プロが教えるわが家の防犯対策術!

自分で考えるべき問題なのですが、考えてもわからないので教えてください。哲学の著書を書いている池田晶子さんの「14歳からの哲学」の「心とはどこにある」の章で次の文が出てきます。

心なんてどこにもない。だって、君が悲しい気持ちでいる時、その悲しい気持ちはどこにあるだろう。頭にあるものでもなくて、ただ悲しいという気持ちが明らかにあるだけじゃないだろうか。いつもの友達の顔をみても悲しいし、どこかへ出かけても悲しい。その悲しいという気持ちが、すべてを悲しくさせているんだから、その意味では、心とは、すべてなんだ。体のどこかに心があるのではなくて、心がすべてとしてあるんだ。

の、心とは、すべてなんだ。以後がよくわかりません。  
宜しくお願いします

A 回答 (26件中1~10件)

>>> No.23の補足欄


科学の方法は、新しい事実の発見、観察から始まり、仮設を立て、それを実験等により、解析・証明しているわけで、新しい事実の発見は、脳が勝手に作り出したものではないはずです。
それについては、どう思いますか?
<<<

半分はそうであり、半分はそうでないと言わざるを得ないでしょう。
脳の想像力は、時として現実を凌駕します。
その例として有名なものは、やはり「無限」に関する概念でしょう。
たとえば、直近のものとしては
「時空」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5360466.html?ans_cou …
があります。

また、池田氏は、本人も明言されておられるように、唯心論から入っています。「入り口」が異なっても、繋がり合っている全体(「すべて」)という概念が同じならば、見る方向が異なるだけということになります。池田氏の記述に違和感を感じると言うことは、やはり「入り口」が異なると言うことです。

「入り口」が同じように見えても、微妙に形や大きさや位置がずれています。その「ずれ」こそがアイデンティティへと結びつくものになると思っています。すなわち、人々は、それぞれの「入り口」をもって、全体(すべて)へと繋がり合っていると思っています。

「すべて」をすっぽりと包み込むような感覚の入り口を持つ人もいれば、針の穴から覗くような入り口を持つ人もいるでしょう。また、「すべて」の内部に幾層もの殻をかぶった状態で、ひとつずつ打ち破っていくようなイメージを抱く人もいることでしょう。

そういうことだと思っています。

>>>
そんなふうに、心の動きを細かく観察してみると、心とは、二つに分かれるのではなく、もっと数多くの部分(又は層)に分かれている感じがします。
(又は、各層でネットワークを取っている感じもします。)その辺もまた、著者の説明に物足りなさを感じています。
それについて、どう思いますか?
<<<

「こころ」というものに関する概念区分は様々にあるでしょうが、多くは、たとえば「知・情・意」といった区分があります。
さらに細かく分けているものは、たとえば「多重知能」などです。(この辺りは「知・情・意」の全てを、「知(能)」というフィルターを介して区分しているとも言えます)

知能
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%83%BD

多重知能
MI:個性を生かす多重知能の理論 (単行本)
ハワード ガードナー (著), Howard Gardner (原著), 松村 暢隆 (翻訳)
出版社: 新曜社 (2001/10)
ISBN-10: 478850779X
ISBN-13: 978-4788507791
発売日: 2001/10


また、脳に関する本は様々ありますが、

進化しすぎた脳 (ブルーバックス) (新書)
池谷 裕二 (著)
出版社: 講談社 (2007/1/19)
ISBN-10: 4062575388
ISBN-13: 978-4062575386
発売日: 2007/1/19

あたりは、お勧めかも知れません。

最後に
>>> No.23 お礼欄
実は、自分は頭を抱えています。自分は、相手を考えて回答お礼の内容を変えています。
相手により、簡単に返答したり、断言的な表現にしたりしています。ですから、それぞれの回答へのお礼は、別の人への回答のお礼ではありません。
<<<
とのことで、申し訳ないことをしました。
お許し下さい。

ただ、応答された言葉の裏側を含め、全てを思ん図ることは困難なことです。他の方への発言であっても、質問者様の見解が質問の主たる内容に関することであり、かつ、違和感を感じた場合には、アドバイスをしたくなってしまうものです。

私の場合、表現の仕方よりも内容に関心がありますので、言い換えられたものについても、おそらく、同様のアドバイスを記述したと思います。

これからの思索について、何らかのお役に立てれば幸いに思っております。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

いつも、早い、かつ丁寧な回答ありがとうございます。
これから先は、提示していただいた資料を読み込み、思索する作業を続けていきます。
また、何か、行き詰って質問することがあると思いますが、その時は宜しくお願いします。
とりあえず、今回の質問はこれで締め切らせていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/20 12:57

 mintarou1さん。

貴方の問いかけに、いまさらながら私が曖昧な性格であることを思ってしまいます。

 私自身の回答を読み返してみました。日ごろ思っていることなので、言っていることは本人には分かるのですが、舌足らずのようです。

 「個」と「全体」は、つながっている。「全体」の持っている「性能意志、理性、感情」また「意識、記憶など」が「個」に反映されている、と受け止めているのです。

 全体も個も「精神、こころ」は同質であると。例えば人の好ましいほうの心「良心(やさしさとか)」は、神や仏の心の反映である、というように。

 そんな思いが、あのような表現になりました。
 今回も舌足らずかもしれませんが、多少は理解していただけたでしょうか。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうすると、全体と個の区別が曖昧になる(というか、区別ができない)気がしますが、その解釈でいいですか?
とすると、それは、著者の説明とは、まったく別の考えだと思いますが、yy8yy8azさんの、独自の考えを述べていると考えていいですか?

お礼日時:2009/10/20 09:37

 受け止め方は同じように思います。



 私の説明が適切でなかったかも知れません。

 「こころが心を見る」

 は、ちょっと曖昧な表現かも。

 さくら組は、感情、理性、意志。
 保母さんは、それらを意識する(という能力)。

 こころが心を見る=保母さんがさくら組を見る。

 こんな解釈をしています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

とすると、保母さんとさくら組は、
どちらが、小我で、どちらが大我ですか?
または、どちらが、個(自分)で、どちらが全体(真我)となるのですか?

お礼日時:2009/10/20 07:07

No.8 & 15です。



>>>No.19のお礼欄より
「14歳からの哲学」での問題の投げかけでは、その結論にはすぐに達しないんだよ。でも
考え続けたら、そこにたどり着けるから、頑張って考えなよ!

って、解釈できるんですよね。
だから、僕は、その結論に至る以前の、「心とは、すべてなんだ。心が全てとしてあるんだ」
の理解をちゃんと得て、その次の段階として、思考を進めて、宇宙の果て・・自分に果て・・
の理解に至ろうとして、今回の質問を投げかけたんです。
<<<

はじめに「答えありき」を想定し、そこに向かって、自分の考えを当てはめていく。。。
「ひとつの」考え方を踏襲し、トレースする手段として、一度は必ず行うべき手順ではあります。
しかしながら、そこが終点ではありません。さらに「その先」、複数の可能性、未知の領域がひろがっていると考えるべきです。(と、池田氏は書いておられます)
もし、そこに何らかの「違和感」を感じるのであれば、(おそらく、今回の質問を出されたのも、「違和感」を払拭できないからこそ出されたのだろうと想定されるのですが)、mintarou1さんの想定可能な「こころ」と著者が想定可能な「こころ」とが「ずれている」と考えるべきでしょう。

「すべて」をちゃんと理解しているといえるには、「独我論」や「一元論」や「二元論」などといった概念を含めて、先に引用させていただいた「心の哲学」関連の各種考え方について、深く洞察する必要があると思います。

私は、もう一冊、池田氏の死後にまとめられた三部作の一つ「死とは何か -さて死んだのは誰なのか-」(毎日新聞社)を持っていますが、著者の見解(ひとつの「こころ」に関する考え方)は、「新・唯心論」として明確に記述されています。

>>>「死とは何か -さて死んだのは誰なのか-」p.43-45より
モノゴコロついたそのときから私は、ココロ以外のものがこの世にあると思ったことがなかった。(中略)だから大人になってから、人々のココロの秤には、ココロとモノとが同じ資格でのっていると知ったときには驚いた。
<<<
池田氏は、自分以外の考え方をも受け入れるだけの「ココロ」をもっておられるからこそ、「他の考えを理解」しえたというべきでしょう。

上記箇所以外に、明確に著者の立場が記述されている箇所を引用しておきます。

>>>「死とは何か -さて死んだのは誰なのか-」p.126-137
私はしかし、物理科学が得意ではない。(中略)宇宙について考えているのは、我々の頭である。我々の頭にある理論によって、外界の物質の法則を証明するなら、証明されているのは、我々の頭の論理の側であって、外界の事柄、未知そのものではないのではなかろうか。
どうしても、そう考えてしまうのである。こういう私にとって、宇宙とは、すなわち、それについて考えている自己なのである。宇宙は、自己もしくは内界なのである。この奇妙な事実に気がつくと、これはこれでまた玄妙な宇宙探査の旅がはじまるのである。
<<<
「新・唯心論」をはじめ、この部分は、一歩踏み外せば、映画「マトリックス」や、星新一氏の「水槽脳」が類推され、いわゆる「独我論」と重なる思考法になっています。もし、仮に、唯心論的に「自身のこころ」が宇宙全体だと「本当にそれのみを信じる」のなら、そこ(宇宙内部)におけるあらゆる出来事の責任は、そう思っている「自身のこころ」にあると言われても仕方がないことになりかねないということを、十分に顧慮すべきです。責任を回避しつつ、そのように主張しようとするならば、内部矛盾を抱え込むことになりかねないでしょう。
ただし、著者は、「私は、そう考えるんだけれど、そういった考え方もあるよね?」程度の表現しかしていませんので、留意すべき所です。

>>>「死とは何か -さて死んだのは誰なのか-」p.126-137
しかし、心なんてもの、いったいどこにあるのだろう。(中略)自分の中に心があるのではなくて、心の中に自分がいるのである。この逆説は、考えるほどすごいことで、我々、どれほど深い思いこみによって、この人生を生きているものであるか。

いまだ何も知らない

コラム10回目。最終回です。(中略)彼らも我々も、等しくこの未知なる大宇宙に、なぜだか存在し、そして、そのことの何であるかを知ろうとして考えている。(中略)科学の仮説を一知半解する我々素人は、つい、すべては解明されたかのように思いがちだけれども、慎みたいものである。我々は、いまだ何も知らない。知らないと知るからこそ、なお知ろうとパッションを燃やすのではないですか。
【初出】「朝日新聞」2004年8月28日~10月30日東京夕刊
<<<

まず、とっかかりから。。。
>>>>>
自分の中に心があるのではなくて、心の中に自分がいるのである。
<<<<<
このように感じることは、別段不思議ではありません。「意識・無意識」「知・情・意」といった「こころ」の概念区分をだれしも有するということからも、「意識・意」といった領域に「自分」という概念を想定するならば、「心の中に自分がいる」ようにすら思うことができます。
まさに「自分」とか「心」とかが、その人の「思うようにある」わけです。

で、注意すべきは、
>>>>>>
我々、どれほど深い思いこみによって、この人生を生きているものであるか。
<<<<<<
「思いこみ」するのは、「我々」すなわち、池田氏を含めて「皆」が対象になっています。

。。。思索の最初は、(「思いこみ」を含めて)「どれか一つのみが真」として進めていかざるをえないでしょうが、「他の可能性を排除せずに」考えを進めていくことが大切でしょう。。。

注意すべきは、上記引用の
>>>
コラム10回目。最終回です。(中略)彼らも我々も、等しくこの未知なる大宇宙に、なぜだか存在し、そして、そのことの何であるかを知ろうとして考えている。
<<<
です。
著者が意図して書いているかどうかは不明ですが、「彼らも我々も、等しくこの未知なる大宇宙に、なぜだか存在し」です。
すなわち「大宇宙の中に存在している」ことを前提としておられます。
池田氏の考えておられる「こころ」も「自分」も「未知なる大宇宙の部分」であることを了解しておられる記述だと考えます。

(p.133からの「宇宙の果ての、その先は?」にも、同様の記述があります)

さて、一つの解釈としての
>>>
「○○としたら、どうする?」
<<<
ですが、

この部分には、「そうでなかったら、どうする?」ということを暗に示唆されていると考えるべきでしょう。。。

池田氏の文章(とりわけ「14歳からの哲学」)は、自身の感覚を大切にしながらも、あらゆる考え方を尊重しようとする姿勢が見られます。
それが、どういった意味をなしているのかを深く考えるべきだと思います。

この回答への補足

話は少し変わりますが、自分が、池田晶子さんの著書をいくつか読んで不満に思うのは、科学に対する考え方に違和感を感じます。
「14歳からの哲学」でも感じるのですが、たとえば、k_jinenさんのあげている上の例では

 「宇宙に考えているのは、我々の頭である。我々の頭のなかにある理論によって、外界の物質の法則を証明するなら証明されているのは、我々の頭の理論の側であって、外界の事柄、未知そのものではなかろうか」

この考えでは、科学そのものが否定されてしまいます。しかし、著者の言う頭の理論の証明によって、飛行機が飛び、車が走り人工衛星が地球の外を回っています。文明そのものは、科学の成果であり、その恩恵の上で、著者も生活しているのです。
その事実と矛盾するように思われて仕方ありません。
科学の方法は、新しい事実の発見、観察から始まり、仮設を立て、それを実験等により、解析・証明しているわけで、新しい事実の発見は、脳が勝手に作り出したものではないはずです。
それについては、どう思いますか?

それから「14歳からの哲学」で、回答No12の回答への補足で著書の本の内容を引用しましたが、その中で、とても、気になる点があります。
 著者は、
「自分の性格を冷静に観察、分析して考える自覚できるというのは、自分の中に自分でない部分、自分のことを他人のように見ることができる部分があるということなんだ。
目に見えないもの、思いや感じのことをひとまとめにして「心」と呼んでいるいるけれど、同じ目に見えないものの中でも、動いて変わる部分と、変わらない部分がある。前者が感情、後者が精神だ。感情は感じるもので、精神は考えるものだ。

と書いています。

しかし、自分の心の動きを観察すると、「考える」行為と「観察する」行為は、まったく別の部分が働いているように感じます。
たとえば、「考える」行為は、自分で自覚できます。ということは、「考えているもの」を、観察している「もの」があるといえると思います。
これを、精神という言葉で一くくりにするのは、心に対する理解の障害になると言う思いが強いのです。

また、自転車に乗るとき、最初は頭で、手足の動きを考えますが、慣れてくれば、考えなくても自転車に乗れます。
つまり、考える行為も、変わる部分と、変わらない部分があると思います。

そんなふうに、心の動きを細かく観察してみると、心とは、二つに分かれるのではなく、もっと数多くの部分(又は層)に分かれている感じがします。
(又は、各層でネットワークを取っている感じもします。)その辺もまた、著者の説明に物足りなさを感じています。
それについて、どう思いますか?

補足日時:2009/10/19 19:45
    • good
    • 0
この回答へのお礼

長い丁寧な回答ありがとうございます。

実は、自分は頭を抱えています。自分は、相手を考えて回答お礼の内容を変えています。
相手により、簡単に返答したり、断言的な表現にしたりしています。ですから、それぞれの回答へのお礼は、別の人への回答のお礼ではありません。

No19への回答お礼が、k_jinen へだと仮定すると
 著者は、宇宙の果て・・・自分の果て・・・について、ひとつの解釈を得ているように感じています。
 それは、別の著書・・・からも内容からもその思いを強くしています。
 それが、著者の最終的な結論か、途中の過程かは分かりませんが・・・自分は、ひとつの道しるべように思っています。
 自分も自分なりに考えて、著者の考えを追っかけるわけですから、著者と同じ解釈に自分が至るかどうかは分かりませんが、
 その前段階として、「心とは、すべてなんだ。 心がすべてとしてあるんだ。」
 の理解が必要になると考えて、今回の問題を投げかけたわけです。

という風な、感じになると思います。
その辺を、ご理解ください。

お礼日時:2009/10/19 19:45

 強要が言いすぎであれば、哲学とか、思索思考を推奨?しているのは間違いないでしょう。



>疑問を感じたら感じたら考えるのは、心の自然の出来事だと言っているのです。

 その通りです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

最初から繰り返しているように、あなたが同意したように、疑問を感じたら、考えるのは心の自然の出来事だと思っています。
自然というのは、「水が高い所から、低いほうへ流れる」様な、現象と思っているということです。

それに対し、不幸とか、強制とか、推奨とか、価値観を持ち込むのはおかしいと考えていると言う意味です。

お礼日時:2009/10/19 19:52

NO.19です。


>その意味では、心とは、すべてなんだ。体のどこかに心があるのではなくて、心がすべてとしてあるんだ。

著者は上記の部分の説明を以下のNO.12 の補足の文として提示されているのですね。
随分丁寧に書かれてありますし、私たちがいまさらそれを解説するまでもなく質問者様は深く全体に理解されてあるように思いますが、私自身の気分の収束のために、以下の部分を提示します。それで充分だと思います。

>目に見えないもの、思いや感じのことをひとまとめにして「心」と呼んでいる
>中でも、動いて変わる部分と、動きも変わりもしない部分とがある。前者が感情、後者が精神だ。
>性格や人格というもの、それらがそのまま自分であるのではないけれど、それらを感じているのは自分でしかないのだから、心というのも、よく考えると自分であって自分でないような不思議なものだ。
>「自分である」ということは、こんなふうに、見える側から考えても、見えない心の側から考えても、いや、考えれば考えるほどに、
奥が深くて底が知れないものなんだ。何を「自分」と言えばいいのかわからなくなるほど、全てに広がっているゆくものなんだ。すべて、そう、宇宙の果てまでね。
自分=心 として考えれば、それこそ宇宙のように広く、大きいものだといえる、とここで言っていますね。宇宙が全世界の象徴だとしたら、それと同じように、心は(全世界の)すべてだ、といえないでしょうか。そして、まだ人類は宇宙が何ものなのかということを理解出来ていません。その意味で私は 分からない、といったのですが、飛躍しすぎていたようです。
未だに私は質問者様の本当の質問内容を理解できていません。申し訳ありません。もうやめます。
ご参考になれば。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。それから、回答のお礼遅くなりすみません。
色々な、哲学の著書を読んだり、考えているうちに時間が過ぎてしまいました。

私の質問の意味が分からなくてもいいと思います。自分でも本当に、理解して質問しているか断言できませんし・・・
それから、独自の解釈を述べられていますが、自分も最終的な解釈には至っていません。
分からないという事は、著者の「大成功だよ。分からなくなったからこそ、これから考えられるんだ。」と言う事になっている様にも感じます。
その意味では、正解かも知れませんよ。

お礼日時:2009/10/19 19:55

 そうですか、私は14歳といえば哲学どころか考えることもしませんでした。

14歳でも今の子は考えるものなんでしょうか、何事も急がないで、ゆっくり進む 位のつもりでいたほうが良いと思います。

 少なくとも思考することを、大人や親が強要するものではないでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

14歳で、考えることをしないなんてあるでしょうか?
あなたは、学校の試験は、考えることなしに解答を書いていたのですか?
お小遣いをもらって、残金で、買える品物は何か、考えたことはないですか?

>>少なくとも思考することを、大人や親が強要するものではないでしょう。

自分は、強要すべきとは、言っていませんよ。
疑問を感じたら感じたら考えるのは、心の自然の出来事だと言っているのです。
「14歳からの哲学」だって、強制で売っているわけでもないですし・・・

お礼日時:2009/10/05 19:00

NO.5です。


NO.12 の補足説明を読ませてもらいました。
ご質問は、要するにこの補足にある文の内容が分からないということなのですか?
なら前回の回答は撤回します。”分からない”ということで正解だと思いますよ。
私も分かりません。
著者のかたも分からないとおっしゃっておられます。
>宇宙に果てがないのは、自分に果てがないのと、じつは同じことだったとしたら、どうする?
だからこそ考え甲斐がある。あきらめず、勇気を持って(それぞれが)考えていきましょうということだろうと思います。
ご参考まで。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

著者は、分からないとは言っていませんよ。
読者に問いかけているんですよ。

>宇宙の果てがないのは、自分に果てがないのと同じだったら、どうする?

ってね。
著者は、自分の思考のプロセスでそういう認識を得ているんですよ。
それは、同著者の他の著書「私とは何か」の「意識と魂」の章で、書いています。
(まあ、「14歳からの哲学」の著書でも、他の哲学に詳しいと思われる回答者の意見からも、
 それは、感じ取れるんですけれどね・・・)

ということは、上の意味する所とは、「本当は、自分に果てはないんだよ。だけど、
「14歳からの哲学」での問題の投げかけでは、その結論にはすぐに達しないんだよ。でも
考え続けたら、そこにたどり着けるから、頑張って考えなよ!

って、解釈できるんですよね。
だから、僕は、その結論に至る以前の、「心とは、すべてなんだ。心が全てとしてあるんだ」
の理解をちゃんと得て、その次の段階として、思考を進めて、宇宙の果て・・自分に果て・・
の理解に至ろうとして、今回の質問を投げかけたんです。

説明が不足していたら、申し訳ありませんでした。

お礼日時:2009/10/05 19:33

 こんにちは。



 ○ わたしがわたしである。
 ☆ の問題だと考えます。言いかえると
 ○ わたしがわたしするとき むろんからだを伴なって からだと自分と仲間や世界のことを思いつつ 生きます。このことが こころである。
 ☆ と思います。

 わたしがへまをやらかしたとき あるいは少々秀でた考えを述べたとき 周りからは 冷やかされたり羨まれたりします。おまえのかあちゃん出べそ! とか あのゴキブリがたまにいいことを言ったとかの声が挙がります。
 わが母は出べそでもないし わたしはゴキブリでもありません。おそらくそのように事実と反していることを言うのは――つまりは 特に身体が明らかに事実と異なっています それなのに人びとが変な表現をするのは―― 〔おそらく〕からだやその神経組織やあるいは見た目などを超えたところにも人は思いや考えを及ぼすからではないでしょうか?
 冷やかしは きみ しっかりせよ!と励まして言ってくれているのでしょうし ゴキブリ呼ばわりは 明らかにやっかみから来るのでしょう。
 これらは こころの動態であるのでしょうね。あるいは生きていること自体なのでしょうね。

 ですから
 ▲ 「心とはどこにある」
 ☆ という訊き方も どこかおかしいでしょうし 敢えて言えば
 ▲ (池田晶子) 心とは、すべてなんだ
 ☆ とあらたまって言うのも――つまりは 世界にまで広がっており果ては宇宙と一体だというまでになると―― どこか変なのではないでしょうか?
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だって、君が悲しい気持ちでいる時、その悲しい気持ちはどこにあるだろう。頭にあるものでもなくて、ただ悲しいという気持ちが明らかにあるだけじゃないだろうか。いつもの友達の顔をみても悲しいし、どこかへ出かけても悲しい。その悲しいという気持ちが、すべてを悲しくさせているんだから、その意味では、心とは、すべてなんだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もしあなたが生徒であって たとえば仲間のけんかをうまく仲裁したとして それでも学級のみんなから――先生を含めて周りのすべてから――ゴキブリ呼ばわりされたら たしかに悲しい。
 これは そういうこころの状態が 学級なら学級の全体にただよったということだと見られます。それは ひとのおこないをやっかみだけでしか見ることの出来ない状態が それぞれ一人ひとりにおいて《わたしがわたしであ》り得ていないことを意味します。それも こころの状態のひとつであると思います。

 ただここで
 ▲ その悲しいという気持ちが、すべてを悲しくさせているんだから、その意味では、心とは、すべてなんだ。
 ☆ というように解説すると 二つのことでおかしいと感じます。
 1. こころの状態として《悲しい》という側面が――それはただ例に挙げているだけれども―― あたかも心の全体を占めていると言ったような感じを受ける。
 2. 《かなしい》であれ仮りに《うれしい》であれ その心が 《すべてなんだ》という言い方で言い切ってしまうと 何だかその状態の心が やはり宇宙の果てまでつづいていると言われてしまったような感じを受ける。
 ☆ ですから たぶん池田昌子も全体として《自分とは何か》という主題のもとにこの話をしているのだと思いますが 《こころ》はやはりあくまで《わたしがわたしである》という思想(生活態度)のもとに捉えるとよいのだと考えます。どうでしょう。
    • good
    • 0

NO.9です。


>この考え方は、デカルトに代表される「二元論」(精神と肉体は別)の考えなのでしょうか?
池田晶子さんは「(単独な)心(精神)なんてどこにもない。~心がすべて(世界≒意識)としてあるんだ。」と言っています。
そして「体のどこかに心があるのではない」、と言っています。
これが二元論かということですが、私は一元論者で、池田晶子さんと同じ考え方を持っています。
私は哲学の専門家ではないので、正直一元論と二元論の明確な線引きはどこにあるのかわかりません。
また二元論を主張する人たちがあなたの持つ疑問に対してどのような回答を持っているのかもわかりません。
専用のスレッドを立てれば、詳しい方が説明してくれるかもしれませんよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
回答番号:No.15 の方から、参考資料提示していただいていて、それを読み込んでいるところです。
それを、読んでいると、自分の知識の不足を痛感しています。
これを読み込んで、再度二元論に関する疑問が出てきたら、質問のスレッドを立てたいと思います。
(参考資料を読み込んで、考えるうちに疑問は解消されそうですが・・・)

お礼日時:2009/10/19 19:58

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!