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悪人正気説というのは簡単に表すなら
「悪人こそが救われるべきだ」という考え方のことです。
ではこの思想についての「現代的意義」とは
どういうことをいうのでしょうか?
わたしには全く検討もつきません。

お願いします教えてください。

A 回答 (13件中1~10件)

阿弥陀仏の本願は、衆生の救済だ。


自力救済できる人は、阿弥陀の対象でなく、自力救済できない人こそ、阿弥陀の対象である。
で、阿弥陀の真実の光に当てられたとき「あ! 自分は 悪人だった」と気づいた衆生を救ってくれるのが、阿弥陀と悪人の関係。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E4%BA%BA% …
ここから要約。

んで、現代の環境問題を考えてみる。
二酸化炭素を出しているヤツは、悪いヤツだよな、なんて言っているのは、悪人正機でない。
「あ、自分は こんなに二酸化炭素を出している悪人なのだ」
と、気づいたときに、この人は救われる。

なんてのは どう?
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私自身はこの事について直接お答えできる立場にはありませんが、


親戚に大谷派のお坊さんがいるので、少し時間をいただけるのなら
メールで問い合わせてもいいですよ。

ただ、宗派によって多少の解釈の違いはあると思います。
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 日本の偉大な聖者・教祖の思想はヒンドゥの中にすでにいわれているものが多い。

ほとんどであると、存じます。一致するというか。
 現代的も、最初的も自分が進歩しようとして、出会う内的なことにしっかり立ち向かう人をいうと、理解しております。
 単なる善男善女ばかりではなく、自分の中の自分の闘うべき事柄を自覚できている人の事でしょうか?
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どうも。

何も知らない間違いだらけの、私見でよければ↓

悪人こそが。
と主語を悪人にするのではなく、

阿弥陀仏を主語に持ってきて考えたらどうでしょうか。
結局、救うのは阿弥陀仏なのですから。

この言葉は必ず
悪人とは誰か。とか、悪とは何か。
となるのですが…。

そんなことよりも
念仏唱えたほうがいいのではないでしょうかね…。

なにせ、阿弥陀仏がいなければ
悪人でも善人でも意味のない言葉ですから。

神も仏も信じないのが理性的で善である現代という時代に
仏を拝んでみれば愚かで悪かもしれませんが、

信仰無き時代に、信じるという悪を犯してみるのも
いいのではないでしょうかね…。
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>>悪人正気説というのは簡単に表すなら


>>「悪人こそが救われるべきだ」という考え方のことです。
 まず、「悪人」ということの意味についてお話させていただきます。親鸞聖人(以下尊称を略す)の人間観を語る上で『歎異抄』三条においての、

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや

という言葉は避けられないものでしょう。この言葉は、一般には親鸞の説とされていますが、この言葉は法然上人(以下尊称を略す)の説かれたもので、親鸞の説であると同時に法然の説であるとも言えます。また、親鸞のひ孫に当たる覚如の『口伝鈔』十九章「如来の本願は、もと凡夫のためにして、聖人のためにあらざる事」には親鸞が法然の言葉として、孫の如信に伝えたこととして、

御釈にも、「一切善悪(凡夫)得生者」と等、のたまえり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたわらにかねたり。かるがゆえに、傍機たる善凡夫、なお往生せば、もっぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しからば善人のもって往生す、いかにいわんや悪人をやというべし。

この二つの文を一言表したのが「悪人正機」悪人こそ正しく阿弥陀仏の本願に救われる対象であるということを言ったものとされています。ここで問題なのは、何が善人で何が悪人なのかということです。善人に関して、親鸞は『教行信証』化身土巻において、

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆゑに、報土に入ることなきなり。

と説いて、善人とは正法・像法・末法においての聖道門の人という広い意味をもって善人という言葉を用いています。この聖道門の人たちは、自らの修行によって作られた善根によって悟りを開くことを目的としています。その力によって念仏したのでは、それは自力の念仏であって、阿弥陀仏の本願に相応するものではありません。そういった善人では、極楽真実報土に往生するのは不可としています。特に末法においては「修行できない時代」ですから、自力の修行による念仏ではなおのこと往生はできないといえます。
 また親鸞は『歎異抄』後序の中において、「正機」ということについて、このようにも述べています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

「阿弥陀仏が五劫考え通した本願は親鸞一人のためであった」と、自身こそが阿弥陀仏の目的であることを宣言しています。阿弥陀仏が親鸞を救わんがために本願を立てたのだとするならば、親鸞はまさに「正機」に当たります。ということは、正機である悪人とは親鸞のことであり、親鸞=悪人ということ成り立ちます。親鸞にとっても阿弥陀仏の救いの目的(正機)である悪人というは自分の事にほかならないことがいえます。この「悪人」とはどのような意味を持つかというと、親鸞自身が悪人であるという自覚を述べていることからも、ただ単に現代において使用される悪人と言う意味ではなく、自分自身が悪人である事を自覚するからこそ、阿弥陀仏の正機たりえる悪人となるのです。ですから、悪人とは他者を判断する材料ではなく、深い自己反省に基づく自覚ものといえるでしょう。

>>ではこの思想についての「現代的意義」とは
>>どういうことをいうのでしょうか?
 善導大師(以下尊称を略す)「経は教なり。教は鏡なり。」とお説きくださっています。お「経」というものは、お釈迦様の説いた「教」えである。そして、その「教」えとは、自己を見つめなおす「鏡」である。浄土教においては、自己を見つめなおすことをやめてはいけません。それは浄土往生するために必須とされる信心のうちでも、「深心」という深く信ずる心においても、「自らの愚かさを見つめなおす(信機)」と「そんな私を阿弥陀仏は救ってくださる(信法)」という二つの信心が、作用しあって深まっていくとされます。信機→信法→信機→信法という具合です。つまり、浄土教思想において、自己を見つめなおすということを辞めてはならないということです。
 そして、その教えにしたがって自己を見つめなおし続けた一人が親鸞であり、その親鸞は『顕浄土真実教行証文類』俗にもうします『教行信証』の信の巻きにおいて人の真実の心をこのようの説いています。

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性やめがたし、事、蛇蠍に同じ。三業を起すといえども名づけて雑毒の善とし、また虚仮の行と名づく。

と説き、人間とは外側を取り繕い、自分を大きく見せよう、かっこよく見せよう、強く見せようとする存在です。しかし、そんなことはやめてしまいなさい。自分を大きく見せたいのであれば、大きく見せようとした小さな自分。かっこよく見せようとしたならば、かっこよく見せようとしたかっこ悪い自分。強く見せようとしたならば、強く見せようとした弱い自分に、目を向けてご覧なさい。嘘で外見を取り繕うことによって自分は弱さ愚かさ醜さを克服した気になって、取り繕うことの出来ない内側から目を背けることをやめなさい。と説いておられます。これをお釈迦様の言葉を借りれば、『法句経』というお経の中に「自分自身の愚かさを省みることができる愚か者を本当の賢者と呼ぶ。自分は賢いと自分の愚かさを省みることをやめてしまった者を、本当の愚者と呼ぶべきものなのです。」と説いておられます。お釈迦様も、愚かさを消し去った人間ではなく、「愚かさを抱えながらも、その愚かさから目をそむけることのない愚か者」でいる事を説かれています。それは、愚かさを消すのではなく、愚かさを背負うこと。弱い人間であるのなら、弱さを背負う強さを身に付けることであると思います。
 ではその愚かさを見据えることとはどういうことかというと、有名な良寛禅師(以下尊称を略す)はこのようなうたを読まれています。
 
愚かなる 身こそなかなか嬉けれ 弥陀の誓いにあうと思えば

良寛は愚かであることがなかなか嬉しいと説かれる。どうですか、littlechiさんは自分が愚かだったら嬉しいですか??私個人としてはあまり嬉しいとはいえません。けれども、良寛は嬉しいという、なぜか?それは、自分が愚かであるというところに気が付けたからこそ、それを支えてくれようとする人に気が付けたから。もし、自分が完璧な人間で生まれてこのかた人に迷惑をかけていないと思っていたならば、自分はひとりで自分勝手な生き方をしていたんじゃないか?けれども、じぶんの至らぬ部分に気がつけたからこそ、ここでは象徴的なものとして阿弥陀仏が選ばれていますが、その至らぬ支えてくれるのは阿弥陀仏だけではありません。父も母も友人もいろんな方々が自分を支えてくれている。もしかしたら今までガミガミうるさくて嫌いだと思っていた人であっても、ガミガミ言ってくれるということは自分に失敗させまいといてくれてるんじゃないか気になってくる。自分の愚かさ醜さ弱さなどを見つめなさいってのはマイナス思考ではなく、そういった至らぬ部分を見つめなおすことで、それを支えてくださる方々に気がつきなさいということであると思います。
 では、その支えてくださる方々に私たちはまず何をすべきかって言ったら、「ありがとうございます」これを言葉にしてお伝えすることです。だからこそ浄土真宗のお念仏は「報恩感謝のお念仏」というありがとうのお念仏であり、ありがとうも声に出さなければなかなか伝わらない。だからこそ、浄土真宗のお念仏は「称名念仏」声に出して称えなさいというのです。
 また、そのお念仏を「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、ありがとうありがとう」毎日お称えしていると、その声はめぐりめぐって自分の耳へと届きます。そのお念仏の声を親鸞は「非行非善なり」とといて、自分が行った善であると思い上がってはいけません、お念仏は「弥陀の勅命」仏様の声として受け取りなさいとお説きになられます。そのありがとうのお念仏の声は仏様の声として、だんだんと自分の中にたまっていって、普段の生活の中においても「ありがとう」って言いたくなっちゃうし、自然に「ありがとう」っていえるようになってくる。この姿を「他力本願」といいます。自分で言おうとして言うのであれば自力ですけど、別に自分で言おうとしてるわけではないんですから、思わなくてもでちゃうんですからね。そういった人が、阿弥陀仏の本願に相応した人であるといえるでしょうね。
 ですから、「他力本願」という言葉も他人任せという意味では使ってはいけません。「他力本願」とは、自分自身を見つめなおし、その至らぬ部分支えてくれる仏様や周りの方々に気づき、その支えへの感謝の「南無阿弥陀佛」をお称えすることで、思わず自然にいつでもありがとうを振りまけるような人になりなさい。てことじゃにんですかね??私は一つには「悪人正機」という自己反省の教えをこのように解釈しています。

 まぁこれは余談ですが、つい先日電車に乗ってましたら若い(といっても私とあまり変わらないと思いますが)男の人がおっきいヘッドホンを付けて、おっきい音で音楽を聴きながら電車に乗り込んできました。しばらくすると、初老の男性が「もうちょっと音を下げたもらえませんか」とおっしゃいました。しかしその若者は「あんたに迷惑かけてないだろ」といって、また耳にふたをしていまいました。
 この若者はその日は機嫌が悪かったのかもしれませんが、迷惑だから音を小さくして欲しいといってるのに、「お前に迷惑かけてない」という理由で音を下げない。話がかみ合いませんね。なぜか、それは学校でも家庭でも道徳教育において「人に迷惑をかけるな」と習ってきたからではないでしょうか?つまり、「人に迷惑をかけるな」という教え方は「人に迷惑をかけていなければ何をしてもいい」もっといえば「人に迷惑をかけていないと自分が思っていればなにをしてもいい」ということになりかねないということです。
 しかしインドでは「人に迷惑をかけるな」とは教えないそうです。まず何を教えるかといえば、「自分は人に迷惑をかけなければ生きていけない」「自分は気がつかなくても人に迷惑をかけてしまう存在である」という自己反省だそうです。だからこそ「人に迷惑をかけないような努力をしていきましょう」「気づかず迷惑をかけたときは素直に謝りま、それからは迷惑をかけないように努力しましょう」ということになるそうです。
 日本人の「人に迷惑をかけるな」は「人に迷惑をかけない完璧な存在になれる」という肯定から始まっていますが、その結果はどうでしょう
?「自分は人に迷惑をかけてないから、何をしたっていい」という回答を得る人は多くいるのではないでしょうか?
 「悪人正機」の教えは、先にも申しましたが「自己反省」であって、この「悪人」という言葉は親鸞がそうであったように自分以外の他者に向けられるものではありません。自分自身が完璧になりきることのできない人に迷惑をかけずには生きていけないものであることの自己反省です。そういった自己反省を持つからこそ、人に迷惑をかけられたときも出来る限りその人を支えてあげようと素直に思えるのではないでしょうかね。悪人正機は「自己反省は厳しく」「他者には肝要に」という二つの側面を持っていると思います。
 また、「悪人正機」は悪いことし放題でいいという教えでは有りません。法然は『念仏往生義』に

たとえば母の愛というものは、よい子でも悪い子でも分け隔てなく愛し育てます。けれども、子供たちがよいことをすれば嬉しく思い、悪いことをすれば悲しむでしょう。阿弥陀仏は全ての衆生を分け隔てなく哀れみ、その慈悲においては悪人も善人も救ってくださいます。けれども、善人を見れば喜び、悪人を見れば悲しむことでしょう

と、お説きになられます。悪人であっても阿弥陀仏の私のような愚か者でも救おうという思いを知ったからには、愚かであることには変わりはないし、煩悩が無くなって仏教的な善を完全に行えるわけではないけれども、阿弥陀様が悲しむようなことはできるだけしないようになろうとおもう。また、悪人であるからこそ「私は完璧なよいことはできませんが、一生懸命させていただきます」と頭を下げながら善い事ができるのだと思います。そうやって、仏様という基準を持って自分を見つめなおし、傲慢を起こすことなく善いことが出来るのもまた「悪人正機」の教えです。

 長々書き連ねましたが、これが私の「悪人正機」いただき方です。支離滅裂な駄文で読みにくいかと思いますが、文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛
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勘違いが甚だしいようで。

悪人とは、親鸞のいた鎌倉時代の獣の皮を剥ぐ"猟師"などの、仏教上で浄土に行けない立場にあった人のことを指します。

宗教の救済の手から零れ落ちた人をも救う、という考え方です。

宗教という一体系を、社会まで押し広げて考えてみましょう。

社会から零れ落ちた人を救済する価値観はなんぞや?これを問うきっかけをつくってくれる意義をいつの時代も人は忘れがちであるが、それを親鸞が考えたことの偉大さがあるのでしょう。つまり、マイノリティ救済の問題提起が悪人正機説の持つ「現代的意義」ではありませんか。
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 いろんな見方が自由に出来るということのために つづります。



 悪人正機説は 現代においては もう 意義がありません。
 《悪人》がもういないからです。
 
 悪をおこなっているというなら ほとんとすべての人があてはまると思いますが 今では 根っからの悪人は 見えなくなりました。その意味は 人としての存在が 確立されたからです。そうでなければ 人一人ひとりに主権がある(民主主義)とか そのおこないに対して個人として責任を負う(自由意志の問題)とか このような思想も まだ 時期尚早であると反対されてもよいからです。
 人は 部分的に 悪をおこなっている。自分の責任でおこない 答責性を免れることはない。

 そうしますと 悪人こそが正機であるという考え方は それほど意味を持たなくなったのです。それとして おおきな思想だと考えますが 現代人にとっては 悪人(またそのような自己認識)も善人もその区別が 成仏あるいは救いにとって それほどの意味を持たない こう言えるのではないでしょうか。

 もしその意を汲んで この思想をさらに発展させようと思えば 

   死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
   死よ、お前のとげはどこにあるのか。
    (イザヤ書25:8(意訳))

  死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
   (コリント前書15:55-56)

というように 《律法》つまり規範が 問題だという見方も出てくるのではないでしょうか。悪なら悪 善なら善という規定によって それが罪の力となる場合があるのではないかというものです。どうせ死ぬ身なのだからという解釈が 悪人を言うにしろ悪人の自覚を言うにしろそのような倫理規範を凌駕して 現代市民というふつうのホモ・サピエンスの立ち場を ゆるがせるに至るかも知れない。
 罪にしろ悪にしろ 死のとげについての自己省察の結果として なおまだ 人間としてのはからいが 後を絶たないという別種の問題もあるのではないでしょうか。

 まだ熟さないと言わなければならないかも知れません。
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仏教って、いろんな解釈があって


どの解釈が正しいか?なんてことを、あんまり気にしない宗教だから
ご自身が腑に落ちる考え方を採ればイイと思います。
私も自分の中で腑に落ちた考えをベースに回答します。

ただし、解釈は自由であっても、仏教の目的はひとつで
●煩悩や執着を取り払い、心の平静を得ること
であると理解しています。

悪人正機説でいう悪人とは
●修行しても修行しても煩悩が取り払えない、オレって罪深い人間だなぁ
と悩む人のことです。
このような、自分の罪深さに苦しむ人たちに
●そこまで深く悩まない(考えない)人だって救われるんだから
 深く悩む(考える)お前さんが救われないことはないだろう
っていうのが「善人なおもて~」の意味です。

悟りが得れないことが執着になっている人たちに対する
一種の「方便」だと思います。
仏教で「方便」って大切だと思うのですね。
仏教は「解釈が正しいか」より「救済効果があるか」を重視する
非常に現実主義な宗教だと私は理解しています。

罪深かったり、病を患ったり、老いたり、死んだり、っていうのは
人間が生きていく上で避けられないことです。
要するに「自然の摂理」です。
死にたくない、極楽に行きたい、生まれ変わりたい、そのために祈るんじゃなくて
死ぬのは自然の摂理だから諦めて受け入れろ
自然の摂理に「おまかせして」みろ
それを自分に言い聞かすために祈ってみろ
おまかせが出来るようになると「生き方」が変わるぞ、ってことですよね。
どう変わるか?は言葉では説明されてません。
ただ「自然の摂理」を「阿弥陀」と呼び
「おまかせの境地に至ったときに見えてくるもの」を「悟り」と呼び
その境地を「涅槃」と呼ぶのだと思って
悪人正機説を読み直せば、現代的意義が見えてくると思います。
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全く異なった文化が同じ結論に到達するにはそれなりの理由があるのでしょうね。



ギリシャ:ソクラテスの無知の知
キリスト教:ラクダが針の穴を通るよりも難しい
親鸞:善人なおもて往生とぐ

このことの意味が分からないなら、貴方はまだ大人にはなっていないのでしょう。君子に対する小人です。
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もし、困った人を救いたいという気持ちになったときどうしますか?



飽食の国日本に米を送る。足りないというから送ってあげたのにまずくて食べられないという。はては不法投棄。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1993%E5%B9%B4%E7%B1 …

善人と称する人々は気持ちに余裕もあり、その宗教、宗派の意向に沿った形で必要とされる修行もし、宗教上の儀礼もこなし、お布施等もして、教義に精通し、その方面では確固たる地位を築き、こころの底では自分が救われないで誰が救済されるかなどと考えている場合があります。もちろんそんな事はおくびにも出さないで、神妙な外観を装います。

しかし、それは宗教上のこととはいえ、人間社会の世俗の地位であって、仏から直接この儀礼の方法でないと貢物は受け取らないとか、そもそも祈りも含めてそれが仏が受け取るべきものであるかどうかもわかりません。

公平に見たとき、心の中で真摯に仏を必要とし、仏に呼びかける人があるとすれば、それは、そのような宗教、宗派の儀礼、掟から遠く離れた人であり、ともすれば生活のため宗教上の禁止事項を犯してしまったような人々も考えられます。

宗教が人間生活の一翼をなしていると考えるとき、現代的意義とは、信仰が地縁団体や宗教団体上の地位の確保にあるのか。それとも仏と直接繋がるという内心のものであるかということであると考えます。そこで門徒物知らずとはむしろ褒め言葉であると考えます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E5%BE%92% …
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