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豊臣秀頼の守役だった片桐且元は大阪の陣で豊臣を見限り
家康の配下となりましたが 秀頼死去の21日後に自害して果てました

幕府の決まりでは殉死は禁止だったはず
ましてや立場的には且元は家康の家臣で秀頼は謀反人
その謀反人の後を追って死ねば、一家取り潰し お家断絶でもおかしくないのに
家康は且元の殉死を不問にしました
そして息子に大和龍田の所領と家督を継がせています

片桐且元を特別扱いした理由は何でしょうか?

A 回答 (2件)

家康自身は殉死を快く思っていませんでしたが、


公に殉死を禁し、犯罪とし処分したのは
寛文3年(1663)に将軍家綱が武家諸法度を改めてからです。交付します。
 江戸城大広間で林春斎(鷲鳳)が武家諸法度21ヶ条を読み聞かせました。
 この法度では、耶蘇宗門の禁止条項が正式に追加されたほか、「不孝」の者処罰条項が加えられました。
 また、殉死の禁止が別紙1ヶ条として申し渡されました。

 「殉死は古より不義無益の事なりといましめ置といへとも、仰せ出されこれ無き故、近年、追腹共余多(あまた)これ有り、向後左様之存念これあるべき者には、常々其主人より殉死仕らざる様に堅くこれを申し含むべし。若し以来これあるにおいては、亡主不覚悟越度(おちど)たるべし。跡目之息も抑留せしめざる儀、不届に思し召さるべき者也」
 三代家光死去の時、老中他大名旗本5名が殉死したことから、家綱は殉死を禁じました。

殉死は戦国時代の遺風などと言われますが、実際には戦国時代に、殉死は、あまり、なかったそうです。

 家康の四男松平忠吉が亡くなった際に家臣3人が殉死してます。
 家康の死に際して殉死した者は公には一人もいませんが本田正信は実は殉死したのではといわれてます。。
 寛永9年(1632)に秀忠が亡くなった場合には、老中森川重俊が殉死しました。
  寛永13年の伊達政宗が亡くなった際には15人が殉死しました。
 寛永18年の熊本藩の細川忠利の死に対して実に19人が殉死しましたが、
この時起きた事件を描いたのが森鷗外の小説「阿部一族」です。
 。
 殉死の禁止は、主人の死後、従者は殉死することなく跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務付けました。これは、主人個人に奉公するのではなく主人の家に奉公することを求めたものです。
 大名旗本は、将軍個人ではなく将軍家に奉公することが求められたことになります。
これにより、封建制度を代々継承確立しました。

つまり特別扱いしたのではなく、悪習であつても武家階級の慣習であり、禁じられてはなかったのです。


 
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2015/01/04 13:29

> 立場的には且元は家康の家臣



 だから、ではないのですか? いろいろ解釈はあるでしょうが。

 殉死とは「主君が死んだとき、あとを追って臣下が自殺すること(広辞苑)」ですから、豊臣の臣下でない片桐がたまたま豊臣の滅亡後に自殺しても「殉死」とはならないのでは?

 例えばアイドルの某が死んだのを原因として自殺しても、「殉死ではない」のと同じく、片桐の死も「殉死ではない」とされたのでは?

 余談ですが、こん日的にも、片桐は身分犯(犯罪成立に一定の身分が必要な犯罪:収賄罪など)における身分がない人間に該当しますので、「殉死罪」は成立せず無罪でしょう。

 小説などによると、片桐は大阪城のようす(城内での発言やどういう設備を新設したか)などを家康に伝えていたらしいので、その大功績を考えて、あえて傷跡(死因)は確認せず、親族などの言い訳を認め「病死」したと認定した可能性もあると思います。



 
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2015/01/04 13:29

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