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まだミサや入門講座に通い始めて1~2ヶ月ですが
聖書を読むにつれて、神様の愛というものが分かり始め
自分にはこういう思いや世界観を持つことが必要だと思うようになりました。

聖歌もほぼ毎日聞いて、新約聖書も外に持ち歩くほどになりました。
でもまだわからないことも沢山あります。
神父様は入門講座の中で洗礼を受けたくなったら三ヶ月でも半年でも・・。
と言っていて、先日は講座の中で洗礼は強制しないと言いながらも洗礼受けるしか無いですね!と
冗談交じりで他の入門講座の参加者さんに言ったりしています。

まだ、勉強途中ということで分からないところもあり不安もあります。
洗礼を受けたら講座には出られないそうですし・・。
聖書が分からないまま受洗するのもなあと思ってしまいます。
ただ、ミサでもきちんとご聖体を頂きたいと思ってしまいますし
やはり信者にならないとどこか仲間はずれ?な気持ちになっている自分がいます。
単純に神父さんに相談してみるのがいいのでしょうか。

A 回答 (4件)

洗礼の期限は洗礼者ヨハネが行なっていた洗礼によります。

(洗礼したから洗礼者なんですけどね)
これは神道の禊ぎと同じ意味を持ちます。具体的にはヒトが犯した原罪を清めるための儀式です。
ヒトは現在にって楽園を追い出されました。つまり原罪がある限り楽園(天国)には入れないわけです。ヨハネは洗礼によってこの原罪の赦しを求めたわけで、それはイエスが洗礼を受けるということで完成しました。
だからキリスト教系の多くは洗礼を受けるわけです。

では洗礼を受けなければどんなに主の教えに従って生きていても天国に入れないのか?
そうではありません。が、原罪はあります。だから煉獄において現在を償うと考えているわけです。
煉獄は一瞬だが、その苦しみは地獄より恐ろしい・・私はそう習いました。
だからこの世で洗礼を受けたほうがはるかに楽です。

でも洗礼を受けるということは主の教えに従って生きるという決意でもあります。
法を知っていて犯す罪は知らないものの罪より重い。同じ過ちを犯すにしてもそれを知らないで犯す無知者より知っているものは当然重くなるのだということを自覚して生きなければなりません。
しかし知ろうとしないことも大きな罪でもあります。

カトリックや多くの新教では洗礼を強制することはしませんから、冗談交じりに勧めているだけです。
洗礼を受けたか受けないかの実生活での差は「聖体拝領が出来るか否か」くらいですよ。
仲間はずれではなく本質は自分に何か足りないものがあるという感覚でしょう。周囲が敬遠しているのではなく、自分が距離を感じているだけなんです。
カトリック信者としては「それは自分が洗礼を欲しているから」というしかないですね。
気持ちを切り替えれば仲間はずれという感覚は消えます。そうなればムリに洗礼を受ける必要はありませんが、払拭できなければ洗礼受ければイイじゃないですか。

洗礼はゴールでなくスタートです。これからが本当の勉強なんです。
そして、より強いつながりを感じたら堅信を受ければいいんです。
どうぞ心をもう一度整理して神父様に相談してください。
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この回答へのお礼

中々神父さんとお話する時は緊張してしまうのですが、追々不安な気持ちとか相談してみたいとおもいます。ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/15 08:49

こんなこといったら、カトリック教徒さんに大反発くらうとおもいますが、洗礼って自分の意思でカトリック教徒になるってことじゃないんですよ。



自分の子供持てば分かることですが、最初は男がいいとか女とか行っていても、陣痛が始まり、出産まじかになると、男でも女でもどっちでもいい、5体満足な子供であればと。それで、生まれでた赤ちゃんをみると、誰かれなしに「ありがと~」ってなりますけど、それじゃ何か物足りない。そこで「神様ありがとうございます、これからこの子をだいじに育てていきます」っていうのが、洗礼や宮参り。そこで、もし産みの親が大事に育てていくことができないようになれば、実の親に代わって私らがちゃんと育てるのを神様の前で誓います、がGOD FATHER(PADRINO)。
それから、神様の教えを習い、人様の迷惑をかえず、他人を助けるとういうことが理解できる年齢になって聖体拝受、そして次で最後が、カトリック信者として確固な信念を持ったところでコンファメーションへとの流れです。

ですから、洗礼はキリスト教徒しての門戸をたたきます、ってことで、キリスト教徒になります、ってことではありません。聖書だって、まったく理解なしでもいいのです。拝みかたも知る必要なしです。
洗礼=改宗ではありません。私は根っこからの仏教徒ですが、より仏教をしりたいので、他宗教のカトリック教も勉強したいです、これでも、洗礼は受けられます。

私は、両親カトリック信者で、自然とカトリック教徒ですが、亭主の家の仏壇の前で手を合わせるし、葬式や結婚式やその他宗教儀式も、尊重し、受け入れている狂信的信者じゃないです。亭主もミサには文句も言わずについてきてくれ、献金も出してくれます。ミサの説教の最中はものの見事に眠っていますが。実のところ、わたしも、眠ってしまう、説教が終わって皆が立ち上がる音で目が覚めていますが。それに、自宅には聖書も持っていません。エホバの証人信者のように、聖書を読んだことも勉強もしたことなしです。
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この回答へのお礼

大反発ですか 笑 信徒さんと聖書クラスに行ってみたりして信徒さんでも学ぶことがたくさんあるのだなと感じました。クラスにはお坊さんもいます。ミサの説教は意味が分からないと早く終われーとなりますね。。回答者さまは幼児洗礼ですかね。考え方が少し違ったりもするのでしょうかね。。

お礼日時:2014/08/15 08:52

「こういう思いや世界観」は、どの宗教にもありますので、そういうものを求めているのなら、洗礼の前に、他の宗教についても勉強したら、あなた自身のためにもっと役に立つと思います。

宗教学や哲学にも興味が湧くかもしれません。

「どこか仲間はずれ?な気持ち」で、ある宗教に入信する人も少なくありませんが、それは単に「寂しい」からでは? 洗礼するしないとは別に、実社会でも心の通じる友達を作る努力もしたほうがいいかも。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。人間だれしもかけてるところってありますよね。私は神道を少し学んで宗教学も少しかじりました。私には少し個々をの通じる友達を作るのは難しいみたいです・・。25年生きてきて・・。

お礼日時:2014/08/15 08:54

日本人はキリスト教に憧れ、欧米人は神秘的な仏教に憧れます。



ちょっと一息ついて周りを見てみませんか?
若気の至りかも知れませんよ。
新婦に相談すれば絶対に洗礼を受けろと言うに決まっています。

日本人は意識していなくても仏教徒です。
私の叔母と従妹はキリスト教徒です。
通夜・告別式や色々な仏事に出席しても、全然拝みませんよ。
だったら出てくるなといいたいくらいです。

親族に不幸があったときに分ります。
キリスト教徒は絶対に仏教徒を拝みません。
近親者の憎悪を呼びます。

キリスト教の勉強は私も若い頃にしました。
でもやはり日本人なので仏教徒に留まりました。

ご先祖様を拝めないのは不幸そのものです。
流されませんように。
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この回答へのお礼

お葬式のことはわからないですけれども、そういうことも聞かないとなりませんね。

お礼日時:2014/08/15 08:56

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