのかどうなのか。
そして 言語の問題つまり 文の構造について どうなのか?
あまりに大きい問題ですので 差し出すだけです。
No.7
- 回答日時:
☆☆ サンスクリットで 代名詞のアハンを省くときの文法内容について分からないのですが スペイン語などでは はっきりしているのではないでしょうか。
◇サンスクリットだって、同じでしょ。
動詞の格変化で「aham」だとわかるから抜くだけだ、と思います。
ですが、
わたしは、ここにもっと意味を見出そう、価値を与えよう、と目論んでいます。
☆ そして 代名詞を言わないときにも 話し手が 自分自身を意識していないとか 対象化していないというわけでもないと思います。自分としての自覚はあるはずですから。
◇独り言のように、「アレ、欲しい」と呟く時、
この話者は、ことさら「わたし」を意識しているのか?
もちろん、「欲しいと思うアレ」も、「アレを欲しい」と思う「わたし」も存在します。
しかし、
この時、少なくとも、言葉として表現される、主語表象としての「わたし」は、ないのでは?
それが自然と「アレ、欲しい」という言葉として現れるのでは?
そして、この語られななかった「わたし」の方が、
「わたしは」と主語に立てられる「わたし」よりも、
より本源的な「わたし」なのではないのでしょうか。
ううーん。まづは ご回答をありがとうございます。
◇ 独り言のように、「アレ、欲しい」と呟く時、 / この話者は、ことさら「わたし」を意識しているのか?
☆ 《意識しているか否か》ということであれば どちらの場合もあるように思います。
《独り言のように》とありますから ふたつの場合に分けてみます。
(あ) まったくの独り言として《アレ 欲しい》とつぶやくのなら その《つぶやき》を発していても ワタシを意識していないでしょう。意識していなくとも 発することがあり得ます。
(い) じっさいに相手がその場にいなくても あたまの中で誰々さんを思い浮かべて その人から おまえは何が欲しいといった問いかけを受けたとした場合が考えられます。そうだとすると 《おれかぁ》とか《わたしはですねぇ》とか言って欲しいものを考えるので かなりワタシの意識は現われているのではないかと思うのです。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もちろん、「欲しいと思うアレ」も、「アレを欲しい」と思う「わたし」も存在します。
しかし、
この時、少なくとも、言葉として表現される、主語表象としての「わたし」は、ないのでは?
それが自然と「アレ、欲しい」という言葉として現れるのでは?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (い)の場合も だいたいワタシを意識したあと 素通りして 欲しいものを頭に思い浮かべるでしょうね。でもそれをめぐって
◇ この時、少なくとも、言葉として表現される、主語表象としての「わたし」は、ないのでは?
☆ という点については どうか? 《主語表象》というからには ここではすでに《文表現》のことになっていますね。
どうですかねぇ。主語表象を欠いているとしても いま自分のことを・自分の欲しいもののことを考えているんだなという思いは あるでしょうね。――ないですかね?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~
そして、この語られななかった「わたし」の方が、
「わたしは」と主語に立てられる「わたし」よりも、
より本源的な「わたし」なのではないのでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ なんだかなぁ。
むつかしく考えすぎなように思えるんですけれどねぇ。
文の中に言い出されて現われる《わたし》と その文の背後にひかえている《わたし》とをくらべるなら 断然後者のほうが 《本源的》でしょうね。
文中の語としてのワタシは ほんものの《わたし》を仮りにあらわすシルシなんですから。
そうしてですね。この《ほんもののわたし》は 共同存在であることが より一層根源的であるのか? それとも そのような共同性ないし関係性からも自由な存在としてのワタシがなおいると言えるのか?
こういった問いでもあるのですが。・・・
No.5
- 回答日時:
こんにちは
今、意味論を勉強しているので、
数学的な形式意味論から議論させていただきます。
私を a とし、他の人たちの名前を b, c, d, ...とすると、
すべての人たちの集合を
M = {a, b, c, d, ...}
とします。
この時固有名 a は
a:1→M
なる写像です。すなわち、固有名詞 a は外延的意味を持ちます。
ここで 1 は単元集合 {0} です。
一方、私という代名詞を i としますと、
これには2つの意味があります。
1つは変数としての i です。この時写像
i:M→1
は集合Mのあらゆる要素が i になりえることを示します。
一方写像
a:1→M
は写像 i の切断で、変数 i には a を代入できることを示しています。
もう1つは、 i は「わたし」と言う意味を持つという内包的意味です。
これは概念的であり、メタ数学に属しますが、それを敢えて形式化すると、
「私は私であり、私は他の人ではない」という意味に限定すると、
集合Mの部分集合
I = {a}, O = {b, c, d, ...}
が考えられます。この時、a と i を写像で表わすと、
a:1→I
i:I→1
であり、Iが単元集合であるので、a と i は互いに逆写像になり、
1とIは同型であると言えます。
すなわち、この場合の内包的意味とは、
Iは一意の対象であるということになります。
(1は単位または終対象という一意の対象であるので)
一方、外延的意味は「私」は集合Mの1つの要素であると言うことですから、
全体の中の1つということになります。
よって、外延的意味では共同相互存在(集合Mの1つの要素)であり、
内包的意味では独立絶対的存在(集合Iの唯一の要素)である、
ということでしょうか?
itshowsun さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
よって、外延的意味では共同相互存在(集合Mの1つの要素)であり、
内包的意味では独立絶対的存在(集合 I の唯一の要素)である、
ということでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ が みちびかれるのですね。
ひとつおしえていただきたいのですが 例の《縁側》なる部域 これは どうなりましょうか?
a と b や c やとのそれぞれの接点または接面または接合領域 この縁側は どうなりましょうか?
それとも 集合の中にいっしょにおさまるということをもって 共同相互存在と言うほうがよいでしょうか?
接触ということは考えないほうがよいでしょうか?
ごめんなさい。数学がよく分からなくて。
No.4
- 回答日時:
はい、文法的に言えば、
「わたしが」を意味する「aham」が欠落したものです。
ですが、同時に、そこに積極的な意味や価値を見出そうという、私の試みです。
この語られない「aham」こそ、「わたし」なのだ。
そして、
IchやIと立てられた瞬間、それは「わたし」ではなくなっている。
それは、意識され、対象化された「わたし」に過ぎない。
理性的で考える「わたし」、意志的で行為するものとしての「わたし」ではあるかもしれないけれど、
この言葉が適切なのかどうかはわかりませんが、
すべてひっくるめた「わたし」ではない。
西田幾太郎的に言えば、
主客未分の純粋経験状態を「asmi」と呼ぼうじゃないか、
みたいな感じ・・・。
私という主語表象の欠落した心的状態を表現したものが、「asmi」と言った方がいいのかもしれませんが。
そして、
ここでは、他者と私の区別も対立も存在しない。
文法的にはどうなんだ、とつかれると、ちょっと苦しい。
でも、
「asmi」から「√as」が生まれたのかもしれない。
そして、
動詞と動詞の格変化が先にあり、
古(いにしえ)の状態では、
主語なんてもともと立てなかったのかもしれない。
どっちが先かは、誰にもわからない。
普通名詞はあったかもしれませんが、
IchやIという代名詞(?)は、後から作られたものかもしれない。
と逃げる!!
こんにちは。ご回答をありがとうございます。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
文法的に言えば、
「わたしが」を意味する「aham」が欠落したものです。
・・・
この語られない「aham」こそ、「わたし」なのだ。
そして、
Ich や I と立てられた瞬間、それは「わたし」ではなくなっている。
それは、意識され、対象化された「わたし」に過ぎない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ サンスクリットで 代名詞のアハンを省くときの文法内容について分からないのですが スペイン語などでは はっきりしているのではないでしょうか。
つまり
(あ) φ Te quiero. ( φ you I-love. = I love you. )
(い) Yo te quiero. ( I you I-love. = As for me, I love you.)
つまり 《 quiero 》は 語尾のかたちで 一人称の活用形ですから ふつうは 代名詞を言わない。わざわざ言うときは ほかの人間とは区別して ワタシを取り立てているのだと思います。
そして 代名詞を言わないときにも 話し手が 自分自身を意識していないとか 対象化していないというわけでもないと思います。自分としての自覚はあるはずですから。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
理性的で考える「わたし」、意志的で行為するものとしての「わたし」ではあるかもしれないけれど、
この言葉が適切なのかどうかはわかりませんが、
すべてひっくるめた「わたし」ではない。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いかにも複雑に感じるのですが もしそうだと どうなりますか? 《すべてをひっくるめた〈わたし〉》が 文の中に言葉(代名詞)として語られないときと 語られるときとで どう違って来ますか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~
西田幾太郎的に言えば、
主客未分の純粋経験状態を「asmi」と呼ぼうじゃないか、
みたいな感じ・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《わたしはある》もしくは《〔わたしなる人についてであるが そのわたしのことを出さずに〕 ある》というとき 《主客未分の純粋経験状態》なのですか?
◇ そして、 / ここでは、他者と私の区別も対立も存在しない。
☆ たしかに《わたしは考える。ゆえにわたしはある》というときには――対立するまでではないとしても―― 他者とわたしとの区別がなされています。区別をするためにこそこの命題を言い出しているほどであるかも分かりません。
でも 《 Cogito, ergo sum. 》と言うなら この《 sum = asmi = 〔われ〕あり》においても 純粋経験状態であるとしても 《われ》をこそ取り立てているように感じられます。
ううーん。つまり asmi = ( Grk ) eimi の -mi はすでに《わたし》のことを表わすものと思うんですけれどねぇ。
No.3
- 回答日時:
B様
>「すでに植物人間であっても その《わたし》なる存在は にんげんである。 」
そりゃ、そうでしょう。
▼ ( i ) ・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかった
これ、無理と思います。
K さま。こんにちは。ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼ ( i ) ・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかった
これ、無理と思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ なるほど。そういう切り口もあるのですね。
ですから もし仮りにたとえ《他者たちとの関係がいっさいなかった》としたら そうだとしても・・・という意味に受け取ってくださいますか?
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>「すでに植物人間であっても その《わたし》なる存在は にんげんである。 」
そりゃ、そうでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《そりゃ そうでしょう》と言い切れるような社会的情況になっていますか? なっていれば よいのですが。
No.2
- 回答日時:
ふつう私と言ったなら三通りの考え方があると思います。
一つは固有名で名指されるものが私であるという考え方。
この場合、私と他人が面と向かい合っていれば、ふつう人称代名詞としての私は要りません。
喋っているのが誰か分かっているからです。
ところがその会話を文書にして残し、第三者に見せる時には人称代名詞がないと誰が喋っているか分かりません。
だから固有名としての人称代名詞は私と他人を区別するための指標のようなもので、私がいるから他人もいる、という意味で相対的なものです。
もう一つは社会や人間関係の中にあって、その中心としての私です。
会社に行けば管理職で会社の業績の一翼を担っている私であり、家庭に帰れば妻の夫であり、子どもたちの父親であり、また父母の倅でもある私です。
近所の町内会では役員をして町内の人びとの福祉に向上している私です。また、友人関係にあってはスポーツ交流や家族同士が集まって、互いにパーティーを催す私です。
私はそうした社会関係・人間関係の中心にいて、一定の役割を果たしている私です。
たいてい私と言えば、そうした関係の中にある相対的な意味の私であって、それで十分なのだと思っています。
ところがおかしなことに人間とはそうした自他の相対的な関係から離れて自分が絶対的に存在するのではないかという夢を抱く動物です。
なぜ、そんな絶対的な私が存在するのではないかという夢想にふけるのか?
たぶん人間は形而上学的な動物だから、なにか絶対的なものを求めてやまないんだろうと思います。
たしかに人類の歴史がいくら長いと言っても、私というのはこれまで存在したことはないし、しばらく生きて死んだら、もうこの先何千年が経過しようと私という存在は二度と地上に現われることはありません。
だから私は誰にも代えがたい、唯一の絶対的な存在であるに違いない、と思いたくなるのも分かります。
しかし、私は自他の区別を超越した絶対的な私というものは存在しないと思っています。
固有名としての私は相対的な存在としての私です。
永井均が永井均でなくても良かった、たまたま永井均であったように、私も私である必要はなかった、たまたま私であったにすぎません。
だから、その私は今の時代に生まれなくても良かった、別の時代に生まれても、私は私です。
そしてその場合の私とは人格的な意味の私ではなく、非・人格的な意味の私です。
私という固有名を持った私が、私なのは偶然です。
偶然だということは私が私である必然性はないということ、私という人格である必要もない、非・人格であるということです。
それが私の考えです。
私という存在が相対的なものにしか過ぎないとしたら、他人がいて私なのですから、人間が共同存在なのは自明です。
そもそも他人がいなくて、単独で私というものが存在するでしょうか?
固有名があることは私が単独者だということを証拠立てるものではなく、それが私と他人を区別するための指標だということ。
それ以上の何ものでもありません。
レーヴィットの「共同存在の現象学」は私は読んだことがありませんが、たぶん師匠のハイデガーがキルケゴールから単独者の考え方を受け入れて自分が実存哲学を唱えた時に現存在を単独者として規定したことへの反発があったのだと思います。
フッサールは初期には超越論的主観性と言って、独我論を唱えていましたが、後期になると間・主観性と言って、一種の共同存在を唱えていました。
そのフッサールの間・主観性をレーヴィッドは共同存在に言い換え、それでハイデガーを批判したつもりだったのでしょう。
こんにちは。ご回答をありがとうございます。
質問者の論理構成によって把握し そのつど反応をもしてまいります。あしからず了承願えればさいわいです。
《あなたは何であるか?》にこたえる《わたし》
★ だから固有名としての人称代名詞は私と他人を区別するための指標のようなもので、私がいるから他人もいる、という意味で相対的なものです。
☆ これは 自分が《わたし》と呼んで特定する存在です。
《相対的なもの》であることにマチガイないと考えますが これは次の《わたし》における周りの人びととの関係性をもあまり顧みないかたちとして捉えます。顧みないというよりは そのような関係性を捨象すると言ったほうがよいと思います。
しかも必ずしも《他人との区別をする》ためでもなく いま・ここにふといるという・しかも《世界を意識することのある存在》とでも呼ぶようなかたちにおいて――そのかぎりであたかも存在の絶対値を捉えるかのようなかたちにおいて――あるワタシだと見ます。
ここで(この質問の意図として) 存在というときその固有のしかるべき意味をそこに見てみようとしているワタシです。
《あなたは 何であるか?》という問いに対する答えであるものだとも考えます。
あとで戻って来ます。
つぎに《あなたは誰であるか?》に答えるときの《わたし》
★ 私はそうした社会関係・人間関係の中心にいて、一定の役割を果たしている私です。 / たいてい私と言えば、そうした関係の中にある相対的な意味の私であって、それで十分なのだと思っています。
☆ 言いかえると 《だれだれの子》であるとか 《あの子どもの父》であるとかと答える場合のワタシです。
これで ふたつのワタシが捉えられました。
★ しかし、私は自他の区別を超越した絶対的な私というものは存在しないと思っています。
☆ これは 当然ですね。
うつろいゆかざるを得ない存在です。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
だから、その私は今の時代に生まれなくても良かった、別の時代に生まれても、私は私です。
そしてその場合の私とは人格的な意味の私ではなく、非・人格的な意味の私です。
私という固有名を持った私が、私なのは偶然です。
偶然だということは私が私である必然性はないということ、私という人格である必要もない、非・人格であるということです。
それが私の考えです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このくだりは じつはわたしは 分かりません。
なぜ《偶然》なのか? 存在は わたしにしても ほかの人のわたしにしても なぜ《必然》ではないのか? 必然であるのか?――わたしには 分かりません。そして 《分からない》という答えで満足しています。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
私という存在が相対的なものにしか過ぎないとしたら、他人がいて私なのですから、人間が共同存在なのは自明です。
そもそも他人がいなくて、単独で私というものが存在するでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうであることにマチガイないのですが ここは いぢわる質問を投げかけてみたいところですね。
つまり たしかに親がいて子としての自分がある。みなそうである。そういう人びとが集まっている。そのあいだにワタシはいる。――よって ひとは共同存在であるというのは 自明であり当然である。と一応考えられるのですが けれども では それほど当たり前のコトをわざわざ《共同存在》という規定をしてまで言ったりするのか?
それとも そんな規定をするのは 暇人のすることだから 放っておくべきことなのか?
《単独でわたしというものが存在するわけがない》なら どうして《共同存在》だとか《社会的動物》だとかとわざわざ言うのであろうか? これです。
★ 固有名があることは私が単独者だということを証拠立てるものではなく、それが私と他人を区別するための指標だということ。 / それ以上の何ものでもありません。
☆ 予告しましたように この命題についてアンチテーゼを出したいと思います。
それには 次の問いをもっておこなうことが出来ると考えます。
あなたは 《あなたは何であるか?》という問いに対して 《わたしは単独者であり得るわけがないから 他人と区別して自分を捉えなければならず そのとき〈ほかの誰でもないわたしなる存在〉を自覚する》というふうに答えますか?
わたし・質問者の答えは こうです。わたしは何であるか?――《わたしは 自分でわたしという言葉で自分を呼ぶ人間という存在です》と。
つまり 必ずしも他人との区別においてではなく そうではなく 自同律として・自己同一性においておのれを意識し自覚する存在であると答えると思います。
このゆえに 《共同相互存在》こそが にんげんの生であるという命題には 欠けている部分がある。と見ようとしています。《関係性としての存在の部分》は 言わばまだ縁側の部分であって その奥に《ひととしてのワタシがいる》と言いたいと思っております。どうでしょう。
(そのとき 関係性が消えて無くなるものではありません。潜在的に人びとと関係し合っている。しかも わたしの中の最もわたしなる部分はあるのではないかと考えます。――だから どうだということではなく 共同存在がわたしの存在の百パーセントだと言われることに対して反措定をおこなうという意味です)。
レーヰットの置かれた学問的情況について述べてくださって ありがとうございます。わたしも今回読み始めたばかりです。くわしいことはまだ分かりません。
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