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どうも、真宗のボーズと呼ばれるものです。
>>浄土真宗ではなぜ正信偈をいちばん大切にするのですか
これは、誤解ですね。浄土真宗では「浄土三部経」が最も重いもので、「正信偈」はその次にきます。例えば、「浄土三部経」と「正信偈」の読誦の作法は大きく違います。「正信偈」を読むときは本を広げずに暗記して読む暗誦が許されていますが、「浄土三部経」を読むときには必ず本を開けて読誦しなければなりません。また、読経中に経本を置いておかねばならない時、地面に直接おいてはいけないので中啓といわれる扇子のようなものを下に敷くのですが、そのうえで経本を重ねなければならない時は、「正信偈」が載っている本を「浄土三部経」の載っている本の上においてはいけないと基本的には習います。こんな感じで扱いとしては「浄土三部経」の方が「正信偈」より上です。
>>日本佛教の他の宗派では、『般若心経』『法華経』など、外国の経典を第一とするものが多いと思ひますが、浄土真宗では、なぜ『教行信証』の「正信偈」をもつとも多く用ゐるのですか。
上述の通り、浄土真宗においても「正信偈」よりも「浄土三部経」の方が重く扱われています。ですから、「正信偈」が一番大切だから大切だから、「正信偈」をもっとも多く用いるというのは間違いです。
まず、声明(お経や偈文のよみ方)の先生方の中には、勤行と読経をわけて説明する方があります。勤行とは「正信偈」や「御和讃」を読むことで、読経とは「浄土三部経」を読むことです。もちろんこの二つは一つの法要の中に双方が入っている場合もありますが、細かく分ければこんな分類ができるようです。そして、浄土真宗の勤行のやり方の基本にあるのが「正信偈」の中に「善導独明仏正意」と出てきます善導大師の『往生礼讃』であり、読経のやり方の基本にあるのが『浄土法事讃』であると考えられます。
中でも、浄土真宗の初期の段階においては『往生礼讃』は中に説かれる六時礼讃の作法に従い日常勤行(毎日行うお勤め)がおこなわれておりました。この、六時礼讃をやめ日常勤行を現在の「正信偈」と「御和讃」を読むというかたちで定着させたのが、八代目の蓮如上人という方になります。その史料としては蓮如上人の子である実悟上人が『本願寺作法之次第』の中で
一当流の朝暮の勤行、念仏に和讃六首加えて御申候事は、近代の事にて候。昔も加様には御申ありつる事有けに候へ共、朝暮になく候つるときこえ申候。存如上人恩代まで六時礼讃にて候つるとの事に候。越中国瑞泉寺は綽如上人の御建立にて、彼寺にしばらく御座候つると申伝候。其後住持なくして、御留守の御堂衆ばかり三四人侍りし也。文明の初比まで朝暮の勤行には六時礼讃を申て侍りし也。然に蓮如上人越前之吉崎へ御下向候ては、念仏に六種御沙汰候しを承候てより以来、六時礼讃をばやめ、当時の六種和讃を致稽古、瑞泉寺の御堂衆も申侍しこと也。然ば存如上人の御代より六種の和讃勤に成申たる事に候。
とあって、蓮如上人が朝と暮れのお勤めにおいて六時礼讃をやめて、朝暮れのお勤めではよまれていなかった念仏と御和讃をよむという和讃勤にかえたとあります。ここでは、「和讃勤」とあるだけで「正信偈」には触れられていませんが、蓮如上人は文明五年(1473年)三月に『三帖和讃』に「正信偈」を加えて四帖として開板しています。これによって、日常勤行が六時礼讃をやめて、「正信偈」とすでに別の法要や念仏会などでは風誦されていた「御和讃」が採用されたようです。
では、なぜ蓮如上人は六時礼讃をやめて、「正信偈」と「御和讃」を採用するようになったかというと、これには歴史学的な理由と教学的な理由があると考えられます。
まず歴史学的な理由として文学史思想史の専門家である堅田修氏の説によれば、本善寺に残された蓮如上人自筆の文明五年十二月十二日の『御文(御文章)』(現在私たちが普段読んでいる『御文』の中には収録されていません)のなかには
近此は当国加州の両国のあいだにおいて、仏法についてあるいは聖教をよみて人を勧化するに、五人あれば五人ながら、そのことはあいかわれりと云々。是併法流相承なきいわれなり。或は聖道のはて、或は禅僧のはてなんとか、我本宗の字ちからをもて、なましいに自骨の了簡をくわえて、人をへつらいたらせるいわれなり。これ言語道断あさましき次第なり。向後において、かのことばしんようすべからざるものなり。
とあって、簡単に言えば天台宗や真言宗または禅宗等他宗の僧侶たちが、蓮如上人のもとで転派するものは多くあったようですが、浄土真宗の教えをよくよく勉強することなく、もともと自分のいた宗派の解釈で浄土の教理を勝手に説いていたという事態が起こっていたことがうかがえます。これは、大変な問題ですが、これは勤行についても同じことが言えます。当時六時礼讃は天台宗などでは勤められており、また真言宗などでも覚鑁大師が浄土教に注目し真言宗の中でも『往生礼讃』は学ばれていたことも考えられますので、六時礼讃の時にとなえられる『往生礼讃』の偈文は広く知られ、他宗から転派してきた僧侶はもといた他宗の勤行式に従いそれぞれに勤められていたことが想定されます。このとき、他宗でも使われていた六時礼讃ではなく、「正信偈」と「御和讃」という浄土真宗にしかないものを使った勤行式をつくる必要があったのではないかと考えられます。これが、歴史的な理由です。
次に教学的な理由という事ですが、まず「浄土三部経」の読経にしろ「正信偈」や「御和讃」の勤行にしろ教学的には助業にあたります。この助業という言葉に対するのが、正定業です。この正定業とは南無阿弥陀仏の念仏の事であり、念仏を称えることが浄土真宗では最も大事なこと考えられます。では、助業とは何のためにするものかといえば、親鸞聖人の師法然聖人は『選択本願念仏集』の中で
助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし
として、助業を傍らに行じながら、お念仏を中心に行いなさいとしています。これは、念仏では往生に不十分であるから他の読経や勤行をせよという意味ではなく、本当に大切なお念仏を称えるために助業を行しなさいという事です。いわば、読経や勤行はお念仏を称えるために雰囲気づくりのようなものという事です。
こういった勤行の意味についてに親鸞聖人のひひ孫に当たる存覚上人は『破邪顕正抄』のなかで、
つぎに和讃の事、かみのごときの一文不知のやから経教の深理おも知らず、釈義の奥旨をもわきまえがたきゆえに、いささかの教釋のこころをやわらげて無知のともからにこころえしめんがために、ときどき念仏に加えてこれを誦し用ゆべきよしあたえらるるものなり。これまた往生の正業にあらず、ただ念仏の助行なり。(中略)誦経等に対して、差別を論ずるに非ず、全分文盲のともがらに於ては、かの誦経等は、なおなし難く、この和讃等は学びやすき故に、もし声明にものうからん時、且は音声をやすめしめんが為、且は法味を味はしめんが為に、是を示しをかるるばかりなり。
とあって、「御和讃」は仏教の難しい文章が分からなくとも、お念仏の信心を心得させるためのものであり、お念仏を称えていただくための助業としています。つまり、「正信偈」や「御和讃」は親鸞聖人が経典の難しい教理教学を理解しなくても、お念仏の心を頂けるようにと分かりやすい言葉でつくってくださったものです。しかし、これは経典読誦を軽んじているのではなく、「浄土三部経」説かれているお念仏の心をすべての人に受け取ってもらうために「正信偈」や「御和讃」があるという事です。このような理解のもと、蓮如上人は親鸞聖人の本意は経典を読誦させる事にあるのではなく、お念仏を称えその心を頂いていく事にあるのだから、「浄土三部経」をわかりやすく解説してある「正信偈」や「御和讃」を中心としていったとかんがえられます。
この上述の事を念頭に置きますと気になるのは
>>毎朝お経をあげてゐます。CDで再生するといふ方法を採用してゐますので、その間に別の用事をすることができて、きはめて効率的です。
という文章です。質問者は何のためにcd再生をしていらっしゃるのですか?その間に別の用を済ませることができるということは、そのお勤めを聞くこともないわけですよね?もし、お勤めをあげることを目的でやっているのであれば、雰囲気づくりばかりやって肝心なことしていません。例えば、学生時代にテスト勉強をするために部屋を掃除しようと思い立って、部屋を掃除し終わったころには疲れて寝てしまって肝心なテスト勉強をしていないのと同じです。法然聖人は『九巻伝』に伝わっている言葉の中で、
名号を聞くというとも、信ぜずば聞かざるが如し。たとえ信ずと云うとも、唱えずば信ぜざるが如し。只常に念仏すべし。
とあって、お念仏を称えるようにならなければ何もしていないのと同じであると厳しく戒めています。また、親鸞聖人も御和讃の中でも「善導讃」において
助正ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり 一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし
正定業である念仏の傍らに読経や勤行のような助業を行ずるのではなく、念仏と同じように、また念仏以上のものとして読経や勤行を行うものは、雑修と呼ばれるもので、お念仏の心を頂いていないひとで、仏の心に報いようという気持ちもないとしています。
どうぞ、cdをかけているのでしたら一緒にお勤めしてお念仏を称えていただきたい。そうでなければ、cdをかけるこもただの自己満足ですよ。ご考慮ください。
誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
愚禿釋の親鸞さまより、ぢきぢきに御回答をたまはり、感謝いたしてをります。我が家は、母方が浄土真宗で、父方が天理教です。どちらの宗教も、私はほとんど何もわかりません。浄土真宗には、西東があるらしいのですが、どちらに属するのかも知りません。
>浄土真宗では「浄土三部経」が最も重いもので、「正信偈」はその次にきます。
私の周囲では常に「正信偈」が唱へられ、「阿弥陀経」と「御文章」がふろくです。「無量寿経」「観無量寿経」など、だれも知りません。祖母が亡くなつたとき、浄土真宗関連の私の書物も、遺体といつしよに火葬したのですが、岩波文庫の『浄土三部経』は、そんな変なものは祖母が喜ばないから、といふ理由で拒否されました。ですから、今も私の書棚に健在です。もちろん『教行信証』を知る者はゐません。「正信偈」が中にあるのですけれど。
>「浄土三部経」と「正信偈」の読誦の作法は大きく違います
これは初見です。覚えておきます。
>「正信偈」と「御和讃」という浄土真宗にしかないものを使った勤行式をつくる必要
>、「浄土三部経」をわかりやすく解説してある「正信偈」や「御和讃」を中心としていった
歴史的教理的理由を詳細に御説明いただき、ありがたうございます。これからも何度かこのお話に目を通す所存です。
>CDをかけているのでしたら一緒にお勤めしてお念仏を称えていただきたい。
承知いたしました。母はたまにしてゐます。今後とも御指導よろしくお願ひします。
合掌 南無阿弥陀佛
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