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前回老子と荘子が学問に対してどのような
考えを持っているかについて質問しました。

前回の回答を見て、老子と荘子の考え方が
大体理解できたのですが、両者の考え方は
至って消極的なものだと感じたのですが、
実際そうなのでしょうか。

自分が思いついた事は自然の摂理に従って
いるから積極的に行動しようという淮南子
のような考え方は無かったのでしょうか。

A 回答 (5件)

先日はお話ができて感謝してをります。

『老子』につきましては回答済みですので、特には書きません。回答番号1の方の「政治思想」としての考察は重要な論点だと思ひます。『淮南子』は部分的にしか読んでをりません。(『荘子』もかなりとばして読みました。)『老子』『荘子』と同じやうな文面をところどころで見かけますが、儒教的な思想もいくらか含まれてゐて、総合的な書物なのではないでせうか。佛教にもさまざまな宗派がありますが、『老子』と『荘子』も別別の思想として分けて論じるべし、といふのが前回の質問で紹介しました「専門家」の見解です。

さて『淮南子』の「自分が思いついた事は自然の摂理に従っているから積極的に行動しよう」といふ「考え方」はどこに記載されてゐるのですか。それとは正反対の記述でしたら下記のものがあります。

「知恵があっても、それを用いて事を為そうとしなければ、無知の者と同じように道を有することができよう。能力があっても、それを用いて事を営もうとしなければ、無能の者と同じように徳(道の働き)を抱くことができよう。」
(『淮南子』巻第14「詮言」 池田知久訳注 講談社学術文庫 277ページ)

無知こそが重要であり、知恵がある(と思ひこんでゐる)人はそれを使はないことが「道」なのだと述べてゐます。この少し前の箇所では『老子』第46章の「足ることを知る」と同様の指摘があつて、満足すること、いはゆる愚民政策を説いてゐます。

『荘子』と関連があるのは、たとへば以下の文章です。

「聖人の学問は、本性を原初の状態に戻し、心を虚無に遊ばせようとするのであり、達人の学問は、本性を広遠の彼方につなぎ、寂寞の価値に目覚めようとするのである。ところが、世俗の学問は、これとは違う。徳を抜き去り本性をむしり取って、......仁義礼楽といったモラルを振りかざし、挙げ句の果ては、己の行いと知恵を天下の人々に見せびらかし、世間を相手に高らかに名声を馳せる。私には恥ずかしくてできないことだ。」
(『淮南子』巻第2「俶真」 池田知久訳注 講談社学術文庫 86ページ)

学問をするなら、役にたたないことをしなさい、といふ指摘に読めます。私のやうなアホは恥を知らないので、振りかざしたり、見せびらかしたり、このQ&Aサイトでしよつちゆうしてゐます。
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老荘の思想、孔孟の儒教に対する、道教、と言う、意味ですかね。

「老子」という書を伝えた後、牛に乗って立ち去った後、山に入って餓死した、ではなく、仙人となり260歳まで生きた。との伝説をもとに、道教、という。宗教が起こった。お天道(おてんと)様信仰として。日本人は道教民族と言われるほど日本に広まった。
その道教の無為自然思想を老荘思想、と呼び。その無為自然を、道(トウ、タオ)などといっているんですかね。
宗教は、思想、心、による思い方、であり。哲学、知恵=正しさを基準とする、考え方ではありません。
むしろ、科学の方が哲学的と言えるでしょう。老子の考え方は、哲学、であり、世界の在り方、世界を世界として在らせているもの、道(トウ)に関する、理論物理学、と言えるのようなものなのです。
道は人々が、道だと思っている、ようなものではない。と言うような、道教的?理解は、神だの生まれ変わりだのと言っている、仏教を、釈迦の思想、考え方である。と言うのと同様のことなのです。理解するには、まず、それが、釈迦の縁起の理法、とまた、近代のドイツ弁証法、同じ考え方である亊に気付くのが先、ではないでしょうか。自分が思いついた亊が、なぜ自然の摂理に適っていると言えるのでしょう。
釈迦は、「余計な亊をする者は、何もしない者に劣る」と言い。老子は「我に3宝あり。1に仁、2に倹(欲望を抑える術)3にあえて人の先ならず(目立ったり、出しゃばったりはしない)」
西洋的、積極性、が世界を誤らせてきたのでは。
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回答番号2、おしゃべり好きのplapotiです。

中国の思想について考へるのであれば、現代中国人への一般的評価を背景に見てゐればよいのではないでせうか。だからこそ、一方で礼儀をおしつけることに躍起になり、他方で知識を排除して余計なことを考へさせない、さうでもしなければ国が治まりません。

日本人としましては、先回の質問の回答番号12の見方が中国思想への正当な姿だと思ひます。
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【Q:老子は 無神論〔なる信仰〕か?】


  https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8803679.html
 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 福永光司が まとめとして 書いています。
 ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~
 (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは 

 (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し 

 (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり
 
 (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。

 (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。

 (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。

 (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。

 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

 G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如
   道:無限性:無為自然
   人:有限性:人為不自然〔を超えて〕

 (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。

 (5) そのとき問題は
 ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか
 ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。

 (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における

   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。

  G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如
   道:無限性:無為自然
   人:有限性:人為不自然〔を超えて〕

 (7) 言いかえると あと一つ問題なのは
 ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか
 ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。
 とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。


 以上を問います。

 (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。

 (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。

 (10) なお親鸞の場合には 

   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

 を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。

 ここまでを問います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よろしかったら ご参考にどうぞ。

 【Q:老子:37章 道は常に無為にして⇒《非知》か】 
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8794048.html

 なおこのような信仰論とは別の政治の議論では 特に取り上げることもない内容が少なくないと思います。

 荘子は 知りません。
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"両者の考え方は至って消極的なものだと感じたのですが、


実際そうなのでしょうか。"
  ↑
そう理解する人もおります。
経済学者のハイエクなどは、自由を標榜し、社会主義を
批判しましたが、彼は老子の影響を受けている、と
言われています。

中国の思想は、孔子もそうですが、政治思想が
多いのです。
政治思想的には、国家は人々の生活に干渉するな、
自由にやらせておけ、と老子を理解する
傾向があります。

そういう意味では消極的です。

でも、老荘の本質は、そういうものではないと
思います。

人間の知恵など小賢しいだけで、信用ならん、
というところにあるのでは、と考えています。
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