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 第二次大戦の後期、ヨーロッパ戦線は連合軍に制空権を握られていたそうですが、なんで大規模な戦車戦を行えたのでしょうか?
 ヨーロッパ平原では大きな戦車は隠れるところもなく空から丸見えですし、戦車は空からの攻撃に弱いはずです。しかし1943年以降でもヨーロッパ平原の真っ昼間に数千両のドイツ戦車が前線に出て戦ってますよね?前線に出る前にドイツ戦車は空襲で片っ端から破壊されると思うのですが・・・

A 回答 (8件)

日本ではバルジの戦い、ドイツではアルデンヌの森の戦い、として知られている


戦車戦ですね。

ドイツが大規模な戦車隊を集結できたと云う事は、奇襲が成功したと云う事です。
奇襲作戦の成功(初期)の要因は:
1)英米側がドイツには大規模反攻の余力が無いと判断していた、
2)ドイツ側は悪天候の冬季、集中した兵力を隠しやすい森を利用した、
3)ドイツ側の周到な準備(兵力は最終的には足りなかったが)、
の3つでしょう。

1)は末期のドイツに大兵力展開の力はもう無いと見て、この地域には小規模な防衛的な
 兵力しか配備していませんでした。
 情報も手薄で、エニグマを既に解読していましたが、フランス国内に於けるように
 占領地のレジスタンス等からの情報もありませんでした。悪天候のため航空偵察でも
 これと言った情報は得られませんでした。
2)ドイツ側が冬にこの地方を選んだのは、まさに航空監視から逃れるためです。
 まずドイツの地形ですが、なだらかにうねる牧草地とそれを区切る様な広大な森が
 特徴です。アルデンヌの森は針葉樹林と広葉樹林の混じった広大な森です。
 針葉樹林は20m程度かそれ以上で、木々の間は灌木の無い下草だけの地面です。
 兵員が縦列で問題無く行進できます。小型車両も特に問題は無かったようです。
 夜間に森まで移動し、森に大舞台を隠すのは容易です。
 戦車に雪を被せれば、高い上空からの視認は困難です。偵察写真も白黒ですから
 解像の問題が有りました。
 それに雪は騒音を吸収します。
3)ドイツ軍は大部隊の集結を悟られない為に、無線封止を行っています。
 通信は主に有線電話と伝令兵で行われていました。
 攻撃開始の日には濃い霧が予想される日を選んでいます。

欧米軍は、霧の森から出てきた大部隊に驚かされます。音を消す雪の中では
戦車の接近もその数も正確に把握できなかったでしょう。守備部隊間の連絡にも、
混乱を来したでしょう。敵がそんなに強大で有るはずが無いと思っているのですから。

ドイツの補給線が延び、天候が回復すると航空機による反撃を受け、反転攻勢は
失敗します。
航空攻撃に弱かったのは、戦車よりもそれを支援する各種戦闘車両と歩兵です。
戦車を有効に攻撃できる航空機は当時は、ドイツのユンカーJu 87Gぐらいでした。
2基の3.7cm対空砲18を装備しPanzerjäger(パンッーアイェーガー、戦車狩人)、
キャノン砲鳥、戦車潰しと呼ばれていました。
この戦いにドイツが動員できたJu 87Gは少なく、反撃する米軍戦車を阻止するには
無力でした。

参考は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB% …
http://de.wikipedia.org/wiki/Ardennenoffensive#V …
http://de.wikipedia.org/wiki/Junkers_Ju_87


若い頃、ドイツの森をよく歩きました。広く木々は高く茂っていますが、その下は
すかすかです。森に戦車の大部隊を隠せると云う事が、日本の森からはイメージ
しにくいと思います。参考までアルデンヌの森です。
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%8 …



 
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1991年に、湾岸戦争がありました。

このとき多国籍軍(というか米軍)はハイテク兵器を惜しみなく投じました。GPSやAWACSが本格的に実戦投入されたのはこのときが初めてです。GPSはイラク軍も使っていたのですが、元々アメリカの軍事衛星を「民政に転用した」GPSでは、イラク軍(民間)が使っている帯域をわざとウソデータを送るようにして混乱させることも使いました。
このとき、世界中の軍隊が「あれ、GPSって便利だから導入してたけど、アメリカの軍事衛星を利用したものだからアメリカと敵対すると使えなくなるよね」ってことに気づいて、それぞれにGPS用の衛星を打ち上げることにしたのです。

さて湾岸戦争においての多国籍軍の制空権は圧倒的でした。当初、「多国籍軍の空爆でイラク軍は全滅した」と思われていました。
ところが、イラク軍はイスラエルのエルサレムにスカッドミサイルで攻撃をしました。驚いた多国籍軍は必死にスカッドミサイルを探しましたが、時々イラクからの攻撃は続いたのです。
スカッドミサイルはタンクローリーより大きなトレーラーで運びますし、打ち上げのときは燃料をセットする必要があるので「すぐ発射してすぐ隠れる」というわけにはいきません。にも関わらず、これといった隠れる場所もあまりないはずのイラクでスカッドミサイルのトレーラーを探すのに米軍は結構苦労しました。

また停戦直後はイラク軍は全滅したと思われました。膨大な車両が残骸になった写真などが出回りましたからね。
ところがフセインの虎の子であった機甲師団である大統領親衛隊はほぼ無傷だったことがその後に判明しました。元々クウェート領内ではなくイラク領内に配置し、開戦後は後方地域に撤退したのですが、その動きを多国籍軍は捕捉できませんでした。
かように、いかに圧倒的な空軍力をもってしても空爆だけで地上部隊を殲滅することはできないというのが改めて証明されました(航空機が登場した第一次大戦以降空軍力だけで地上軍を撃破した事例はないのです)。

さて、第二次大戦においてですが、まず独ソ戦(東部戦線)と西部戦線ではだいぶ事情が違います。

東部戦線においては、ソ連空軍は練度という点においてドイツ空軍にはとても及びませんでした。エーリヒ・ハルトマンのような352機も撃墜するなんて人がいましたからね。
そこでソ連軍は空軍の投入はひとつの方針を打ち出しました。それは、ここは絶対に勝ちたいと思うような重要な戦域に空を覆わんばかりの大軍を投入し、その代わり他の戦域の制空権は捨てるという、ま、ソ連軍らしいといえばソ連軍らしい戦法でした。

西部戦線では、ノルマンディー上陸作戦が1944年6月ですから、米軍の戦闘爆撃機が猛威を振るうのはそれ以降です。

また当時は誘導爆弾もないですし、GPSなどによるリアルタイムの誘導もできませんから、戦い慣れた歴戦のドイツ軍部隊がヒット&アウェーで戦うと連絡を受けて戦闘爆撃機が戦場上空に着いたときにはドイツ軍戦車は撤退して(あるいは隠れて)いたり、攻撃しても爆弾が外れればそれまでですからね。
味方撃ちを避けるため、戦闘爆撃機の支援が来るときは米軍の戦車は戦場から下がるわけです。ドイツ軍戦車と間違えられてはいけませんからね。そうすると逆にドイツ軍側からすれば米軍の戦車が後ろに下がっていくのを見れば「あ、戦闘爆撃機を呼んだな」と分かったりするわけです。
また戦車のすぐ横でドラム缶を燃やして「撃破された」ように偽装することもしたようですよ。ちなみに湾岸戦争のときはイラク軍は縁日で使うような発電機で空気圧で膨らませる戦車のハリボテを膨らませて、その真ん中に発電機のエンジンをかけっぱなしにしたそうです。それを赤外線カメラで見ると、いかにも戦車がエンジンをかけたように見えるのでそれにずいぶん多国籍軍は騙されたみたいです。そのハリボテはせいぜい数万円。一方の精密爆弾は一発何百万円もしますから、費用対効果もバッチリで、それを開発したのはイギリスの会社だったそうで、米軍関係者が「イギリスが余計なもの売ってんじゃねえよ」と文句をつけたほどです・笑。
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クルクスの独ソ大戦車戦でソ連戦車を撃破した飛行機が


ドイツの、ヘンシェルHS129双発地上攻撃機です。
戦車を空から攻撃する方法でドイツが一番進んでいました。

当時の重戦車は正面装甲は勿論、側面、上面も通常の
地上攻撃機の20mm機関砲では跳ね返されました。

HS129B-1/R2形に胴体下に30mmMK101
対戦車砲を取り付け、戦車、装甲車攻撃専用としました。
HS129は鈍重飛行機ですが、制空権のあったクルクス
では活躍しソ連戦車隊を壊滅させました。
戦車の砲塔を上からブチ抜くので「空飛ぶ缶切り」の
異称が付けられました。
ソ連も開発をしましたが遅れました。
英米連合軍は對戦車専用攻撃機の開発は大幅に遅れ、
余り活躍しません。

アルデンヌ独反攻作戦には間に合った筈ですが、あいにく
曇り空が続き成果が上がりません。
地上部隊の活躍でやっと喰いとめました。
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 真昼間でも雲高が低ければ航空支援は非常にやりにくくなります。


 戦力の集結は航空偵察で発見しにくい点在する森林(さすがに野ッ原ばかりではない)を利用して行い、出撃は天候を勘案して、というのが制空権をうしなった時点でのドイツ軍の基本戦術だったようですね。特にソ連のIL-2あたりは戦闘行動半径が非常に小さかったので、有効な偵察ができないとなかなか出撃もできなかったようで。
 戦闘行動半径の大きなアメリカのP-47やP-51が地上攻撃に投入されるようになると、もうドイツ軍戦車部隊の大規模な行動はとれなくなっているようです。
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正しくは、


戦車が弱いのでは無く、
戦車部隊が弱いのです。

詳しくは、
戦車に随伴する
補給車両や歩兵が空からの攻撃に弱いのです。

だから、バルジの戦いでは、
晴れて空爆が始まってから、
ドイツ軍は戦車を捨てて退却しました。
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yamada504 さん、こんばんは。



そうですね。1943年までは独ソ戦、つまり東部戦線が主体でした。ソ連の航空機はドイツの航空機に比べて格段に劣っていました。また数でこそ多数でしたが、新鋭機は少数でした。
でも、1944年の特にノルマンディー上陸作戦以降はP47というアメリカの戦闘爆撃機が西部戦線で対地攻撃を担うようになります。
特にアメリカの戦車M4はドイツのティーガー戦車に対抗できないためにかなり頼りにされたようです。
詳細は下記のURLを参照ください。

p47
http://ja.wikipedia.org/wiki/P-47_(%E8%88%AA%E7% …

ソ連空軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3% …
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相性の問題があるでしょうね。



航空機では、静止物に対する攻撃の時間はすれ違いの一瞬ですので、一撃の火力の大きさに頼らざるを得ませんが、当時は戦車の防御力に対する火力の重量物を積む事と命中率のバランスの両立が不可能でした。

此れはヘリが開発されてから、劇的に変わりました。

また現代では、貫通力の優れた弾頭が開発されているので、飛行機による攻撃も(一定の戦術下では)可能です。

時代の徒花ですね。
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航空機に対戦車攻撃のノウハウ、武器が無かったためです。

唯一実践で使ったのはロシア相手に使った対戦車砲(ユンカース搭載)だけです。
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