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よくこの様な言葉を耳にします。 その悲しみの種類とはいったいなんでしょう?

身近な人間の死去、重病、、。、離婚、解雇、大ケガ、、、。、失恋、試験の失敗、ケンカ、孤独、
(種類を挙げればきりが無いですが) 要するに例えばこれらのことを言うのでしょうか?
そうではなく、なにか他の“特殊”な事でしょうか?

悲しみにも大小あると思いますが、やはり大きな悲しみほど人を成長させ、強くするのでしょうか?

楽しくない出来事の内、自業自得によってもたらされる物もありますよね。 例えば、試験勉強がイヤでその結果試験に失敗し、悲しむ。 悲しみポイント1ゲット。 強くなった。、、とか、好きな人に告白する勇気が無くて思いがとどかなく、孤独のまま。 ポイントまたゲット。 強くなった。 などなど。 このようにそれらも悲しみとして体は認識し、自己を強くするのでしょうか?

申し訳ありませんが、「自分はこれこれこういう経験で“自他共に”強くなった」と思う方だけに特定させてください。 無理言ってすいません。(こんな事言ったら誰からもこなかったりして、、悲)

A 回答 (8件)

恋人が出て行った。

彼女の使っていた座椅子や、食器、シャンプーなどはそのままだ。背丈に合わせて買った風呂場の低すぎる腰掛けには、水滴が溜まっている。
彼女が去って30分。まだ帰ってくるかもしれない。
 
・この彼の部屋の状態は、彼の心そのままだと思うわけです。彼女用に作り変えた部屋の家具(心の形)、しかし、それを使用する人はいなくなった。面影だけが残ってる。
 
どうだろう、こんどあって話さないか?
いや、ご飯食べに行く?
謝りたいんだけど、、
御託を並べて選別する。どれも的確ではない。
彼女が去って三日がたった。連絡はなし。
着信も拒否。
仲直りしたい、そういう欲求がでる。
 
・彼女にあわせて作った心の形が、その形そっくりに当てはまる内容物を探しています。つまり、彼女に戻ってほしいわけです。空っぽのままでは、枠組みの重さに耐えれず、心が崩れてしまうからです。内容物があるから、心は形を保っていられるということです。 
 
シャワーするとき、腰掛を横によけるようになった。
前使ってたシャンプーも空になった。新しいのをつかっている。食器はまだそのままだけど。
どうにも寒いね、一人のベッドは。涙が止まらないのでほっておく。
彼女が去って3週間。
 
・心の新陳代謝が進んでいます。心で、彼女がいないという空虚に耐えれず、崩れるところは崩れ(涙がとまらない)、整形されるところはされてゆきます(腰掛を移動させる、シャンプーを変える)。
 
電話をかけてみる。かかった。
お前のもの、服とか食器とか、とってるんだけど、それ取りに来ないか?
しゃべっている自分に、極地、地球の果ての風が吹く。声も少し上ずって、重みが無いのかもしれない。
まったくホロウ。
だけれどこれは、仕方の無いことだ。
あと、すこし、飯でもくいながら話そう。
彼女が去って三ヶ月。雲の種類も変わった。
 
・いよいよ総決算。彼女との別れを決心します。
もうこれで終わりなんだ。いずれにしても、時はスクロールする。
心の中で、彼女の分、その他の分、整理があらかたついている。彼女の分をどうにかするのに、彼女のお墨付きがいるわけです(鍵が要る)。
 
会って早々。
ごめんなさいと彼女が言った。
私が間違ってたんだ。一方的に傷つけてごめんね。許してくれないよね。。でも、少し話しましょう。いい機会を作ってくれてありがとう。
 お前の浮気を俺が認めた。俺が馬鹿だったけど、俺が認めなければ別れはもっと早かったかもしれない。俺を捨てて、いったんじゃないか。そう思えば。
だけれど、浮気された後、俺には勇気がなかった。ずっとお前だけとすごしてゆくことに。そういうことばかり考えて、現状をやり過ごしていた俺が、そこにいたから。
 
そうね、私は止めてほしかった。すきにしろなんて台詞は最低だった。そんな屁をこいた余裕なんて見せてほしくなかった(笑)。私が浮気したことで、あなたが離れてしまったことがすぐにわかった。。
結局、浮気の彼とはすぐに終わったのよ。
 
・彼女(鍵)を使って、心の遺物の精算をしています。鍵が無ければできないこと、鍵が無ければ動かないものもあるわけです。だから、別れのときにこういう形を取れるのは、お互いを思いやるなら然りの方法です。
 
部屋に荷物をとりにくるか?
ええ、残念だけど。私があなたの心からいなくなってゆくようで。
部屋に上がっちゃだめ?
今はだめだね(笑)。別に入りたいならいいけど。
わかった、じゃあドアの外で待ってるね。
 
・彼女を締め出し、ついに彼女のいない部屋を確立する。心の立て直し方は人それぞれ、しかし、涙とともに崩れた部屋の壁はそのままです。心が再生したわけではありません。壊れた壁の隙間(心にあいた穴)からは、部屋の外が見えます。その景色を、彼女とともに見るのはずいぶんな矛盾をきたします。なぜなら、その壊れた部分の壁を支えていたのは、彼女の存在だったからです。 彼女がいる=壁のある部屋が成り立っている つまり今、彼の心には、彼女の居場所がなくなってしまったのです。今の彼に、今の彼女を受け入れることは必要でないということです。彼女という支えが必要な壁は、もう崩れてないからです。

じゃあ、よかったらまた話でもしようよ。
ああ、そうだな。(楽しかったことも、、、あったな)
 
・彼は強くなったでしょうか?それは、彼が壊れた壁の向こうに、何を見たかで変わってくると思います。
ここが、彼の、今のあり方を左右するところだと思います。彼女と、彼女の存在が支えていた部屋の壁にどんな意味があったのか。それが、壁の崩れた今、わかるわけです。
その見える景色が、彼の成長の全てだといってもいいと思います。
 
で、まとめにはいりますと、
人は、傷つくことで、自らの心の部屋から旅立つ準備をするのではないでしょうか。心は、他の存在を自らと同居させることにより、その領域を広げていきます。お互いの心に、住みあっているわけです。それは何のためか?
心の動きを見てみると、暮らしていく中で、心は一定の成長を遂げると、崩壊することで、領域を超越していっているように見える。役目を終えて、あえて退く過程をたどっているのではないか?そういう風に見えます。
 
大きな悲しみほど、その崩壊した心で暮らしてゆくことは困難になります。悲しみを認識することすら許されない激事には、発狂したり、人格が荒廃したりしてしまうこともあるでしょう。部屋(心)が、爆発したり、只の廃墟になることも。

傷つくことで、人は小さな死を体験し、ことごとく存在の危機に直面していると考えます。で、私は想像します。20年たったあとの、12チャンネルPM五時。
「さぁみんな、今日もたくさん死んだかなー?」
それは言いすぎですか(A^^;
  
 
心は牢屋ではなく、住居たること。大事に育てられた人は、多くの人の心に住まわせてもらい、多くの同居人(人物とは限らない)に住んでもらっており、邪険に、邪魔者扱いされて育ってきた人は、一人牢屋に入れられている、そうなっていると思います。
脱獄の心で闘うのか、営巣の心で風雨に耐える(話の彼)のか、どちらにしても、心は解体されるべくして生まれてくると考えます。 
準備のいい人は、心に窓なんか作ったりして、外の様子を伺ったり、部屋に風を入れたりしているのでは。
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この回答へのお礼

とっても文学的というか、詩的というのか素晴らしい内容の返信だと思いました。

。。。。ってか、 長っ! 笑。(冗談です)

こんなに豊かな内容の返信を受け取ったのは初めてです。 途中コーヒーを入れながら、気を引き締めなおして読み直しました。

質問の答えとして一つのノンフィクションストーリーを通して伝えてくれたのですね。 話の内容はわざわざ質問のために考えてくれたのでしょうか?

>お互いの心に、住みあっているわけです
素敵な表現ですね。 人は一人では生きていけませんからね。

>壁の向こうに何を見たか
それが見えない人はいつまでも廃墟の中で過ごしていて、身も心も荒れてしまっているのでしょうね。
私はその壁の向こうになにかを見つけたのでしょうか?(自問自答) それを見つけるのには自分の力でしか出来ないのでしょうね。 何も見つからず、そのうち廃墟こそが我が心の住居になってしまわないようにがんばります。

とても為になるお話ありがとうございました。 回答者さまは脚本家かなにかでしょうか? もしくは小説家?
なにか並々ならぬものを感じました。 

お礼日時:2005/01/25 12:49

経験談は限りないので割合させていただくとして(笑)、やはりそれらによって「悟り」を得たとしても、それはその「宿題」を出した神様にフィードバックされるだけで、結局、自分にとってはありがたくもなんともないと思います。

それが人の本音かも?

例えば無理やりやらされた好きではない分野の勉強(私にとっては数学や物理)を、赤点とらないためにやったということと、自分が好きな分野(私にとっては心理学や哲学)をやらされるというか好きだから自主的にやるんですが、同じ課題を与えられても、充実感が違うんですよね。

人が悲しみや苦しみに出会って悲しんだり苦しんだりするとき、誰かが励ましてくれたり、高尚なことを言って啓蒙してくれたり、黙って聞いてくれたりしますが、それは宿題をしたあとの「おやつ」のようなものと思います。「おやつ」だと思ってありがたくいただいても、その味は苦いんです。私はおやつならばやっぱり甘いものがいい。

悲しみは悲しみで、その性質は固有のもの、人それぞれ違うと思います。外部世界を、自分の世界で見ること、これを心理学では「自己表象」といいますが、その「メガネ」によって外部(同じく「対象表象」)への見方が変わります。世界は「主体」ではなく、自分を主体として見た「客体」なのかもしれません。まったく感覚麻痺している人がいて、誰かにとっては死にたいくらいの悲しみでも、その人にとっては痛くも痒くもないわけですよね。誰かが死んだ、その人を大切にしていた人にとっては悲しみですが、通りがかりの人にとっては心の中で手を合わせるくらいで、せいぜい神妙にできることだけかもしれませんが、死んだ人、もしくは遺族と近しい間柄ならば、悲しみは容易に伝達し、かけがえのない他人にとってもの「悲しみ」となるでしょう。

また孤独が嫌でたまらない人がいても、私のような芸術家にとって(失笑)「創造の源」として捉えているので苦ではないと思う人もいます。

私は「かなしみ」とは二種類あると思っています。ひとつは「悲しみ」でもうひとつは「哀しみ」。前者は一過性的、浅い傷、忘却性、陽性などの概念。例えば身内の誰かが死んだ。でももうお年寄りだったし、死ぬのは皆覚悟していたから神様にのお迎えがきたということ、または失恋したけれど、そのときは死ぬほどつらかった、でも一ヵ月後にはとっくに別の誰かと付き合っていた、というような例を挙げましたが、つまりはそんなレベルです。
後者は宿命、トラウマ、粘着性、根本的などの概念。繰り返される悲劇、螺旋階段を昇ったり降りたりしているような出口のなさ、自分が自分として生まれてきた実存、悲観主義者、答えのない問い…のようなことでしょうか。
軽い幸福感は余裕を感じさせるので、人への優しさ(しかし対症療法的な)を、躁状態のような幸福感は万能感や思い上がりを、与えがちですが、本当の「哀しみ」を学んだ者の与える優しさは、神の愛そのものといえるのではないでしょうか。

私は幸薄い人間なので(笑)、もし自分が欲しいと思えるような幸福はどんな種類があるのだろうと、よく「幸福の条件」(映画のタイトルにもありましたよね)を思い浮かべます。でも一般的にいわれているその条件って、数えられる程度なんですよね。つまり物質的なものではお金、地位、名誉、権力とか。でもお互い連鎖がある。地位は権力と同義語。権力を得るということは、何かの会社とか組織の中でトップにいることだから、自然にその労務に対する報酬もついてくる、名誉は発明や発見などの学術的、また芸術の分野で与えられる傾向が強いけれど、名誉を得たらその知名度で、出したものが売れる→お金を手にするというリンクがあるわけです。
勿論地位や名誉に与えられたお金は最終的な段階で手にするようですが、最初からお金それだけのために生きるというか価値を見出す人や、仕事として集めようとも思わないのに集まってくる場合もある。

悲しみの種類はご質問者様が質問で挙げたように多数ありますが、「幸福」と同じように何かの連鎖があるとしたら、それは切り離された人と人との「連鎖」でしょう。
地位とか名誉ってそれ自体も素敵な事ですが、いつ堕ちるか?という不安も同時に与えられます(つまり「諸行無常の…」ですね)。幸福もそれへの属性を呼ぶけれど、それ自体の幸福感は単体のものであるかと思います。でも哀しみが追う切り離された連鎖とは、人との関係の復興への願いではないでしょうか。そこに、かのようにいじらしく、強く弱い存在としての人間賛歌が聞こえる気がします。
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この回答へのお礼

>本当の「哀しみ」を学んだ者の与える優しさは、神の愛そのもの
対症療法的ではない、神の愛そのもの、の優しさというのは、というか、その優しさを持った人は本当に大した人物なのでしょう。 そういう人は存在するだけで、その人とその周囲が理想的な状態を保ちそうですね。
残念ながら、私自身はその様な人物になる自信はありませんから、せめてその様な人に巡り会えたらな、と思います。

回答者さまは、心理学や哲学を学んでらっしゃるそうですが、学問的視野からのご回答非常に学ぶ事多数で、人生の糧となりました。 ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/27 07:08

こんにちは.



質問を見かけてから考えていたのですが,なかなか難しいなぁっておもいました.

 たぶん,私が思うに,ポイントは,『背負った』というところなのかなぁ・・・.

たぶん,悲しみを経験しても,そこにとどまるだけでは,悲しみを『背負った』ことにならず,
強くもなれないのかなぁって思いました.


 つらく,悲しい経験をしても,それでも,次に踏み出そうとする

それが,悲しみを『背負った』ということになるのではないかなぁ.

つらい別れを経験して,もう,誰とも関わらない.

関わらないでいられることは,一見,強さのように見えて,
関われないという弱さなのだろうと.

そして,つらい別れを経験しても,また,誰かを愛したい,愛せるということが
悲しみを『背負った』ということになるのではないかなぁ.


一生懸命,気持ちを伝えてくれた.

でも,自分には向き合う勇気がなくって,話題をそらした.

今になると,あんなに真剣に言ってくれていたのに,
どうして,自分も真剣に答えられなかったのかと思うと,本当につらく,悲しく,申し訳ないと思う.

この悲しみを糧に次に進むことが『背負う』ということなのかなぁ.
そして,すすめる強さをもつのかなぁ.


人に関わったり,頼ったり,人を信じたりすることは,裏切られるかもしれないということを含んでいて,
それでも信じたいと思う人の強さ.
それでも信じずにはいられない人の弱さ.

たとえ,信じていて,それがかなわなくても,
それで傷つき,悲しんだとしても,
それでもまた,誰かを信じる.

それが,悲しみを背負うことであり,また,信じようと思う人の強さなのかなぁ.

なんか,ちょっとずれてきたように思うけれど・・・・.


 たぶん,自分1人のことだけ考えるなら,自分のことだけなら悲しいことってそんなにはないのかなぁ.

他者との関係があるから,大きな深い悲しみも出てくる.

人と関わることで,人は弱くもなるし,悲しみも経験する.
でも,そういったことも乗り越えて,また,他者と関わる強さが人にはあるのかなぁ.


うーーん.考えるとだんだん混乱してきます.

悲しみを背負うということは,悲しみとともにいられる強さかなぁ・・・・.

他者によってもたらされる悲しみを,また,
経験できる強さ・・・・.


むずかしいですね.


私は弱虫なので,悲しい経験をして,
もっと強くならねば!!と思っている途中なので,

強くなったとは言えないので・・・・.


こんなに悲しい経験をしても,それでも生きていて,
また,悲しい経験をしている・・・・.

そう考えると,弱虫の割には頑張っているなぁ.

でも,たぶん,多くの人はそうなのかなぁ.

みんな,頑張ってるのかな.

いつか,頑張らなくても悲しみを受け入れられるようになったら,本当に強くなれるのかな.

どうなんでしょう・・・・.


なんだか,独り言のようで,
まとまりがなく,しりきれトンボで申し訳なく思いつつ・・・.
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この回答へのお礼

まさに、転んでも転んでも再び起き上がって、また前に進む、進まねばならない。 強い人間ですね。
持久力がいりそうですね。 

人間以外の動物は七転び八起きですね。 そうしないと、自然の淘汰に飲み込まれてしまいますから。 人間はそれとは違って頭がいいから、転んだら、もう転ぶのはイヤだから、なにか言い訳を作って、寝転んだままになっちゃう時もありそうな気がします。

なんだか自分で何を言ってるのか解らなくなってきました、汗;

貴重なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/27 06:37

悲しみを背負った人間は強くなる、と言うよりも、悲しみに対して耐性ができると言うことではないでしょうか。


経験とは即ち“慣れ”です。
初めて告って振られたときはショックが大きいですが、何十回と告っているうちに振られても動揺しなくなります。
映画の兵隊さんも同じようなことを言ってます。最初の戦闘は恐怖だがそのうち敵を撃つのにも慣れるのです。
強くなったともいえるし鈍くなったともいえます。大体、人間の成長などとはきわめて主観的で、ご都合主義のことですから。
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この回答へのお礼

なるほどな、というご回答ですね。
確かにそうですよね。 耐性がなければ人間いつになっても始めての幼稚園(又は保育園)登園で、母親から離れる悲しみから抜けれませんからね。 (そういう人もいなくもないらしいですが、、)

個人的には、異性への告白とか、毎回の初デートとかは、いつになってもドキドキなんです。 汗、、
(余計な事をいってしまったかも、、、テレテレ)

それが真理か、と思わせる返信ありがとうございました。 とてもためになりました。

お礼日時:2005/01/27 06:15

私にもどん底での悲しみや、ご質問中に有る悲しみがたくさん有りました。



強くなれる悲しみとは、どんな種類であれ、その人の心を通して「人に思いやりを持てるようになれた悲しみ」だと思います。

悲しみが有って、人を逆恨みし、悪意の復讐をしたのでは強くなったとはいえないでしょう?

私にも、人にも言えない悲しみが有ります。が、自分の弱さを知り、ひとの痛みが分かった事が一番の強さです。

私は、私の弱さと無力さが、強さなのです。

実際に自分の体験として悲しみを知ることも有ります。また、目の前でおぼれている人がいるのに、自分の力ではどうする事も出来ず、最悪の結果を招いた事で、自分の無力さを知り、悲しみを知る人もいるでしょう。あかの他人が死んでも、自分の人生に何の影響も無いのに、・・それでも、自分の無力さを知った人間は、それが強さになると思います。

弱さや、無力さを知ると、人の痛みがわかります。どん底の時は人の冷たさを知り優しくなれない自分があります。でも、人のぬくもりが欲しく、偽善と解っていながらそれでも人に優しくします。周りがかわってきます。そうなると、その人それぞれの暖かさが見えてきます。そして、どんなにぼろぼろの自分でも、まだ人を助けられる自分があることに励まされ、希望が見えてきます。

私は、自分が弱い事で、人に支えられ、人を支え、そして、弱さの中で希望を見出していく事を知りました。

このことは、お金を出して買える物ではないです。実際、貧乏のドン底の時期もありましたが、それでも生き抜いていける人の暖かさを知りました。それは、私自身が悲しみを知り、人を思いやれる所から生まれたのだと思います。

確かに、根本的に精神的にも強くなったでしょう。でも、人と人との間で生きていくのに、「自分の弱さが強さ」になるということを知りました。

だから、悲しみの種類は問わないけど、その人にとって、「他人を思い遣れるように、その人を変えた悲しみ」が強さにかわるのだと思います。

自分の弱さと、人の痛みと。。その中で見出す希望の大切さを知った今、私は強くなれたと思います。私の弱さが、私の強さです。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございました。
哀愁を感じさせるHNの方ですね。

>私は、私の弱さと無力さが、強さなのです。
感銘するご意見ですね。
弱さを、それから強さに変換できる人というのはやっぱり大した人物だな、と思います。

私は自分の弱さにほとほと幻滅しています。 でも、もっと悲しいのは、自分で「弱いな~」と思ってもそこからなにも自分で進展させる事が出来ない事です。 いつまでも弱いのです。  他人も自分と同じく弱いのだろうな、と思って、共に弱さから目を逸らさずに力になりあって生きていくべきなのでしょうか?

まだまだ私は人生経験がたりないようです。 まだまだ傷を負う事が恐ろしくてたまらず、傷を負ったらそこを自分でなめる事以外に目が行かないようです。 上手く表せませんが、、、、

でも、ご返答が大変為になりましたことは本当です。 人生の参考になりそう。 ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/25 13:56

悲しみを背負って強いのは、


北斗神拳伝承者だけではないでしょうか?
一般人は、もらい泣きするだけでしょう!
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この回答へのお礼

あはははは!
私もその漫画の大ファンです。
ちなみにこの質問はその漫画から取ったわけではありません。(実際に漫画の中でそんな内容出てきますよね!笑)

それを理想、憧れとして生きていくには、ケン(主人公)の人間性と人生はあまりにも大きすぎますよね。 あくまでも“漫画”の中の話ですもんね。

ユーモアな返信ありがとうございました。 懐かしい気分にさせてくれました。

お礼日時:2005/01/25 13:12

 悲しみに種類というものがあったとしても、それを尺度では計ることが出来ない、とおもっています。

悲しみの渦中にある人にとっては、それが最大の悲しみであり、他人のそれと比較など出来ない、個人的な、特殊な、不条理な状況であり、独りで墓場までもっていくしかない、というもまであるのではないでしょうか?
 この事は、は身内にも、友人にも誰にも言えない、例えば”心の神”と、自分だけで乗り越えてゆくべきもの・・・という経験が、人を強くすることもあるかもしれません。よって、私の体験はあなたの質問に答えられない・・ということになります。 お分かりでしょうか?
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この回答へのお礼

>独りで墓場までもっていくしかない
まさしく、「悲しみを背負っている」という姿が目に浮かびます。

>自分だけで乗り越えてゆくべきもの・・・
他人ではどうする事もできない、という事でしょうか。
まさに、「独生独死、独去独来」の片鱗を見る思いです。
お返事ありがとうございました。 具体的な悲しみの内容はありませんでしたが、文全面に「悲しみ」を彷彿させる返信だな、と思いました。 

お礼日時:2005/01/25 12:12

私の体験です。



「人の振り見て、我が振り治せ」と言われます。
最近、本当だと、思うようになりました。

人生、色々と失敗もしましたが、それが、今では、逆に、財産になっています。

人の気持ちを解かろうとしたら、それだけ、色々な経験をしないと、本当に実感として解かりませんし、相手にも話せません。

良きにしろ、悪いにしろ、それを今後の自分に生かせるかどうかは、その人自身です。

教養があり、知識もあり、経験も豊富な人ほど、謙虚です。
見栄をはらなくても、別な意味で、実力もあり、人間味も有るからです。

今までの人生で、感じた事でした。

参考になれば、幸いです。
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この回答へのお礼

人の気持ちが解る人
っていうのは、本当に憧れます。
私は人の気持ちが人一倍解らないのかもしれません。
それもこれも経験が浅過ぎるのでしょう。
でも、“経験”というのは辛く恐ろしいものばかりなんですよね。 眼前にそびえ、さて行くぞ! と思っても、あ、チョット待って、チョット一服させて、一服したら必ず行くから、、、、と、ついつい躊躇してしまいます。
そこに、顔色一つ変えずに颯爽と突き進んでいく人はやっぱり凄いな、と思います。 そういう人になりたいもんですね。
お返事ありがとうございました。 大変参考になりました。

お礼日時:2005/01/25 11:46

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