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アボリジニーの人たちは1967年ほどに市民権を国民投票で獲得したといわれていますが、なぜ国民投票が行われたのか、そして、白豪主義でアボリジニーが減っていたのに、なぜ国民投票で票数を獲得できたのですか?

知っている人がいたら、教えてください!!

A 回答 (1件)

1951年に開催されたアボリジニ福祉会議の席上で、当時連邦政府の管理下にあったノーザンテリトリーの担当大臣ハスラックは「アボリジニや混血のアボリジニがやがて白人オーストラリア人と同等の生活をすることが望ましいと発言し、アボリジニの白人社会への吸収を目指した同化政策が施行された。

その後、1960 年代中頃になると同化政策が統合政策へと転換する。統合政策は被支配者のもつ文化的特性を維持しつつ、全体として国民国家を構成しようとするものであった。しかし、祖先の文化を継承できなかった都市のアボリジニにとって、文化的特性の維持はリップ・サービスでしかなかったのである。

統合政策へ転換した 1960 年代になると、アボリジニの人権回復を求める運動が行われるようになり、制度的な変化も起こった。有名なのは 1965 年の「フリーダム・ライト」である。この運動を中心になって組織し、実行したのはシドニ
ー大学の学生であった。学生たちは民間のバスを貸しきり、ニューサウスウェールズ州内のアボリジニ人口の多い地方の町を訪問し、アボリジニに向けられている偏見や差別を告発していった。

1966 年にはサウス・オーストラリア州で差別禁止法が制定された。また、同じ年、オーストラリア州政府は、ノーザンテリトリーとの州境の砂漠地帯のアボリジニを対象にして「アボリジニ土地信託法」を制定した。この法律は、辺境のアボリジニが生活する地域の土地を確保・保全するのが目的であった。しかし、最大の変革は、アボリジニを国勢調査の対象外と規定していた憲法 51 条第 26項および 126 条の廃止の是非を問う国民投票であった。

1967 年、国民投票は行われ、条文は廃止された。その結果、アボリジニは正式なオーストラリア国民として認知されたのである。アボリジニが市民権を獲得した後の1971年の国勢調査からは、アボリジニであるか否かは自己申告制によることになった。

http://www.obirin.ac.jp/la/ico/con-sotsuron/sots …
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