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『悪意』って、なに?
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「嫌悪」「ムカツキ」ならイメージは、簡単。
でも、ムカツいたからって、陰湿な事(悪質なヤル気が、たぶん心にわくのかしら?)は、私には何故か、できへんねん。

誰か「悪意」のイメージ、知りまへんか? /社会性が劣化した現代日本。まさか自分が「悪意的行為をしている」とは、気づかぬ人もいるのかしら?

A 回答 (10件)

自分の意に従わないものにかける感情でしょうね。

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知って犯す罪も、知らずに犯す悪も、(自分も含めて)人を悲しませる。

人を悲しませたならそれは悪である。
悪意とはつまり、人の悲しむのを楽しんでやろう、という気持ちを言うのです。
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#2への補足:



初心者はみな無知ですね。だから、初心者は必ず間違いをします。

その間違いは、人に迷惑を掛けてしまいます。だから、初心者に何かやらせるときには、その被害が最小限になるように
経験者が考えて、指導してやらなければならない。この場合、初心者のした無知故の間違いは悪なのですが、それよりも、もっと悪なのは「初心者は間違いをするものだ」と本気で考えたことがない経験者の無知の方です。

だから、初心者に人の人生を決定的に変えてしまうような責任あることはやらせてはならない。その悪例の最たるものが、日本の裁判員制度やアメリカの陪審員制度です。この制度によって、呼び出される裁判員や陪審員は一生の間でも、2度もやる人は滅多にいないでしょう。ところが、初めてどころか、2度や3度でも、みな初心者で、まだ、正しい判断をできるコツなんてつかめていません。初心者にどんなに読み易く、正しい手引書を与えても、必ず失敗するのです。人間は誰でも、何度かの失敗をして、やっと、そのコツが掴めて来るのです。

私はアメリカに住んでいますが、アメリカでは家の一寸した修理や建て付けは自分でやってしまうが普通です。その例に習って、私が新築の家を買ったとき、20ほどある窓に自分でブラインドを付けました。初めてでしたので、最初の窓の取り付けでは、裏返しでやり直しました。2度目は取り付けた角度が微妙にズレていました。3度めは、まだズレていましたがやり直すほどではありませんでした。4度目からは完璧でした。こんな、誰にでもできるはずのブラインドの取り付けでも、コツをつかむまで、何度も失敗するのです。

ましてや、人の運命を決定的に変えてしまう判断を、裁判員などと言う初心者に行わせるのは、無知による悪の最たる行為です。私は友人にこんな冗談を言っています。

「私が裁判員になったら、はじめの3回までは、私の判断の間違いで死刑になったり重罪になったりしても、運が悪かったと諦めてくれ。その失敗の経験から私は学習する能力があるから、4度目からは正しい判断で世の中に役に立てるようになっているから大丈夫だ」

日本でははじめから重罪を任される素人の裁判員と違って、本職の裁判官の場合、初心者にいきなり重罪の判断をさせて間違った判断による被害を大きくしないように、はじめのうちは軽犯罪などについて経験のある裁判官の補佐をさせて、訓練していますね。軽犯罪なら、間違った判断をしても、被害が相対的に大きくならないからです。

悪意があろうがなかろうが、間違いであろうがなかろうが、初心者であろうが経験者であろうが、人に迷惑をかけるのは悪なのです。我々は知恵を磨いて、当然起こってしまう間違いからの被害を最小限にする工夫が必要なのです。

いじめをしている多くの人が、まさか自分が「悪意的行為をしている」とは気づかずに、悪意の気持ちもなくいじめているのでしょうが、後でそれがいじめだった知ったとき、自分の無知さ加減に愕然として、その悪に気がつくのじゃないかしら。

んで、裁判員も、初心者であるが故の無知故に判断の間違いをしてしまったと後で気づいたとき、愕然とするのではないかしら。
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「まさか自分が「悪意的行為をしている」とは、気づかぬ人もいるのかしら?」


→いじめをしている多くの人が気づいていないでしょうね。
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回答番号4のplapotiです。

いつもならすぐに反論があるのですが、今回は元気がありませんね。大丈夫ですか。アニキさんには、おたまさんが必要ですよ。
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№3です。



 ★(№1お礼欄) 意識が希薄化し、社会性も無意識化した最大理由は
「自己チュー化」であるのは、実はウラの常識です。
 ☆ 微妙ですが この命題に反論します。

 結論としては:

  《自己チュー化》が 徹底していないところから 《わたしがわたし
  である》という自己意識およびそれにもとづく関係性(社会性)の自
  覚も稀薄となる。

 のだと考えます。
  自己を中心としてものごとを考え行動するという思想(≒生活態度)
は 誰もが自分がかわいいものであるからには おおよそ一般的に当ては
まることであるはずですが それでも日本人は世間のことがつねに過剰な
ほどに気がかりですから じっさいには《自己の意見》を控え目にして生
活しています。
 《私心無く》とか《無私の精神》などという指針がよく聞こえて来ます。

 たぶん 世間の内でそのお二階さんたちが 立派な人たちであやまちを
侵さない人たちだと思われて来たのが このところ不祥事の続出で大幅に
くづれて来ました。
 それゆえ 自分で考えろとか自己責任だとかというあたらしい声も聞こ
えるようになったわけなのだと思います。

 議論を端折ります。 
 そのような風潮の中で《自己》に還ろうとした人びとは その向きだけ
は採ったものの けっきょく《還り得なかった》。それが 世に言う《自
己チュー》なる現象なのでしょう。
 ですから さらに徹底して《わたしに還る》ことをおこなえばよい。と
考えるものです。

 中途半端な自己チューであると 確かに自己の悪意も善意をもあまり自
覚しないで夢遊病者のごとく行動していると見えるかも分からないわけで
す。
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悪意といふのは、本人でなければわからないことです。

回答番号2の「悪をなさないためにも、智を磨く必要があるのです。」との御指摘はそのとほりと存じます。私はほとんど職場の経験にもとづいて投稿してゐるのすが、周囲の人間、状況の全体を把握しておかなければ、適切な判断ができません。

しばしば褒めれば伸びるなどと主張されますが、褒めれば、ただつけあがるだけの人もゐます。反対に叱ることが大切だとする意見もありますが、ほんの小さなことで落ちこむ人もゐます。人間といふのは難しいものです。相手に合せた対応が求められます。このサイトでは、人間の複雑さを考慮することなしに、画一的に、この文章は誹謗中傷だとか、悪意に満ちてゐるとか、そんな評価を与へます。この均一化こそが問題を生んでゐるやうに見えます。

以前一角獣さんが批判の嵐にあつてゐましたが、批判の内容そのものは正当に思へますが、一角獣さん自身は対話を拒否しないで受け止める人です。あまり強く批判すると、つぶれてしまひます。かういふ人にはある程度その立場を認めたうへで意見を述べる必要があります。最近は同調者も増えてきたので、安心してゐます。

逆に、右から左、糠に釘、そんな人もゐます。自分で逃げ道をしつかりと用意してゐます。かういふ人には何を言つても大丈夫です。といふより何を言つても効き目がありません。職場では、ある程度逃げ道を封鎖することができるので、さうしたうへで対応するやうにしてゐます。特定の方の心配をなさつてゐるやうですが、別サイトでいつものやうにシモネタの投稿をつづけていらつしやますから、お気になさる必要はないと思ひます。
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悪意とは 煮詰めたところでは 自分の心にさからうことです。



 おのれの心に逆らうとはどういうことかと言えば ヤマシサ反
応が起きるので 分かります。本人にはじゅうぶん分かっている
という意味です。
 (言いかえると このような性質の悪意については 他人がそ
れを指摘して〔も 表現の自由においてよいとしても それを〕
裁くことは無理です)。



 ものごとを知らないで――つまり無知でですが しかもその意
味で《善意において》――あやまちを侵した場合は そのことは
決して《自由》ではありませんが 比較的容易にゆるされます。

 けれども 自分の心に逆らって・ヤマシサ反応をないがしろに
して――その意味で《無知 ないし 善意をよそおって》――思
惟をつらね行動にもおよんだという場合は 相手とのカカハリに
おいて自由なことでないだけではなく 自分が人間であることを
放棄するおこないです。
 (豚に成るばあいですが しかも他人は これを指摘しつつも
裁くことにはなじみません)。



 但し書きとしては いわゆる善意で(つまりこの場合は 相手
のために良かれと思ってという善意で) ウソをつきイツハリを
もおこなう場合です。

 この場合には 自分や相手を含めたその場の姿としてよい結果
を得たと言える場合があります。善意が実ったという場合です。

 そういうケースについては 全体観としての《よさ》とウソを
ついたことの《悪意》とが共存します。つまり 悪意であること
に変わりはありません。

 ★ 自分が「悪意的行為をしている」とは、気づかぬ人もいる
 ☆ とは思えません。なぜなら ポーカーフェイスは 自分が
おのれの心に逆らっているととっくに承知しているからです。
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無知って悪なんですよ。

だから、自分に悪意がなくても無知故の行為は悪なんです。本人は悪意がなかったんだからといって、人に迷惑を掛けてしまったのだったら、許されるわけには行きません。悪を為すにも智を磨く必要がありますが、悪をなさないためにも、智を磨く必要があるのです。
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意図して他人に害を加えようとすることです。


例えば、他人の足を踏もうと思って踏むこと。
嫌悪やムカツキは自分の感情ですが、悪意は意思ですね。
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この回答へのお礼

thx.

意識が希薄化し、社会性も無意識化した最大理由は「自己チュー化」であるのは、実はウラの常識です。ゆえに、無意識的に社会行動をとる現在、意識が希薄化していない人物が傷つくと「相手に悪意あり」と判断しがちだが、その実、加害者に「悪意などないケースが、最近はほとんど」です。無意識な歯車人間群にとって、それはもはや、悪意ですらない。と言い切れるのではないでしょうか。/注意:これは吐露です。

お礼日時:2015/11/25 00:50

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