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”伊豆の踊子”からです。
<はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきつと閉ぢたまま一方を見つめてゐた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。はしけが返つて行つた。>
行為者がわかりずらいです。
以下ついて、行為をした者は、踊子ですか、私ですか、教えて下さい。
 1.さよならを言はうとしたのは、どちら?
 2.それも止したのは、どちら?
 3.うなづいて見せたのは、どちら?

A 回答 (11件中1~10件)

これについては、作者、川端康成自身が同様の質問を受けたことがあったそうです。



川端は当初(1~3とも)「踊り子に決まっている。それが分からないのは、読み方が足りない」と思

っていましたが、作品を読み直してみて、「私」が主語(動作主)と取られる可能性があることを初めて

知ったそうです。

それは、もし主語(動作主)が「踊り子」だとしたら、他人である「私」に「さよならを言はうとした」

という内面の心理が分かるはずがないからです。

しかし、その一方で川端は「私が・・・振り返つた時、さよならを言はうとしたが」の文で、「さよなら

を言はうとした」の前に「踊り子(が)」という主語が隠されていると見るのが自然ではないか、とも

述べています。

確かに「さよならを言はうとしたが」の主語が「私」であるなら、冒頭の「私が」は「私は」とするべき

でしょう。「は」は文が前件、後件に分かれる際、後件にまで影響を及ぼす機能を有しているからです。

①私は家に帰ると、テレビをつけた。

②私が家に帰ると、テレビをつけた。

①の「テレビをつけた」の主語(動作主)が「私」であることは、疑いの余地がありません。これに対し

②の「テレビをつけた」の主語(動作主)は(おそらく「私」と同居しているであろう)「私以外の者」

となります。
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この回答へのお礼

早急なご回答ありがとうございました。
”さよならを・・・”という
<内面の心理が分かる>
のは、私しかいない、ということですね。じつは、質問者も、最初、私と推量しました。そして、以下、すべて私の行為と思いました。しかし、何か不自然なものを感じました。”私「が」縄梯子・・・”に対応すれば、”(踊り子は)さよならを・・・”となるのかな、などの疑問が湧いてきました。そこで、この質問をした次第です。
作者という創造主が躊躇している、ということを教えて頂き、質問者が迷うのは無理もない、と思っています。

お礼日時:2015/06/26 11:59

#10です。


しつこくて申し訳ない。

何度か読み返すうち、文脈で、もうひとつ気づいた点がありますので補足させてください。
「私が縄梯子に捉まろうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。(そんな、仕草を見せていた踊子を乗せたまま)はしけが返つて行つた。」という文脈に、どうしても思えてきます。
牽強付会のお叱りを受けるやもしれませんが、比較的、自信はあるつもりです。
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この回答へのお礼

たいした質問や問題提起でもないのに、度々お付き合い頂き、恐縮しております。
<踊子を乗せたまま)はしけが返つて行つた。>
のですね。淡い気持ちをお互いに残したまま、二人は離れたのですね。

お礼日時:2015/06/29 21:45

#2、#3です。



>しかし“唇をきつと閉ぢたまま・・・”では、外見描写だけで、内面描写がなく、さよならと…の部分だけで、踊子の内面を理解できたのは、不自然と感じます。読唇術でも知らなければ、内面が了解できない、と思いますが。

まず、両者ともに、さよならを言うべき場面であるのは、暗黙のうちに了解していたはずです。
そうした背景の中で「私」は、「縄梯子に捉まろうとして振り返つた」のです。
振り返った(その)とき、踊子は「私」を見つめ返したことでしょう。(あるいはすでに「私」を見ていた)
その目は何か言いたそうで、一瞬、唇も微かに開きかけるかのように見えた。「さよなら」と言いたい気持ちであることは、「私」にとって容易に理解できたはず。
仮に、そうではないにしても、ここは、「さよならを言はうとしたが」を「さよならを言はうとした(ように見えた / ように思えた)が 」の略と捉えても差し支えありません。
当初は、「やはり(=相変わらず)唇をきつと閉ぢたまま」だったのが、「私が縄梯子に捉まろうとして振り返った」ことをきっかけに、(ああ、もうこれが最後なのだ)という思いが湧き上がり、一瞬、「さよならを言はうとした(ように見えた)。」という構図。
これが「文脈的な理由」です。

しかし、主体が踊子であるとする決定的な理由は、次のような「文法的な理由」からです。
「【私が】縄梯子に捉まろうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。」
という文において、「さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。」の主体が「私」であるとすれば、それはあまりに不自然と言わざるを得ません。
なぜなら、「私が縄梯子に捉まろうとして振り返つた時、【私が】さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。」という構文にならざるを得ず、これは非文と言ってよいと思うからです。
これが、行為者は踊子である決定的な理由になるでしょう。
#1さんのエピソードによると、『作品を読み直してみて、「私」が主語(動作主)と取られる可能性があることを初めて知った』と著者は言ったそうですが、これはリップサービス、または、一時的な勘違いだと思います。
「私が会社を出たとき、社長に挨拶したが、向こうは気づかなかったようだ」
という文で、「社長に挨拶した」の行為主が「私」であると解釈するのが不自然であるのと同様です。
挨拶したのは、一緒にいた同僚などであると解釈するべきで、行為者が「私」であるなら、「会社を出たとき、(私は)社長に挨拶したが、向こうは気づかなかったようだ」のように表現する必要があります。

「もう一ぺんただうなづいて見せた」に関して。
それまでに、うなづくような描写があるのかどうかはわかりませんが、仮に無いとしても、「さよならを言はうとした」ときに、うなづきながらそうしたことを想定しても良いかもしれません。
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No.8です。

私の印象だけで回答しましたが、次のサイトを読むとやはりいろいろ問題視されているようですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86 …
特に、「別れの場面における主語の問題」をご覧ください。
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございました。
Wikiに載っていたのですね。既に先人も検討していたのですね。
川端も、この部分に悩んでいたようですね。このWikiを読んで、一番印象的だったのは、三上智央の分析でした。私には、まだ理解できていないのですが。

お礼日時:2015/06/27 08:32

>踊子は、・・・・・一方を見つめてゐた、という人柄なのですね。

従って、心も体も動いているのは、私の方なのですね
直接顔を合わせている間はそうだったけれど、船が動き出した後で船を追いかけるようにして、手を振り続けていたと記憶していますが、記憶違いかも知れません。それがいっそう踊り子に魅力を感じさせたという気がするのですが。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
このご回答に触発されて思い付いてことです。川端は、計算ずくで、踊子が・・・・・一方を見つめてゐた、というように、読者に彼女の心などの動きをわからせず・神秘的にしているのかもしれない、かなです。

お礼日時:2015/06/26 21:52

言葉は意思、情報伝達の最も有効な手段です。


一方、人は思っている事の半分も言葉にできない、また聞く方もその半分も理解できなと聞きます。
また言葉は、音楽や絵画と同様、感動その他の何かを表現する手段としても使われます。
山鳥の長尾鳥のしだり尾の長々しきを・・・・・。
通常の情報伝達の文章なら、「の」の連発で即×です。
が、詩としては、逆にこの「の」の連発がむしろ◎なんですね。
踊り子について、細やかな情景描写の最中に、私にかかる事実情報の伝達文章があれば、読者としては、せっかく引き込まれていたのに・・・・、いっぺんに興ざめです。
この場面での「私」は情景描写の一部で私自身が登場しただけで、主格の「が」を伴っていますが、役者としては、脇役になります、そうでなければ文学作品としては多分評価に値しないと思います。
この、カテで外国人?、が参考にしている文法の書物、日本語は理解するが、文章が理解できない日本人が、国語の試験対策で、日本語の文章、理解できないままで、点数を稼げる、ハウツウ本を参考しているのではと思われるケースも見受けられます。
例 ・・は、の述語は文末にある。
文末のいくつかの言葉を選び、サイコロ振っても、何分の一かの確率で得点可能です。
そして、文章を理解する人にとっては、主語、述語の関係は問題にすらなりません、百発百中的中します。
そんな人がごそ?っと合格枠?をとった残りをできない人が奪いあいます、運よくとおっても、同じ内容で学んだのでは、理解不十分は目に見えていますね、先行きは・・・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
文学作品を文法だけで、理解(解釈?・分析?)しようとするのは、もったいない(片手落ち?)かもしれませんね。(今、自戒をしつつ)

お礼日時:2015/06/26 21:44

作者がNo.1の方が、作者自身の見方を述べていらっしゃるのですが、わたしの感覚では、「踊子はやはり唇をきつと閉ぢたまま一方を見つめてゐた。

」という描写が効いているため、1.2.3.全部が私の動作に感じられます。
 この作品を読んで、踊り子はそういう少女だと感じました。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
新しい解釈を紹介していただきました。
踊子は、・・・・・一方を見つめてゐた、という人柄なのですね。従って、心も体も動いているのは、私の方なのですね

お礼日時:2015/06/26 19:48

補足


原本はよく知りませんが、この部分は踊り子についての描写が主と思います。
文学作品にはよくあります。
踊り子の描写部分であれば、当然すべて踊り子の行為です。
抜き書きされた部分だけで判断しようとすれば、私の行為になります。
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>言はうとしたが


>それも止して
ともに、私の心のうちだけの描写、外部にもそれと分かる行動がないため、踊り子が・・・であれば、私にはわからない。
ともに、私の心情、行為。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<私の心のうちだけの描写>
ですね。一貫している解説ですね。

お礼日時:2015/06/26 19:40

#2です。



すみません。一部訂正です。
動作主が「私」の場合、「もう一ぺんただうなづいて見せた」は不自然ですね。
「ただうなづいて見せた。」とする必要があります。
「私が」という表現を外した上で、この部分も変えれば「私」の可能性も出てくる。(むろん、踊子の可能性も保留される)
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
もう一ぺんただうなづいて・・・の部分も難しいですね。

お礼日時:2015/06/26 19:38

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