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こんにちは。恥ずかしながら、今、少し日本史に興味を持ち、昔の教科書・図説を見ながら、楽しんでいます。

特に室町時代や戦国時代が好きで、特に三英傑はすごいと思いながら、読んでいます。

でも、思ったのですが、戦国時代にあれだけたくさんの大名がいながら、なぜ、三英傑は天下を収めることができたのでしょうか。

他の大名も三英傑と同じように武力・知力・胆力があり、三英傑の部下になることに、ためないもあったはずなのに、やはり、三英傑は一層、次元の高い秀でた才能があったのでしょうか。

うまく説明できませんが、なんとなく、ふとそんな感じがしてきました。

三英傑と他の大名は何が違ったのか。みなさんは、どう分析していますか。

教えていただければ、うれしいです。よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

当時の戦国大名は誰も(多少の例外はある)京都に上り、天下制覇を夢見ていました。


そのためには、古い制度、因習を打ち破ることが必要だった・・・ここはわかりますね。
即、織田、豊臣、徳川の三氏はそういう努力をしていった、と言うことです。
ただし、それが一番徹底していたのが、織田信長でした、織田、豊臣、徳川のこの順番が重要な因子ではありました。
この順番だと統一はさらに遅れたでしょう。
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当時の日本の問題点を完全に把握していた、という点がほかの武将との違いだと思います。



国内政治
ざっくりと日本の国内政治を振り返ると、平安時代までは、日本を統一した天皇家が朝廷を維持できた時代、鎌倉幕府は朝廷が武士階級を抑えきれなくなって幕府を許可してしまった時代、でも西国とか後醍醐天皇などをみると朝廷もまだまだ権力に未練があったのでしょう。
 続く室町時代は公家なのか武家なのか分からない足利氏がオブザーバーとして朝廷と武家をうまくつなぎ権力のバランスを取ろうとした時代、足利義満は明から冊封を受けますが、貿易という実利だけでなく「日本から離れた権威」も利用したかったのではないか、と推測します。

で、結局武士も公家も抑えきれず応仁の乱から戦国時代に入っていきます。

国内経済
室町時代になると、国内経済が一気に加速します。そもそも戦国時代にあれだけの城を作ったり壊したりできたのも、室町時代に商売人が生まれて、物流も整っていったからです。
 これに明や西洋からの貿易も生まれ、国内経済は活況を呈するようになり、商人の財力と権力も強くなっていったわけです。

国際関係
鉄砲は戦国時代初期に入ってきます。いや、鉄砲が入ってきた後が戦国時代になったと言ってもいいぐらいでしょう。戦国時代は実は国際貿易が盛んになりキリスト教なども入ってきた時代であるといえます。

さて、戦国時代の武将たちは「京に上り、朝廷から勅許をもらって、天下布武をなす」と目標を定めていきます。布武とは武力で押さえつけることではなく、「七徳の武」実行するということでした。これをよく理解し実行したのが三英傑である、と私は考えています。しかし、それぞれ特色があります。

織田信長
外国貿易を盛んにし、貿易商に保護を与えながらコントロールし、天皇を廃止て自分が皇帝になることで、明などの国際貿易または国際紛争もコントロールしようとしたのではないか、と思われる。少なくとも信長は貿易とそれに伴う問題点(商人の権力の台頭)はよく理解していたと思う。

豊臣秀吉
信長の理想をほどよく妥協しながら実現しようとした人物。妥協したのは天皇を廃さず関白として朝廷を実質的に仕切り、武家もコントロールした、晩年、千利休の裏切りというか商人がコントロールできなくなってきたことを知りつつ、大陸派兵を優先させなのはなぜだろう。

徳川家康
信長の志半ばでの死、秀吉が継嗣に相続できなかったこと、などを踏まえ、天皇家の待遇・徳川家の継嗣システムなどを整え死後は自分が国の総監督になるように東照宮などを作らせ、キリスト教と宣教師貿易の危険性そして海外貿易を行う商人をコントロールする難しさなどから鎖国を実行し、各地の武将たちを徹底的に農本主義で土地に縛り付けた結果、江戸時代という長い平和を維持できた、といえる。

信長は元々京都の近くで室町幕府と応仁の乱の本質を見抜いていたから、天下をとることができ、秀吉は信長の政策を実態に合わせながら実現したから関白になれ、徳川は二人の失敗から多くを学んで完璧な策をとることができた、のだと思います。

まさに、「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」だったのでしょう。
たぶんこの3人のうち豪傑は信長、英傑は秀吉であって、徳川は秀傑であったのだと思います(秀傑という言葉はないですけどね)
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織田信長ですが、まず志が違います。


天下を狙っていた大名というのは、少なかったと
思われます。
多くの大名は自国の守り、拡張程度しか頭に
無く、天下などというだいそれた構想は持って
いなかったのでしょう。

地の利もあります。
当時の政治の中心地、京都に近かった、という
のは大きなメリットでした。

発想法が違います。
戦争に勝つために最も確実な方法は、相手の
軍事力よりも大きな軍事力を持つことです。

桶狭間だけでした。
信長が相手よりも少ない軍勢で戦ったのは。
他の戦争は常に相手の数倍の勢力を整えて
からやりました。
そのためには経済力です。
信長ほど、経済に注力した大名はいません
でした。

秀吉は信長に仕えることが出来た、という
幸運が大きかったと思っています。

家康は辛抱していたら、天下が転がり込んで
来た。

つまり、秀吉、家康は運の要素が大きかったと
考えます。
その運を上手く捕まえることが出来たのは
才覚ですが。
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まず「天下」についてきちんと把握する必要があります。


戦国時代までの天下とは、日本全国のことではなく、畿内とその周辺くらいの範囲でした。
それで満足していたんですね。
ですので、信長以前にも「天下」を治めていた大名はいました。

信長が違ったのは、既存の「天下」の枠からはみ出して、広域を支配するようになったことです。
新たな意識をもったことの違いが大きいですね。
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意識が違っていたのでしょうね




美濃の稲葉山城を落とした織田信長は禅僧「沢彦(たくげん)」と相談し、周の始祖である文王が岐山で挙兵し、やがて天下を平定した故事にならい岐阜と改名しました。  

そして「天下布武」のビジョンを打ち出し、「武力をもって天下を平定する」と宣言しました。つまり戦国の世を終わらせるというアピールです。天下平定を目指すのは、この信長であり、上杉謙信や武田信玄と天秤にかけようとしていた足利義昭への牽制を行いました。  

信長は楽市楽座による市場経済への移行、足利幕府の権威の否定や強大な勢力をもつ寺の排除など新しい秩序構築を行っていきます。旧来の秩序を大切と思う部下もいましたが、天下布武で戦国の世を終わらせるには必要不可欠と、信長の天下平定に向かって皆がベクトルをあわせます。  

ビジョンがなければ皆の力が色々な方向に分散してしまいます。信長は「天下布武」というビジョンで皆を一つにたばねました。そして「天下布武」は努力目標ではなく、信長のコミットメントでした。ですから部下も信長についていきました。


制服じゃねぇ征服だ。
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信長の最大領域は日本の1/4位でしょうか、半分も獲っていないので質問の主旨とは違うと思います。



秀吉の場合、人間的に彼と互角と言えそうな大名もいましたが、軍事力・経済力の面で秀吉とダイブ開きがあります。家康の名が挙がりそうですが、局地戦では勝ったものの、政治力や外交カードの多さ、ソレを切る早さ≒決断力に負けたという気がします。また滅ぼさず服従させる方針のため、滅びるより降伏を選んだ大名が多かったということでしょう。四捨五入しまくりですが、柴田勝家と後北条氏くらいしか滅ぼした大名がパッと思いつきません。

家康の場合、寧ろ他に敵がいない状況でしょう。伊達政宗とか西軍についたら…とか思わなくもないですが、彼を味方につけた時点で関ヶ原では人物・軍事・経済で勝てそうな相手がいない。

というか三英傑自体が戦国の終わり。彼ら以外に名が挙がりそうな大名が死去、もしくは人生の後半だったことを考えると、なるべくしてなった結果の様にも思えます。
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とても興味深いテーマです。

まず多くの大名は日本制服を全く考えていなかったと言うことだと思います。現実に鉄砲がなかった時代に戦争をすると言う事はとてもリスクが高いことだったろうと思います。ですから専守防衛で自国の領分を守ることが精一杯の事だっただろうと思います。
 最初に日本制服を考えたのは信長です。それも奇跡的に桶狭間の合戦で勝ったからです。それで今川から京都までの軍事バランスが狂って、ちょうどその時代に大量に鉄砲が使われ始めたから、金があればリスクを負わないで戦争できるという時代になったのだと思います。
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