プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

次のような《神のことば》を人間の命題――判断内容――として表わすにはどうすればよいか? という問いです。

 ▲ (イザヤ書1:18~26;2:1~4)~~~~~~~~
 論じ合おうではないか、と主は言われる。 
 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
 雪のように白くなることができる。
 たとえ、紅のようであっても
 羊の毛のようになることができる。
 お前たちが進んで従うなら
 大地の実りを食べることができる。
 かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。

 どうして、遊女になってしまったのか 忠実であった町が。
 そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに
 今では人殺しばかりだ。
 お前の銀は金滓となり
 良いぶどう酒は水で薄められている。
 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり
 皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。
 孤児の権利は守られず
 やもめの訴えは取り上げられない。

 それゆえ、主なる万軍の神 イスラエルの力ある方は言われる。
 災いだ 
 わたしは逆らう者を必ず罰し 敵対する者に報復する。
 わたしは手を翻し
 灰汁をもってお前の滓を溶かし
 不純なものをことごとく取り去る。
 また、裁きを行う者を初めのときのように
 参議を最初のときのようにする。
 その後に、お前は正義の都 忠実な町と呼ばれるであろう。
 ・・・
 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 国々はこぞって大河のようにそこに向かい
 多くの民が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。

 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ たたき台です。

 (α) われわれは 一人ひとり 白紙に戻る。タブラ・ラサとなる。神という観念についてエポケーする。もっと言えば 能天気となる。

 (β) オシへをいだく・守る オシへを説く者にしたがう ここから自由になることではないか?
 ローマ教会の権威は ゼロであると宣言すること。
 神を持ち出して 同じ人間をさばくことから自由になること。
 人間の名で・自分自身の考えで 自分をも他人をもその思想について自由に批判し合うこと。

 (γ) 人間と人間との話し合いが すべてではないか。神は すでに・そして初めから 普遍神であるのだから もういっさいわれわれの人間どうしの話し合いには――待ったなしの場合などを別として――出さない。出す必要がない。

 ☆ けっきょく神のことばは 或る意味で――非思考の庭にあって・主観としては――受け継いでいるのだと思いますが 果たしてみなさんはどうでしょう。

質問者からの補足コメント

  • その勢いが 命取り。っちゃう?

     自分には神の権威があるんぢゃあっていう。

     お大事に。

     ご回答をありがとうございます。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/10/27 11:43
  • ここは締めます。
     つづきなどがありましたら 【Q:ローマ教会の欺瞞・・・】のほうへご投稿くださるようお願いします。

      補足日時:2015/10/30 20:31

A 回答 (7件)

この質問に答えて見ようかと思う方への案内的ヒントを、、、



大抵の人は神の事は理解しきれていないのに、安易に持論の様に神が神がと神を持ち出して、意見の正統性を主張すると言った風潮や、盲目的に“教え”に染まっている体質の愚かさに気付いて、自身をよく見つめてみれば本来の自分に気付いて、関わる社会への態度、対応が決まってくるはずで、そこに使い古された雑巾の様な“宗教”なんぞ不要だと一度は切って棄てる必要があるのではありませんかと言う問い、なんです。

ぶらじゅろんぬさん、これでいいですか。
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この回答へのお礼

おっしゃるとおりです。

 ★ 使い古された雑巾の様な“宗教”
 ☆ 言い得て妙です。

 《オシヘ》――つまり聖典など――は たしかに人びとがそこからインスピレーションさえをも得て 一般に思想として(みづからの思想を形成し得て)有益なものでもありますが なにしろ・なにはともあれ一般に雑巾のようなシュウキョウは この人間が考えるべきオシへを じつに きみたち 信じなさいと抜かしやがります。

 考えるべきところを 無条件に受け容れなさいと気の狂ったようにほざきなさいます。

 どうして かしこいわが日本の人びとが この精神錯乱的インチキに ころっと行ってしまうのでしょう?

 わいわいえいとさん ありがとうございます

お礼日時:2015/10/28 16:10

No.4です



本題からは、それますが、誤解があるといけないので、特にキリスト教の信徒の名誉のために、
追加です。(質問者さんのお答えに、ある意味沿ったものかもしれませんが)

生まれかわりが正しいとしても、キリスト教の教義が成立することも可能です。
永遠の命を「神とともにあり、それを実感できることが永続する状態」と定義すれば、魂の不死とは、別のことだからです。

(もちろん、質問者さんのように、永遠の今のことである、としてもかまいません。ただ、この解釈は、自分には理解可能とは思えません)

私の基本的な立場は、宗教教義や宗教の否定は、ともに反証不能であり、反社会的かどうかという観点をのぞいて、まともな議論の対象にはならず、価値観の違いとして認めあって当然との立場です。また、自分なりの考えを作りたい人は、そういう価値観として尊重します。

質問者さんの神観は、個人的にはとても共感できるものですが、「教義」「おしえ」は意味がないと切って捨てることも、また教義なのです。「教義」「おしえ」は反証不能な形而上学の一種ですが、その否定もまた反証不能な「おしえ」なのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 (あ) イエス・キリストの出現をとおして ユダヤの神は外にも開かれました。名実ともに普遍神と成りました。

 (い) もはやモーセの律法――つまりオシへです。そしてこれを守るというシュウキョウです――によって生きるという生き方も アブラハムの信仰に戻ってのように 変えられました。しかも その旧約の時代にもしっかりと《オシヘを考えこれを守る》のではなく そうではなく《ナゾの何ものかを無条件に心に受け容れる・つまり信じる》ということの大切さが 伝えられていました。すなわち:

  ▲ (ハバクク書2:4) ~~~~~~~
  見よ、高慢な者を。
  彼の心は正しくありえない。
  しかし、神に従う人は信仰によって生きる。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (う) シュウキョウの問題は オシへを《丸飲みにして信じよ。〔しかもヒエラルキアの秩序に従って権威と権限のある人間の言うところに従え〕》と説くことにあります。
  これは 人間の意志を踏みにじろうとする暴力行為であり犯罪です。検証できるのです。

 (え) 《永遠の現在》なる存在論は いま・ここなのですから当然 経験世界における経験存在としての《わたし》のことでありその理論(観想)です。

 (お) 《復活 あるいは 永遠の生命》については われわれこの生身の存在にとっては 分かりません。分かる人はいません。絶対の正解は分かりません。

 (か) むしろ分かるか分からないかが分からない《霊》の問題として じつは 生身のわれとしての《永遠の現在》に あたかもナゾのプラス α としてのごとく やどっている。そなわっている。と見るとあんがい分かりやすい。かも知れません。

 (き) なにぶん《非思考の庭 としての信仰》のことですから 問題は あくまでその人個人の主観内面のことだというにあります。《わが心なる固有の時》の問題なのです。つまり 神とわれとが相向かい合う庭であり時なのだと思われます。

 (く) 《魂の不死》は 人間の想像であり願いです。《永続する》というのも 実際には言葉だけの問題です。

 (け) 《神とともにあることの実感》は あり得ても あくまで主観内面の時の問題です。その主観の共同化は無理です。同感したとしてもそれが神の実感だとは検証し得ません。

お礼日時:2015/10/29 09:53

今日は酒が入っているのでざっくばらんに述べましょう。

その方が私の言を軽く扱う利点がある。
多くの人は神なぞ意識して生きるとか、ふと意識することなぞありません。
新興宗教者追随者にに対して警告を発する態度は彼にはありません。
旧約聖書はネアンデルタール人に教えを説くものです。有史4000年の現代人には決して理解できない。
生きている世界が次元が違うから、頭も心も理解できない。また、聖書は応病与薬だから旧約聖書は新精神世界に生きるものにとってはぐずあくた。これを引用するものはピントが外れている思考をしているのです。
自由を許す神はあなた方には理解できない。ついでに言えば高僧さえ泥中の蓮華は理解できない。
アダムとかイブだとか自由を犯すという発想がもうすでに斜めに考える苦痛を喜ぶ精神世界に喜んで漂っているのです。もちろん、神はそれさえも許すし、かなりのえげつない事例も神は許す。
理由は決して今のあなた状態ではわからないし、未来永劫のあなた状態を続ければわからない。
私でさえ、えげつない事例を霊視で見たら心臓バクバクするものです。過呼吸になります。

人はわからないもの。続けれはよい結果、悪い結果。結果は出ます。その結果によって、よい結果、悪い結果が出ます。人はわからないもの。
ピントが外れているが、人はわからないもの。
しかし、何時何時までもチャンスなぞありません。幾億年後でしょうか。知りません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

 批判します。
 ★ 多くの人は神なぞ意識して生きるとか、ふと意識することなぞありません。
 ☆ 神は 人間にとって《意識する》といった経験事象を超えています。
 意識しようがしまいが 神は――想定として――存在します。 

 意識したから神が存在するとか 意識しなかったから神は存在しないとか そういった人間の都合で神が存在したりしなかったりするものではありません。
 
 そういう言わば絶対的なへだたりをもった関係を 人は神と――やはり想定じょう――持ちます。
 言いかえると しかも神は――もしこの想定に従うならば――神のほうから 人間にチカラやヒラメキをあたえたりします。

 人間が 祈ろうが願おうがあるいは貶(けな)そうが罵ろうが 神は痛くも痒くもなく しかも言ってみれば冒涜した人間であっても 神はあたかもエコヒイキしてのように ひととして立たせたりします。ということがあり得ます。

 一般に人びとは おのれの思考や想像において勝手に自分の神を描いています。自由ですが 意味がありません。おままごとです。


 あとは何が言いたいのか 理解にくるしみます。
 くるしまない部分は ご自分がさぞ神のことをあたかも友だちであるかのごとく・あるいは神の心を見て来たかのごとく知っていると言おうとしているところです。
 
 ご自由ですが これは あくまで主観の内面にとどまります。検証しようがないからです。

 言いかえると 神という言葉を出さないで 経験的な合理性にもとづく思考において自己表現をされるのがよいでしょう。それしかありません。 
 また そういう問題を ここでは問うています。

お礼日時:2015/10/28 21:37

転生輪廻、簡単に「生まれかわり」は、現代人にとっても、真剣に扱う価値のあるものです。

「前世を記憶する子どもたち」イアン スティーヴンソン(書籍)、では、厳密な学術調査がなされてます。詳しい内容にはここではたちいりませんが、よくある批判には、完璧なるまでに反論・反証されています。「生まれかわり」は、ほぼ実証されたと言ってもよいでしょう。

ユダヤ・キリスト教に対してもつ「生まれかわり」の意義は甚大です。
ユダヤ・キリスト教は「永遠の生命」を恩恵(神の恩寵)として示してきました。しかし、「生まれかわり」がすべての人の前提とするならば、すでに永遠の生命は、すべての人に与えられていると言えます。ユダヤ・キリスト教の教義自体を骨抜きにする事態なのです。

(「生まれかわり」と因果応報は、もちろん安直に結び付けられるものではありません。この安直な結びつきと、「生まれかわり」現象とは、とりあえずは切り離して考えておくとよいと思われます)
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この回答へのお礼

輪廻転生は 特に因果応報の説とともに議論されるなら それは愚の骨頂であり 屁の河童です。
 ――おっと ぴかりゅっしゅさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。――だって 同じDNAを持った人間は過去にひとりもいないのです。から。でしょ?

 おしまいのほうで《因果応報》と結びつけてはいけないと但し書きが添えられていましたが 《生まれ変わり》という表現はあやまりでしょう。
 
 ★ 前世を記憶する
 ☆ というのは 自分の血筋における親や祖先の歴史やあるいはさらにけっきょく人間一般の歴史がそのあれこれのすべてについて 環境要因としてのように 一人ひとりあたらしく生まれて来る子に受け継がれている・・・と見られるような問題ではないかと考えます。《生まれ変わり》だというのは マチガイだと考えます。

 ★ ユダヤ・キリスト教は「永遠の生命」を恩恵(神の恩寵)として示してきました。しかし、「生まれかわり」がすべての人の前提とするならば、すでに永遠の生命は、すべての人に与えられていると言えます。ユダヤ・キリスト教の教義自体を骨抜きにする事態なのです。
 ☆ ひとつに――わたしはオシへの絶対視にはなじみませんが―― 《永遠の生命》については ただただ《生まれ変わって 何度も人生やほかの生物生を生きる》という意味ではないでしょう。中身が問題だという意味になるはずです。

 ひとつに いわゆる・霊のからだとしての《復活》とはどういう事態かについて――それは一般によくは分からないのだと思いますが――別の角度から 《永遠の現在》という視点ないし存在論も推し出されています。
 言いかえると 個々のわたしなる存在から広がって歴史の全体へと通史的に捉えるというよりは そうではなく逆に いま・ここなるわたしという時点(地点)にすべてが凝縮されていると見るような視点です。

 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~
 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というようにその当時のイザヤにあっては 《永遠の現在》に立ったおのれの姿が・その心が――未来時とともに――捉えられたのでしょう。

お礼日時:2015/10/28 10:43

まっすぐに生きる、ねじれたりはしない。


そのためにひたすら考えを構築する。造ったりはしないし、ごまかしたりはしない。
まっすぐに生きる、ねじれたりはしない。出来ない者はつぶれる。しないほうが良い。
そうするとひとつと、ひとつと判るものです。
神が与えた物のひとつは自由です。これは知者になると最良のものと判る。決して外せない。
矛盾するが他にも最良がある。
たとえば、ムヒカ大統領。かれは大天使クラスの知恵を一部持っている。惜しむらくは混同している。
これを外せば私は驚嘆した。混同しているがゆえに言ってはいけないことを言っても彼は許されたのである。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 《天使》などは どうでもよいのです。へブル書でしたか 天使は人間にも仕えるのです。核心を逸らしてはいけません。

 ★ 神が与えた物のひとつは自由です。
 ☆ たしかに人間は その生まれつきの自然本性において意志自由という主体性としての人間性を持ちます。エデンの園で神の声にもさからったという自由意志です。

 問題は そのあとです。すでにその自由選択なる意志は《真白き状態》に戻してふたたびあたえられています。

 いちいち神からのめぐみを数え上げる段階ではないのです。

 すでに神がみづからを揚棄したのなら それにしたがって人間も それまでの――けっきょくあたまの中の観念としての――神を 表現じょう止揚しなければなりません。あたらしい出発の地点に立たなければいけません。
 そういう問題でしょう。

 ★ まっすぐに生きる、ねじれたりはしない。
 ☆ って言ったって エワはそしてアダムもヘソを曲げたのです。しかも なお雪のように白い心の自然本性に立ち還らせられたのが われわれあたらしい暦のもとにある人間です。

 しかもすでに二千年が経っています。早く神を揚棄しなければならないときでしょう。
 ときはじゅうぶん満ちています。よ。

お礼日時:2015/10/28 05:59

「貴方は、病んでます


神に縋りなさい」。
大笑いしましたよ。しかし、言いすぎです。
彼は、斜めから真実に挑んでいるのです。
彼はたぶん失敗するでしょう。たぶんです。あくまでも、たぶんです。
イエス先生が仰っている。どのようになるかは誰にも判らない、と。

私は霊視によって失敗した人たちを見ています。かなりの多くの人たちを。
えげつなく苦しんでいる。世界が違う。これからも苦しむであろうとい言葉を聞いた。
なぜだかは私が未熟だから判らなかった。
私は彼に忠告した。やんわりと。なぜなら、どうなるかは誰にも判らないから。
彼が進むならば彼の責任であり、誰かの忠告を受け入れるのならばその人の責任である。

神は厳然とされている。
その者が許さない限り、いかなる思いも、考えも、いかなる行いもあり得ないのである。
しかし、ここに人の優しさが介入する。

私の言が優しさかどうかは知らないね。
なぜなら、彼は真剣みたいだから。どうもよく判らない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】
  https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8604161.html

 このように ユダヤ民族のためだけの神はみづからを一段と高い普遍的なところに揚げてそしてふるい民族神であることは棄てた。
 
 それにもとづきわれわれ人間も 人間の言葉による表現の上で この神をアウフヘーベンしておかなくてはならない。でしょう。

 それについて イザヤ書の一編からその揚棄の仕方を問い求めてみたい。こういう趣旨の問いです。どうぞ。

 ★ 神は厳然とされている。
 ☆ どうして分かるの? どうして言い切れるのですか? 神に会って話をしたのですか?

お礼日時:2015/10/27 23:16

貴方は、病んでます


神に縋りなさい
この回答への補足あり
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