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美しいということについて。
感覚的な個人差はあるにせよ、美しいということの本質は
どういうことなのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 結論

    今回はかなり横道にそれてしまいましたが、皆さんのご回答を頼りに、私なりの結
    論に達することができました。
    太古の人類と「美」との出会いは、大自然と女性の子供を慈しむ姿であったと思う。
    母の子に対する思いは、キリスト教の「愛」では少し物足りなく、仏教の「慈悲」
    の方が相応しいと思う。また、例えば太陽の存在は「慈悲」以外の何物でもないよう
    に感じます。
    「愛」「慈悲」のない人はいないでしょう。即ち、生命に備わっているものであり、
    それを「美しい」と感じる心も備わっている。ミニチュアなものを見て、「かわいい」
    と感じる心を誰もが備えているように。
    「美」とは「慈悲の心」である。現在は多様化し複雑になっているが、もとをただせば
    そこにあるということです。

    皆様、今回も誠にありがとうございました。

      補足日時:2015/09/10 21:04

A 回答 (26件中21~26件)

素晴らしい!と感じることでしょうね。


美しいを、好きという言葉におき代えても同じ疑問が出てくると思います。
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この回答へのお礼

なるほど。繋がっているように思えます。
心の世界の広大さに、少し途方に暮れました。

お礼日時:2015/09/05 00:15

ブラジュロンヌさんの回答が美の本質に迫っている様に思います。


独特の回りくどい表現が分かり難くさせてもいますが、真善美が一体であることの説明が為されているのではないでしょうか。

美の本質は「真と善」が含んでいると。
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この回答へのお礼

bragelloneさんの説は、いつも理解するのに大変です。
「真善美」がおそらく一体であると言っていいと思いますが、
今の私の力では、きちんと論ずることはできそうにありません。

№4のお礼にも書きましたが、「美しい」と感ずることが、自分
を豊かにするだけでなく、対象物を称えるという「慈悲」になっ
ていると思うのです。

相手を「美しい」と褒めれば、その人は幸せな気持ちになれます
よね?「あたりまえよ。」なんて思う人は心が崩れているのです
が‥‥
ま、それはともかく、「生命」にはそういう不可思議なシステム
が備わっていると感じるのです。

お礼日時:2015/09/05 00:13

かつて、アリストテレスは、人間を離れた


美というものが存在する、と主張しました。

しかし、近代美学の祖であるバウムガルテンは
人間あってこその美だ、としました。

美は人間があってこそ存在するのです。

ではどう存在するのか、これが美の本質です。

美は、情動神経系で発生することが解っています。

美しいモノに出会ったとき、人間の脳にはドーパミンや
エンドルフィンが発生し、感動します。

では、何の為に美が存在するのか。

人間の本質は生存することにあります。
生きて行くために最適な選択が出来る様に
するためのレーダーが美です。

つまり、人間の生存値を向上させる場合に
美が発生するのです。

人間は色々な情報に接します。
生存値を向上させる情報を、視覚で捉えたとき美が
発生し、味覚で捉えたとき美味となり、聴覚で捉える
と心地よい音楽になるわけです。

カントは、生命感情の高揚によって美が発生する、と
主張しましたが、言っていることは同じです。
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この回答へのお礼

「美」は人間が作り出すものであること、
「美しいもの」を見たときに、脳内物質が
発生する。
これは、正しいことだと思いますが、何の為
であるかと言えば、自分の心が豊かになるこ
とができるということと、対象物を称えるー
つまり返礼としての「慈悲」ということにな
るからだと思います。
「美しい」と思う心は、言葉にしても、しな
くても伝わるだろうと思います。

お礼日時:2015/09/04 23:55

【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】


https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8923688.html

1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。

 4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。



 5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。

 6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?

 7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。

 8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。




 9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。

 10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。

 11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。

 12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。

 13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。

 14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。




 

 15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。

 16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。

 17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。

 18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。

 19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。

 20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。
 (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。

 21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。

 22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。






 23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。

 23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。

 23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。

 23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。

 24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。


 25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。

 26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。

 27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?





 28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。

 29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。

 30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。




 31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。

 32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。

 33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。

 34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。






 36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。

 37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。

 38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「真善美」は一体ではないかと、かねてから思っていましたが、
基礎のできていない、哲学ど素人の私にはキチンと理解すること
は、少し時間がかかりそうです。

「真理」「神」これを私は「生命」と呼びたいのです。
「生命」の活動には「善」と「悪」があり、「善」の部分を人は
美しいと感ずるーー

今の私の頭の中を言葉にするとこうなります。

お礼日時:2015/09/04 23:33

残念ながら、美の本質はありません。


だれが見ても美しいものなんてないでしょう。

人生とは、人間とは、本当の生き方とは、古代からみんなが
考えてきても見いだせていません。それは答えがないからです。
美も同じです。人それぞれが、その時その場で勝手に美しいと
感じているだけです。感じているとは、幻想を作り出していると
いうことです。
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この回答へのお礼

そうでしょうか?

お礼日時:2015/09/03 21:54

美しいという漢字は羊が大きいと書きます。


中国に漢字が出来た頃は、大きな肉が手に入ることが美しいことだったのだと思います。
今では、心が豊かになることではないかと思います。女性の顔も男性の顔も流行があります。
でも心が豊かな人は今も昔も美しいのではないかと思います。
 私は頑張っている人はみんな美しいと思います。
 そんな意味で、敬語も使えない、かけ算の九九も出来ない、お馬鹿タレントを美しいと言うのは間違っていると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「花は一生懸命咲いている」と言った人がいます。
「一生懸命」ということなんでしょうか。

私も、今の若い女性は美しいとはあまり思えません。

お礼日時:2015/09/03 21:48

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