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いま大河ドラマ見ていますが、
秀吉は家康対策に相当苦心し、対応を誤ったのではないかと思うのですが、どうなんでしょうか?
秀吉の全盛期なのに、家康に人質を出すほどまでのことをしたのが理解できません。
豊かな関東への配置転換は正しかったのか?巨大な北条氏は滅ぼされたのに、巨大な徳川はなぜ放置されたのか?朝鮮出兵にほとんど参加しなかったみたいですが、それもよくわかりません。
そもそも秀吉の天下が一度実現したという見方が誤りで、秀吉と家康の二大巨頭時代であったのか?
仮の話ですが、今思うベストの封じ込め策はあるのか?教えていただきたいです
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

まず、当時の関東はそれ程豊かではありませんでした。


米は多少取れたのでその辺はいいかもしれませんが
ド田舎です。
関東での都市といえば鎌倉くらいです。
そんなド田舎に家康は転封されました。
さて、本題です。
まず、秀吉と家康の二大巨頭というのは間違いです。
豊臣政権は秀吉を中心として
五大老(徳川家康筆頭、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家、
毛利輝元)と五奉行(浅野長政筆頭、石田三成、前田玄以、
増田長盛、長束正家)が主なメンバーでした。
朝鮮出兵では、江戸の都市開発をしなければならな
かったので、行きませんでした。逆に考えると
出兵しない程、関東は遅れていたという事です。
封じ込め策は、関東の周りに大大名で包囲してます。
上杉(会津)、佐竹(水戸)、浅野(甲府)、前田(金沢)です。
なので、秀吉存命中には何も動けないし、
死後もなかなか動けなかった訳です。
ここから天下を手中に収めた家康は凄いですね。
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当時の関東は、豊かというほどではありません。

国替えにかかる費用や、領民たちとの絆がリセットされるなど、デメリットも多いです。

秀吉の地位も意外にもろいから、徳川との連合政権に近い形にする必要があったようです。
家康の律儀という評判から、他の人選はないでしょう。
朝鮮出兵時、留守を守る人選として、家康しかいません。

対家康としては、関東ではなく、九州へ追いやり、そのまま朝鮮出兵の一番手に指名とか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。もし家康が朝鮮で死んでたら、豊臣家は永続していましたか?

お礼日時:2016/03/19 00:54

秀吉に優秀で正統な後継者がいなかったことが最大の問題点です。


豊臣秀次を廃嫡し、幼い秀頼を後継者にしたことで、秀頼を利用して豊臣政権のなかで地位を高めていった「淀」や「石田三成」があまりにも能力が低すぎです。
関ヶ原へ行ったことは有りますか?あの古戦場で、石田三成本陣に立ってみてください。絶対負けるはずのない陣形です。そんな陣形でも勝てない石田三成です。
文官としては有能だったかも知れませんが、武官達にことごとく嫌われ豊臣家を窮地に追い込んでしまいました。
淀も同様です。
秀頼が関ヶ原に出陣していたら、福島・加藤・黒田等の豊臣恩顧の大名は西軍につくか、中立するしかなかったはずです。秀頼出陣を押しとどめたことの罪は大きいです。

封じ込め策1
豊臣秀次を廃嫡せず関白→太閤へと出世させ、頃合いを見て豊臣秀頼を関白の座につける。三代が関白の座についていれば豊臣家の威光はもっと強くなっていた。
石田三成を行政の長の役割に限定する。政治に嫌われ役は必要なのであえて石田三成に嫌われ役をやらせる。有能な文官なので行政の長としていかんなく才能を発揮したと思われる。
関ヶ原合戦には秀頼が出陣する。
徳川軍は負けは無いかもしれないが、勝つこともなかったので大老としての地位が危うくなった可能性は高い。

封じ込め策2
関ヶ原の合戦が歴史どおりに行われていたとして、大阪の陣が起きたとしても、和睦をせずに長期籠城戦に持ち込む。
大坂夏の陣が1615年、徳川家康没が1616年。
たった1年です。
徳川秀忠は家康ほど大名に畏怖されていませんでしたし、朝廷は征夷大将軍の秀忠より関白秀頼のほうと親密な関係だったそうです。
冬の陣の籠城策は成功しています。大阪城は堅固な城なのでそう易々とは破れません。(真田丸もありますしね)
家康が没したら、徳川軍も一気に瓦解した可能性はあります。

私見ですが、淀君は豊臣を崩壊させたかったのではないかと思っています。
2人の父(浅井長政、柴田勝家)を殺した張本人の側室になって内側から豊臣家を崩壊させる事が最初からの目的だったのでは?
と思う次第です。
織田の血筋は秀忠に嫁いだ「江」そして家光によって引きつがれているわけですから...
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この回答へのお礼

ありがとうございます。大河ドラマで淀君が信長の親戚であることを知り、私も似たような考えを持ちました。秀吉も危険な人物を妻にするもんですね(;^_^A

お礼日時:2016/03/18 13:09

家康家臣団の団結が強かったのが大きい



唯一が石川一正でしょうか?
秀吉って他家の家臣を一本釣りで自らの臣下に加えることを良くしていますね
その事で自らの戦力を高めると同時に、大名家の弱体化を図る

それが出来ずに家康が丸ごと関東地方を臣下で固めてしまったことが痛い

秀吉も関東移封をすんなりと受け入れるとは思っていなかったし、受け入れた場合も当時の江戸付近の状況からあそこまでの領国経営をするとは想像していなかったのではないか?
辺鄙で不便な江戸に行って貰って、国力の繁栄どころか損耗を想定してたのではないかな

後北条と徳川との違いは、最後のところで秀吉に臣従したか否か
北条に対しても色々と手を尽くして勧誘したが、結局臣従を拒否したので制服した

秀吉としては自らの年齢なども考えると国内制服に時間を掛けるのは本意ではなかった
臣従するモノは基本的に受け入れた<-当然一定の条件を設けてふるい落とした上でだが

対家康に対しても、小牧長久手までは殲滅は無理でもかなりの弱体化は狙っていたでしょうね
でも、その際に逆に自らがダメージを負ってしまったので
政権そのモノを掛けた一大合戦を仕掛ける余裕は秀吉には無かった
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この回答へのお礼

ありがとうございます。家康と再び再戦していたら、豊臣政権が崩壊してしまう可能性があったのですか

お礼日時:2016/03/18 10:53

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