街中で見かけて「グッときた人」の思い出

子供のころから、物事を考えること、いわゆる哲学的なことに興味はもっていたものの
特に勉強したことがなかった私は、哲学初心者なのですが、ここで第一歩から考えてみ
たいと思いました。

1.哲学という学問の目的はそもそも何なのでしょうか?

2.また、我々人間にとって自己の哲学を持って生きるということは、哲学を持とうとしな
い人と何が違うのでしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

1.哲学という学問の目的はそもそも何なのでしょうか?



哲学は、学問の根幹でありますからね。
今より成長し、今より何かをよい方向へ向かわせるため
それを導き出すのが目的。


2.また、我々人間にとって自己の哲学を持って生きるということは、哲学を持とうとしな
い人と何が違うのでしょうか?

持たなければ、多くは翻弄され不本意が続くと思います。
哲学を持つということは、根拠を持つことですから
道に迷わず、自分として人生を歩いて行けるかなと思います。

どちらを選んでも、生き方の良し悪しでは無く
どちらが自分にとって好ましい生き方か。
それさえも選ぶことができる訳ですから、学びは可能性ですよね。
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この回答へのお礼

極めて明快なご回答ありがとうございます。
哲学者の使命はあまりにも重要ということになりますね。
社会においても、個人においても、各々の哲学の基盤に
「普遍的正義」あるいは「普遍的真理」が置かれるべき
だと、思うのです。

お礼日時:2015/06/28 18:59

お礼ありがとうございます。



>また、生きることの難しさだと感じています。

そうですよね。
生きていると難しいことは沢山ありますよね。

人は自分の中に羅針盤を持っていると思います。
自分の中に答えがある。
だから、それを知るために自身に問う。

哲学は、自身に問うことで
自身の中から答えを探す(出していく)学問です。

外から入る情報は、情報でしかないのです。
それをどう使っていくのかは、本人の自由意志に任されています。
適切なこと(もの)を選ぶために、自分に問うのです。

自分の答えは、誰でも自分が持っています。
進む道は、解きながら示される方へ行けば大丈夫でしょう。

自分の持つ羅針盤は、精度は高いです。
自分に背を向けず、自分を欺かない。
そうしていけば、答えは自ずと決まって行きます。

その場合、自分自身としっかり交流を取ってくださいね。
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この回答へのお礼

「羅針盤」=「自我」とすれば理解できます。

しかし、それが正しいかどうかーー理解できません。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/30 16:29

>1.哲学という学問の目的はそもそも何なのでしょうか?



もちろん哲人28号を開発するためです。

>2.また、我々人間にとって自己の哲学を持って生きるということは、哲学を持とうとしな
い人と何が違うのでしょうか?

哲人28号のリモコンを持っているかどうかの違いです。
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この回答へのお礼

う~ん、もう一息でベストアンサーだったのに。

お礼日時:2015/06/30 16:20

朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也。



朝この世の道理・真理を知ったなら 夕方に死んでも良い。と言う言葉ですが

死んでもいいと言うのは それくらい必死に求める求道心を持っているということです。

道理なら分かるかもしれませんが 真理を知る事は出来ません。

従って死ぬ必要はない訳です。

哲学とは元々愛知(知を愛する フィロソフィー)なのですが 考えることです。転じて考えて得た「考え」

範囲は主に「人生観」と「世界観」です。

上の道 道理と言うのはその両方ですが 主に人生観の方を「道」と言います。

高村光太郎の詩に「道程」と言う詩がありますが それを読まれるといいと思います。

今は情報が溢れすぎて 脈絡がなくなってる様に思えますが、

昔は人生とは何だ?と人生の生き方の道理 道を求める人が多かったのです。

人生観 世界観を幾らかでも持っていれば 生き方や価値観に違いが出てきます。

世の風潮に流されるばかりではなく 筋が通った考えが出来る様になるのです。

なかなか難しいですが 大切なことでもあります。

女性が子供を産む事と どっちが大切かと言われたら・・・う~~ん

負けるかもしれません。哲学はなくても死にはしませんが 女性が子供を産まないと人が絶えてしまいます。

でも昨今は人口爆発で人が多すぎて困っています。その中でどう生きるのが良いのか これは考えて置かなければ

近未来に困り果てるかもしれません。 哲学とは色々と考えることです。
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この回答へのお礼

人間らしく生きるために、「哲学」を。という感じでしょうか。

お礼日時:2015/06/30 16:19

哲学は真善美に類することに関して思索を深めることと言ってもいいかもしれません。


現代においては真の追求は科学がメインで担うものとなり、
そこで得た普遍性の運用(方向性)という意味での真すなわち善の追求から
その先に開ける多様な美の意味についての考察までが求められているのだろうと思います。

哲学を持って生きるということは、
その哲学が普遍的でないならば頑迷に陥るというリスクを伴いながら
もしそれが普遍的であった場合には自分の人生を生きているという実感を伴って生きることができる、
そんな意味があると思います。

哲学を持とうとしない人には経験からの諦めみたいなものも多分にあるのだろうと思います。
普遍性をつかむというのはそれほどたやすくないということかもしれません。
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この回答へのお礼

「真善美」ーカントの価値論ですね。
これは、永遠の価値観なのでしょうか。

「哲学」というものの重要性は、多くの人は否定しないでしょうが、
進歩していないのでしょうね。

お礼日時:2015/06/30 16:13

人の生きる目的が、物質的な豊かさや短絡的な快楽の


ためか、心の豊かさ=精神的な充足感、特に認識の
深まりに基づく、より明確な意識による長期的意志の
幸福感のためかによって異なる。
物質的な豊かさのためには、直接的な効果はないが、
精神的な充足感の最大化において、認識の深まりは、
直接的な効果がある(逆に物質的な状況は間接的な
効果になる)。

人の生きる真の目的である「人生を通算した精神的
充足感の最大化」において、一般に考えられている
ような「欲求の強さ」と「その達成度」だけでなく、
そうした充足感を感じる意識をハッキリさせる
「認識の深まり」や「時間的延長において欲求同士
が矛盾しないように長期的意志を可能にする認識の
深まり」、「そうした『達成度』を感じる感受性を
バックアップする認識の深まり」など、認識の深ま
りが重要なファクターであり、世界観を成す哲学の
重要な役割である。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/30 15:58

哲学とは


哲の字が示す通り
理の知恵を追い求めるのがテーマである
目的は人が人であるための宿命みたいな物
永遠のテーマでもある

曰く
「人は考える足である」

辞書引用であるが

哲:
1 道理に明るく、知恵がある。「哲人・哲婦・哲理/英哲・明哲」
2 徳や知恵のある人。才能・識見のすぐれた人。哲人。「賢哲・十哲・西哲・聖哲・先哲」
3 「哲学」の略。「印哲・中哲」

さて本題に入るが

哲学のない人は
人が人であるための宿命のなんたるかを持たない
いわゆる猿と同じである
つまり
本能のままに動くだけの人となる

哲学を持って生きる事は
出口のない回答を永久に求め続けるようなもの
知恵たる知恵を持たんがために
より知恵を得ようとなる旅人となるのである
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/30 15:47

1. 一般論で言えば、「人間とは何か? 我々とはどういった存在なのか?」ということに対する問いかけでしょうね。

科学や技術と対比されて議論されることもあるでしょうが、事実や結果から言えることと、その結果をどのように受け止めるかの答えは見出せませんからね。

2. 色々な状況に流されない。自分を見失いそうになった時に、どうするべきかの根本的な部分を与える。人生って、考えてる以上にあっけなくこれまで積み重ねてきた事実が覆されたり、否定されることってありますからね~。そういう時に、立ち止まって自分はどうしたいかを考えるのに、そういう超越的自我は必要になります。持とうとしない人間、というのもまた、「何もかも柔軟に受け入れる」ということを積極的にしているのであればそれはそういう哲学ともいえるかもしれませんけどね。でも、不思議と魅力のある人って多かれ少なかれある程度の人生哲学を持ってますから、だれの意見も尊重します、自分はご都合的にどんな価値観も受け入れます、なんて人で素敵だなあと思う人間は見たことありませんね。
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この回答へのお礼

哲学でも才能でも技術でも、オリジナリティこそ魅力かなと思います。

お礼日時:2015/06/30 15:45

ニャンポコリンさん、こんにちは。

私は初めてこちらに投稿しますが、哲学用語辞典などは持っていませんので、意味はさっぱりなので、イメージとして診てもらえれば幸いです。

哲学の目的とは、すなわち超越的な自我をもつことであろう。
超越を説明するならば、哲学の第一命題は自己が存在することであるが、他人もまた存在することを決意性により規定し、共存在として本来的自己を了解し、また、共存在に対しては気遣いをしながら、語り合い、死への不安を抱えながら、死を受け入れつつ先駆すること。ここに本来的自己そのものを踏み越えようとする超越が可能なのである。

哲学を持つものと持たないものの違いとは、すなわち超越したものと、超越しないものの違いである。

超越したものは、集団の中にあればその集団を思いやるだろう。なぜならばその集団が、うたかたの夢であることを知っているからである。しかし集団の中にあっても欲の追求には隷従しない。とりもなおさず人間的な終焉を知っているからこそ、足るを知っているのである。

超越しないものは、集団の中にあればその中で儲けようと姑息な策略を巡らすものである。なぜならば終焉を知らないからである。また、足るを知ることなく、死に際にまでも金を掴もうとするのである。
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お礼、ありがとうございます。



>哲学者の使命はあまりにも重要ということになりますね。

確かに。
ただ、重要視するかどうかは個人の自由
つまり、その人の裁量に任されています。

ゆえに
>社会においても、個人においても、各々の哲学の基盤に
>「普遍的正義」あるいは「普遍的真理」が置かれるべき
>だと、思うのです。

これさえも、自由なのです。
自らが認識し、それを望んだ人が真摯に向き合うことのみが
それを得る手段ですが、自由なのです。

多くの人が、様々なものを手にしたいと思い描きますが
それを手にする手段が、哲学に有ると知らずに
避けてしまっていますよね。

だから砂上の楼閣を追ってしまう。
それさえも、自由が許されているのです。

土台がしっかりしていれば、現実は夢を叶える場所になるのです。

学ぶことです。
自分から掴むことです。
日本では、基本誰にでもチャンスがあります。

自らの意思を持ち、自分にチャンスを与えるのは自分自身です。
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この回答へのお礼

重ねてのご回答ありがとうございます。
人間は自由なんですよね。
これほど素晴らしいこともなく、
また、生きることの難しさだと感じています。

お礼日時:2015/06/28 21:54

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