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後三条天皇が院政を始め、白河、鳥羽、後白河、高倉、後白河、後鳥羽と続き、承久の変で後鳥羽上皇が隠岐島に流されて終っている。その間に藤原氏の内部抗争、源氏と平氏の抗争、平家の滅亡、平泉藤原氏の滅亡、鎌倉幕府成立、北条氏執権の確立。
日本史の中で激動の時期であるが非常にわかり難い。NHK大河ドラマ「平清盛」を見ても、平清盛は白河上皇が祇園女御の下女にはらませた子だとしか判らなかった。天皇家が伊勢平氏の財力を奪うのが目的であるかのように思えた。
後三条は天皇家支配を強めるために院政を始めたと思うのだが、結果は逆効果のように思える。何が失敗の原因であったのだろうか。

A 回答 (12件中1~10件)

歴史上の様々な出来事や事実に対して、妥当な原因と結果の関係を求めること自体無駄だと考えています。


よく歴史に "if "はないと言いますが、それと同じことだと思います。

様々な出来事が発生し、それらが積み重なっていったものが、「歴史」です。
後世の人間がそれぞれの関連を推測するのは自由ですが、対象となった歴史の、ある時点では、様々な要因が複雑に絡み合って、全体として流れていくものではないでしょうか。

今回の後三条の退位が、その後の各事件発生の原因になったのではないかという仮説は、正解のない回答を求めている気がします。

後三条の譲位の意図は、従来の摂関家主導の政治体制を終わらせ、皇室の力をより優位なものにしようとしたものの、自身と実仁の死の結果として、当初の思惑通りにはならなかったのが最大の原因であろうと思います。

白河が親の意思を継いで院政を始めたとまでは言えません。
それは後三条の頭の中では、白河を中継ぎの天皇としか考えていなかったからです。
むしろ、天皇となった白河は、父上皇の早い死去で最高権力者となったのを利用して、自分に有利な権力構造を構築していったところに原因があるのではないでしょうか。

白河個人の個性が強く反映されていくようになった結果として、以後は後三条のもくろみは崩れてしまったのです。
と言うことは、後三条に失敗の原因を求めること自体に無理を感じます。
白河に限らず、為政者個人は、個性・人間性・統率力・知識などが絡み合った存在であり、自分の意志で動こうとしますから、その時々の本当の思惑など分かるはずがありません。

以後の武士の台頭は、世界各国の軍事クーデターをみても分かるように、いざとなった時には、武力を持っているものが強いのです。封建社会では、身分だけで武力がない貴族は無力です。
大きな歴史の転換点は、すべて武力がその背景にあったように思います。
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この回答へのお礼

お説はごもっともです。歴史好きなのですが、温故知新として歴史を現代に役立つ教訓として理解したいのです。単なる物知りだけではつまらないからです。公家から武家への権力移行が歴史的必然性であることも理解しています。武力が重要であることに異論はありません。
しかし歴史の結果には幾つかのターニングポイントがあります。院政による小競り合いの後に曲がりなりにも摂関家排除の目的は達成するが、貴族にしてしまった御落胤の清盛平家に取って変わられただけです。天皇家には武力がないので平家の武力を見方にしたのだから、それで良かったはずなのです。それなのに平家を追討しようと源氏を活用したのです。義仲や義経の利用までは上手くいったが、ずる賢い頼朝は誤算だった。金づるの奥州藤原が滅ぼされて打撃。頼朝が早死にすると、また権力奪回できるとの後鳥羽院の思い上がりが致命傷となった。
武力を持たないことで現代まで君臨してきた天皇家ですが、それゆえに智恵を発揮すべき後白河法皇が優柔不断で場当たり的な態度を取ったことが武家政権の台頭を許したと思っています。

お礼日時:2014/08/22 17:32

えぇと, 「後三条が「院政」を始めたい意志を持って上皇になったことは間違いない」ってのはあくまで「あなたにとってそうであることは間違いない」であってそういう確たる根拠があるわけじゃないと思うんだが....



手元の本だと
白河上皇ですら「院政を行う」意図があったとは思えない
という趣旨の文章があったりします.

その解釈を取れば, 院政が始まったのは「単なる成り行き」だったりするわけで.
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回答♯7 に対する「補足」の欄で、質問者様が書いておられることへの、私の考えを申し上げます。



後三条の「院政」に関する記述は、「実際に院政を開始した」とまでは言っていないと思います。
やはり、病気が原因で退位し、上皇となったので、院庁を開設したことにはなりますが、その前の解説にもありますように、後に白河が始めた国政に関わる「院政」ほどの実質的なものではなく、家政機関としての院庁のままで、すぐに亡くなってしまったために、そのことを「挫折」したと説明しているのだと、私は理解しています。
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この回答へのお礼

後三条が「院政」を始めたい意志を持って上皇になったことは間違いないのです。しかし病で院政を始めることはできなかったのだと思います。そのことが本題ではなく、白河上皇が親の意志を継いで院政を始めたことが失敗の原因であったのでしょうか。悪い結果になったことには必ず原因があるのです。

お礼日時:2014/08/21 23:44

titelist1 さん、こんばんは。



そうですね。天皇家、というか院ですが、自分たちは膨大な荘園群を所有していました。もう公地公民制というもは崩れてしまい、そこから上がる得分権の収入で家政を動かしています。それは天皇家とは全く別の資産でした。
でも、そこの管理をしている荘官である武士は犬扱いしていました。散々利用した挙句、いざというときは使い捨てにする。これは荘園の本家、領家である公家と基本的に同じです。特に時流に対して悠長で事大主義的です。でも、平氏政権、特に鎌倉幕府はこういった武士たちのある意味意見を取り入れてくれる政権だったと思います。
北条氏はそういった武士の一つでした。鎌倉幕府の執権といっても、身分も基本的にほかの御家人と同じで、ほかの御家人の意見を適宜取り入れながら、政治を行いました。別に他の御家人を排斥するだけが彼らの政治ではないのです。御成敗式目はそこから生まれたのです。


時代は下りますが、山名宗全の「塵塚物語」の一説がその答えだと思います。
詳細は下記のURLを参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D% …
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この回答へのお礼

応仁の乱の山名宗全まで下ってしまうと、武士が自信持っていたのですから同然です。
清盛は白河上皇の子で貴族と同じです。摂関家が平家に変わっただけなのに、天皇家はそれを追討せよと判断を誤ったのでしようか。

お礼日時:2014/08/21 23:35

titelist1 さん、こんばんは。

ithiです。




天皇が好き放題をするために院政を始めたとは思えません。後白河上皇は近衛天皇の後、天皇に復帰し、3年後に二条天皇に譲位して院政を再開しています。院政には明らかな政治的意図があるのです。

後白河天皇は近衛天皇崩御の後即位しました。その後二条天皇に譲位して、上皇となり、院政を敷きますが、最初は院政派と親政派で派閥争いが起きます。経緯は結局、院政派が勝利しますが、こんな親子や兄弟の争い事なんてそれだけで人気がなくなりますよ。

保元・平治の乱で活躍した一般の武士たちは源氏、平家に仕え、本領安堵や新恩の給与に関心がありました。
確かに院は彼らの荘園の寄進の対象でしたが、貴族と同じで「不輸不入の権」を与えるとはいっても、彼らの番役や得分権の搾取をするだけの存在です。また、荘園の荘官としての身分はとても不安定で、いつでも国司に解任させられるらしいです。
そういう事態から少しでも逃れるために武家の棟梁たる両家に仕えているので、天皇や院にお仕えしているといっても名目だけで、源平両家に仕えることに実質を置いているといってもいいでしょう。

詳細は下記のURLを参照ください。


武士団http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB% …
後白河天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD% …
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この回答へのお礼

そんな身分の低い武士に天皇家はどうしてやられてしまったのでしようか。しかも北条氏ごときに後鳥羽上皇は島流しにされるのです。以来、後醍醐天皇の短い王政復古があったが、江戸時代の終わりまで武士に押さえられて冷や飯食いです。
>親子や兄弟の争い事なんてそれだけで人気がなくなります
これを島流しされるまで150年近くやっておったのですよ。そんなにまで天皇家は愚かだったのですかね。

お礼日時:2014/08/21 20:39

#5の回答者です。


#6の回答の中に、質問者様と回答者様それぞれの出典となった『日本の歴史』の書籍名が書かれています。
1965年刊行開始の中央公論社版と、1974年の小学館版とのことですね。

#5の回答で私が参考にしたのは、吉川弘文館『歴代天皇・年号事典』(2003.12月発行)でした。
その後三条天皇の前後の記述から回答したものです。

ところがお二方の『日本の歴史』の話しが出てきたものですから、私も『日本の歴史』を持っていたことに気付きました。
私の場合は、2000.10月刊行開始の、講談社『日本の歴史』(全26巻)です。
質問者 titelist1 さんや、回答者 tanuki4u さんがお持ちの『日本の歴史』よりも、26~35年後のものという意味では、ごく最近のものと言っていいと思います。

しかし私も全巻読了したわけではありません。およそ半分くらいでしょうか。
なにしろ各巻の著者は歴史学者であり、一般の歴史書とは違って、事細かな事例が延々と書かれていたりするので、簡単に読み飛ばせる代物ではないからです。

いずれにせよ、各種参考文献にしても、新しい研究成果が追加されていきますので、現在の日本史学界の大勢が反映されたものと考えられると思います。

そこで今回のテーマである「院政」を調べてみました。

後三条天皇の件ですが、
「この譲位で大切なのは、後三条が今後の皇位継承は自分の意思で行うのだと表明したこと。
院政とは、上皇=院が直系子孫である在位の天皇を後見する立場から、最高権力を掌握する政治形態。
それを可能にする根拠は、退位して自由な立場にあることにではなく、皇位継承の主導権を握っているところにある。
皇位継承者を決めることができない上皇は、権力を持ち得ない。
上皇が次の(そのまた次の)天皇を決めるという新しい皇位継承者のあり方を作り出したのであり、摂関家から皇位継承の主導権を奪い取ったのである。
この皇位継承権者決定権を背景に、摂関・公卿以下の貴族を服従させ、専制的権力を振るうことができた。
この院の専制権力とは、荘園公領の紛争や寺院間紛争を調停し、支配層の分裂による王朝国家の崩壊を抑止する必要から生まれた権力であった。」

「院庁はあくまで上皇の私的家政機関であり、院領荘園の管理などを行うものの、ここで国政が行われるわけではない。
譲位して院庁を開設することと院政とはまったく関係がない。
後三条は、白河に譲位した日、2歳の次子実仁親王を皇太弟とした。
それは白河を中継ぎの傍系とし、実仁を皇統を継承すべき直系としたことを意味する。
白河の直系化は、摂関家にとって代わる外戚家を生み出す危険性を孕んでいた。
摂関家の交替など想定していない後三条は、そのような危険のない実仁を直系に指名したのであろう。
皇位継承の決定権を握ることが院権力の根源であるならば、後三条の譲位こそ、院政の開始と言えるのではないだろうか。
しかし後三条の院政と彼の皇位継承構想は、延久5年(1073)5月の彼の死によって挫折する。」

「白河は父・後三条の死後も皇位にとどまり続け、実仁に譲位しなかった。
応徳2年(1085)、実仁が15歳で死去すると、翌年、中宮・賢子所生の8歳になる長子・善仁親王立太子させ、即日譲位(堀河天皇)したが、堀河即位後も皇太子を定めなかった。
それは故実仁親王の同母弟、輔仁親王の皇位継承資格を認めず、皇位継承権は将来生まれるはずの堀河の男子にあるということを、貴族たちに分からせるためであった。
こうして傍系として即位した白河は直系皇統の資格を獲得した。」

後三条・白河にまつわる関連の記述の要点は以上のようなものです。
院政というものが確立していった経緯の解説ですが、その他もろもろの事件との因果関係があるのかないのかは、何とも言えないと思います。

なお、#2の「お礼」の欄に書かれている
「後白河上皇は近衛天皇の後、天皇に復帰、3年後に二条天皇に譲位して院政を再開」
という内容は事実ではありません。
後白河天皇は近衛天皇の崩御後、践祚して天皇になりました。

この回答への補足

後白河上皇の天皇復帰は私の単純ミスでした。申し訳けありません。
講談社版でも後三条が院政の開始と言えると書いているのですね。院政の目的は天皇家が皇位継承権を持つことだったとのことですが、それが失敗の原因だったのでしょうか。

補足日時:2014/08/21 19:25
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この回答へのお礼

講談社の方が解説があり、わかりやすいのかもしれません。中央公論社のものは初版が昭和48年で人名と年月と文献の連続で同じページを何回も読んでも分らないほど難解です。まるで文献集を読むようです。

お礼日時:2014/08/21 19:24

日本の歴史全26巻


これって、中央公論

https://www.chuko.co.jp/history/

1965(昭和40)年2月創業80周年記念出版として全集『日本の歴史』(全26巻別巻5巻)刊行開始。

これあるいは、これの文庫版化のやつですか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8722900.html
(私も日本の歴史全26巻(中公文庫)を何度も読みますので理解しています。)以上引用

私の日本史書籍読みは、
1974   S49    小学館   日本の歴史   全32巻
から始まるので、その10年前の中公は読んでいないので、なんとも言えないが、アマゾンでの竹内理三著の部分に関して
「日本中世史を専門とする東北大学教授・入間田宣夫氏が本書の解説で語っていますが、武士の発生についての本書の説は誤りです。
しかし、本書の全ての通説が誤りではありませんので、その辺りを踏まえて読まなければなりません。」(珈琲はキリマンジャロ氏)
という指摘を待つまでもなく、半世紀前の書籍に関しては、慎重に望まないとならないと思います。


===
後三条は天皇家支配を強めるために院政を始めた

結果として

天皇家が小さな東国の北条氏に負ける事態になったのが院政時代です。

とするのは、1073年の後三条退位と1221の承久の乱をまとめて語ろうとするものであって、No3で書いたように

1853年のペリ-来航のことで
2001年の出来事を説明しようとするようなものだ。
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この回答へのお礼

日本の歴史26巻(中央公論社)は若い頃に買って読み、その後ほったらかしてしたものです。この本は各巻を学者が書いているので、古文引用例が多く史実を元に記述しているのですが、解説が少なくて難解なのです。
天皇家は何故にこのような愚かなことを始めて、それを続けたのかが不思議なのです。

お礼日時:2014/08/21 11:36

正確に言えば、後三条天皇は退位後に院政を始めてはいません。


古来院政を始めようとして譲位したという説もあったことは間違いありませんが、現在では病気のための退位とする説の方が有力なようです。

実仁親王を東宮に立てるのも目的の一つだったと考えられています。
白河天皇に、その皇太子は実仁親王という体制が一旦はできあがりました。
残念ながらこの皇太子は10年余りで病没したため、後の堀河天皇となる善仁親王が正式に皇太子になると、即日譲位して、上皇となっています。

後三条天皇は、在位時には積極的に親政を推進し、皇室経済の強化を図り、摂関政治の力をそいだことは事実ですが、在位はわずか4年半だけでした。
退位後は病のため落飾し、半年も経たずに崩御されています。

院政は、子の白河天皇が退位して、次の堀河天皇がわずか8歳、その次の鳥羽天皇が5歳で践祚するという経過のうちに、白河上皇の執政が本格化していった結果、院中にあった政治の実権を握っていることを、後世から「院政」と名付けられる政治形態が始まったとするのが、正確なところだと思います。

その後の武士の台頭との関連は、別問題のような気がします。
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この回答へのお礼

後三条天皇の件は敢えて院政開始と記述しました。1072年/12月に白河天皇に譲位し上皇と称したが翌年5月に崩御。院政の目的を理解するのに重要と考えた。
なぜなら、それまでの天皇の母は藤原摂関家の娘であったが、この天皇の母は内親王であることが特異である。天皇家を強く意識し、院政を開始しようとしたと考えられる。
この父の意志を継いで1086年/11月に白河天皇は上皇になり院政を開始したからです。

お礼日時:2014/08/21 07:03

 この問題を単純に言えば「王権論」の問題でしょ。

ということは王権の所在と権力の及ぶ範囲との問題に目を向けざるを得ないとの問題と等号関係になります。がその前に質問者様に幾つか質問をしますので、それに解答していただいた時点で補足として回答する形になります。
(1)「院政」がいつ頃に発生し、いつ頃まで続いていたか
(2)その「院政」を特質によって「時期」区分するならば、どの様な論点があるか
 以上ですので端的にお答えいただければ幸甚です。
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この回答へのお礼

いわゆる院政時代と記述するべきでした。院政開始についてはNo.5さんに説明していますが、後三条上皇の意味が大きいので敢えて記述した。院政は江戸時代まで存在することは承知しています。強い政治力を発揮した院政時代は後鳥羽上皇で終っています。
本題は院政の定義ではなく、天皇家が小さな東国の北条氏に負ける事態になったのが院政時代です。上皇の島流しなど死罪に継ぐ行為をされているのです。その天皇家の失敗の原因を知りたいのです。

お礼日時:2014/08/21 07:23

白河上皇の院政開始


1086
後鳥羽上皇の院政終了
1221

↓ この期間を比較すれば

1886年 明治19年
~2021年

1868年 明治元年
~2003年

この期間を一つにまとめようとしても無理がある。


最近の日本史では「院政から中世」というのが大勢のようにおもう。
中世って何よといえば、でっかい体制をつくらないで、各自適当に頑張る。
摂関をする家があって、その家は家業として摂関する。
「家」というか「家業に精出す」のが中世であります。

で、天皇家の家業は血統を残すことなのですが、院政時代になると天皇家の方々も一層、家業に精出します。
具体的に言えば、自分の息子に天皇を継がせて、孫を次の天皇にする。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3% …

師通の急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代鳥羽天皇の即位が契機であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。

以上引用

偶発的に、白河法皇が頑張らなければならなくなった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD% …

白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛して、所生の皇子・体仁親王(近衛天皇)を即位させた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3% …

鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、父には疎んぜられた。『古事談』には、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。

美福門院系統を自分(皇統)の正しい系統として残すための強権発動です

天皇家強化
などという意図はない
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この回答へのお礼

ご記述の内容については良く知っております。日本の歴史全26巻を何度も読みます。wikiも読みます。歴史事実のことではなく、歴史事実のなかの何故かについて興味があるのです。何故かを知ることが、歴史を深く理解することになるからです。

お礼日時:2014/08/21 08:13

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