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例えばここにウサギがいて生きていますが もし人間に撃たれて死んだら その死体はウサギでしょうか 一瞬前まではウサギでも 死んでしまってはウサギの死体としか呼べない ウサギと言うのは生きているものだと思います そしてウサギの体を血液や体液が循環したり移動したり 環境もぴょんぴょん跳ねて一瞬一瞬違います時間を止めない限り ある一定のウサギの状態はありません しかし時間は止まりません そこでウサギが存在するというのなら、存在とはどう定義できるでしょうか?

存在の定義を教えて下さい。存在者でも存在物でも構いません。どう定義しますか?

A 回答 (31件中1~10件)

存在論とは、その対象が存続している一貫性を問題とするものです。



1.一貫性の問題
まず一貫しているというのは大変なことです。実際、ウサギ→死んでしまう、という例をあげていらっしゃる。死を挟んで、連続性は一旦、途切れてしまいます。ただ、これは死のようなものを持ち出さなくても、言えることなのです。
・子供の頃の夢を持っていた自分→今の自分
・感動したときの自分→落ち込んでいる時の自分
・仕事をしている時の自分→プライベートの自分
・Aさんと話している時の自分→Bさんと話している時の自分
などなど。

全てがバラバラだったら、分裂症の患者さんでしょう。しかし逆に全てが一貫して、一枚岩だという人がいたら、かなり特殊です(と考えるのが通例です)。多かれ少なかれ、現代人は非連続性を経験しているはずです。ですから、過去の記憶が無味乾燥な情報ではなく、思い出としてまざまざと実感できたときは、胸が熱くなったりします。

芸術作品や、美味しいものなどがもたらす感激の多くは、バラバラになっている自分の内面を結びつける働きをしているからではないか、と分析する人もいるわけです(仔細は割愛)。

2.存在と時間
さて、こういう非連続性はどのように整理できるでしょうか。もう13世紀には、存在とは、瞬間瞬間ごとに変わっていき、本当はバラバラなものではないか、という考え方でていました。そしてこのバラバラな様態は、時間として整理できるのではないか、と考えられました。一秒前の自分と、今の自分、一秒後の自分は同じなのか、と問うわけです。

同時に、人は、バラバラな存在(=時間)を結合し、一つに統合しうる可能性を持った超越者を想定してきました。万能の神がまず一つです。あるいは文化の継承や、歴史です。そして自我という考え方です。

神を信じていれば、死後、自分は神の世界に行くのであって、その存在は恒久的だと思うでしょう。あるいは伝統芸能を極めた者は、自分の死後にも、自分の仕事を高めていく人がいることを感じるでしょう。また歴史を知っているものは、自分がどこから来たか(過去)を考えることで、どこへ行くのか(未来)を予想し、一貫性を見出すでしょう。自我が確固としているなら、嫌なことがあっても、揺らぎません。

こんな風に存在論とは、自分の一貫性を生み出す「何か」を考え、またその一貫性が保たれている様態や、その限界(非連続になる場合)を考えるものです。しかし答えは様々、十人十色です。では、骰子、あんたはどうなのかって? 私の場合は、うーん。伝統芸能の考え方に近いでしょうか。究めているわけではないですけれども。
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この回答へのお礼

Thank you

存在がバラバラなのは哲学の基本です。

存在というものはその時点だけです、時間的に一貫性やアイデンティティがあるものを「存続」しているといいます。

本当は存続する方が特殊なのです。ただ長い何十億年の今の宇宙の歴史で、存続する方が新たに存在するより

存在しやすかった。循環したり、調和したり、安定したり、波のように繰り返したりする方が存在しやすい

それで今見るような比較的安定した宇宙が目には見られるのでしょう。

新たに存在するものもあります。卵から誕生したり、設計されて生産されたり偶然の様に出来たりするものもあります。

アンドロイドの存在はその大きなものになるでしょう。今までなかった物が組み上げられるのです。

DNAに継ぐ者になるかもしれないと思っています。

ウサギは生き物の名前です。生き物だからウサギというのです。今は死んだ兎もウサギと言うでしょうけど

元々は生き物の名前だったのです。死んだ人間を人数に数えるのでしょうか?

日本では一柱二柱と数えるのでしょうか?

今は分裂症とは言わなくなりました統合失調症と言います。「分裂病」と言ったら差別用語になるかもしれません。

存在はもっと客観的であってほしい。でないとエゴイスティックな考えになる 私はそう思っています。

自分が幸せでなければ人を幸せにする事は出来ない。本当でしょうか?

お礼日時:2016/10/08 18:49

回答ありがとうございます。



認識が大問題とは、何が大問題なのでしょうか?
『認識とは何か?』ということが問題だということでしょうか?

認識の視点で考えることが問題だと言われているのでしょうか?

国の認識度合いの話から、確からしさになることが問題だと言われているということでしょうか。

haruさんの言われている『確からしさ』と認識の違いが私にはわかりません。

確からしさがあやふやであれば、存在もあやふやですよね。
つまり、確からしさが80%であれば、あなたにとっての存在感は、80%です。
...何が問題?ですかね?

あなたと他の方の認識が違えば、存在感も違いますよね。

哲学が井の中の蛙とは進展がないということですか?

具体的に何が問題で、どうして認識があやふやだといけないのか、具体的な説明をいただけませんか?

haruさんでも、haruさん以外でも、何が問題なのか、どこが納得できないのか、具体的にご指摘いただけるとうれしいです。
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この回答へのお礼

ありがとう

認識というのは 人間が認識するということです。真実、真理はまた違います。

存在とは何かを問うと 哲学者たちは何が何だか訳の分からないもの などと言い出します。

何一つ確かなものはないというのです。そりゃ認識に明らかに限界があるのですから

何一つ確かなものはありません。 だから確からしさで考えるしかなのです

人間にはわからないのです。データと理論と歴史的経験と勘などで問題を解決していかなければなりません

第三次世界大戦を起こす訳には行かないのです。

哲学も宗教も井の中の蛙です。人間の目的が何であり、存在が何であり、未来が何であり、永遠をどう考えるか

そういう事も確認していかなければなりません。私は孤独です。理解者が増えて欲しいです。

お礼日時:2016/10/23 22:15

回答ありがとうございます。



唯一無二の存在についてですが、宇宙にある全てのものは、同じものはないと僕も思います。
私が唯一無二の存在を定義することはできないと言ったのは、『万人が共通で認識できる唯一無二の存在』が定義できないということです。
例えばここに石ころがあったとします。
私が認識した石ころと、haruさんが認識した石ころは、同じではないですよね。
その石ころをキリンが認識したものとも違う。
つまりは、同じものでも、認識する側によって異なるということを伝えたかったんですよ。
haruさんの定義された『個性ある性質をもったエネルギー・物質』がどんなものなのか具体的に理解していませんので、今の私のharuさんの存在の定義されるエネルギーについても、私とharuさんで認識が異なっています。
これはいくら議論を続けても完全一致はあり得ないと僕は考えています。

一致しないと存在しないかというと、存在はする。
人それぞれの認識で。

よって存在とは、認識であると僕は考えています。
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この回答へのお礼

ありがとう

私はそうは考えません。認識という問題は実は大問題です。

科学では観測者の存在が素粒子に影響するというような事を言ってますが

科学とは認識して測ることによって仮説を証明するものです。

認識できないものは存在を認められないという立場です

哲学の唯心論もそうです。

私は外国に行ったことがないです ただTVや人の話 学校でならたので

アメリカがあり中国がありイギリスがありインドがあり いや日本という国があることも直接には

認識していません。ただ情報が入ってくるので そういう国があるのだろうと思っています

それはもう確からしさです。チェコスロバキアという国があると思っていたらなくなりました

それもなくなったであろうと聞いているだけです。

それでもスロバキアの独立は認めます 事情があってスロバキアになったと言う事でしょう

この様に 行ったことも見たこともない国でも 確からしいと思ったら80%あると思う

99%在ると思うという風に確からしさで考えないと 何時まで経っても哲学は井の中の蛙になってしまいます。

お礼日時:2016/10/17 09:39

コメントありがとうございます。


キリンとオカピの話は、良くわかりました。いい例ですね。
単に『存在とは』という観点からだと、ただ在るかないかの認識であると云うことで、名前が間違っていても、在ることには代わりがないと僕は思います。
次に唯一無二のウサギについての存在を定義すると、全てのものは、常に変化をしていることを前提にする必要がありますよね。
そう考えると、生き物の生死で存在が異なるというのは、私にはしっくり来ないですね。
唯一無二の存在は、個々人の主観的な認識でしか定義できず、どれだけ前提条件を区切っても万人が満場一致で唯一無二の存在を定義することはできないと僕は思います。
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この回答へのお礼

ありがとう

世界には(宇宙には)同じものはないと思います。唯一無二と言うのはそういう事でしょうか?

ウサギという名前は生き物だからあるのです。物質にはウサギという名前はありません。

物質と生命と精神は別物だと考えています。生命は循環系です 物質も電子雲の循環系だと思いますが

生命は呼吸と体液循環という特徴を持っています。それを生命と言うのでしょう。

精神は性質で出来ています。精神も働いています。働きが止まったら精神でなくなります。

私の存在の定義は 勝手に定義したのですが 存在とは 個性ある性質を持ったエネルギー・物質 と言うものです。

他に定義があれば教えてもらいたいのです。

全てのものは変化し続けています。循環する方が存在として安定するので循環するものが多いのです。

お礼日時:2016/10/14 21:38

次のような具体的な存在論を持ちます。




1. さすが 日本人は物分かりがよいようなのですが その道理だけで話し合いを
しているといったことがあるのではないでしょうか?

2. つまり論理が無いと言いますか 議論の筋道が示されない。

3. 道理なら 人間としての筋道なのだから ただちに分かり合えるはずだという
向きには その場合の道理とは いわゆるジョウシキなのです。と言わねばなりませ
ん。

4. すなわち その場合のジョウシキというのは よいもわるいも一般のナラハシ
です。それは 必ずしも倫理的な推論や学問一般による裏づけがあるとは限らないと
来ています。そういう場合が多い。

5. となると このような場合の日本人の対話というのは けっきょく自分自身の
考えは打っちゃっておいて相手のそれに合わせたりする。それが むしろ対話のおも
な内容となる。

6. こんなことをするなら 自己に対してはウソをついているのだし 相手に対し
てはあたかも物分かりだけは一人前だが思考回路はまだ子どもの段階にとどまってい
るからというので よちよち いい子だね そのとおりだよと言って けっきょくは
相手をバカにしている。のではないだろうか? 

7. こういうやり取りしかおこなっていないのではないか? 日本人の対話一般の
多くは。

8. そうこうする内に この日本人式対話の《約束》に合わせなかったり・あるい
はつまり 相手の発言内容についてふつうに論理と道理とで批評し批判をすると そ
の態度は 《ひとの心を大切にしていない》とか《心を傷つける振る舞いだ》とか
ぶつぶつ ぐづぐづ 言っている。

9. 果たしてこういう日本人は 人間であるのか? まだ人間に成っていないので
はないか?


☆ ウサギは 思考しません。《祖先》のことについて考えていません。
《ウサギ全史》を書いたりしません。

けれども ひょっとしたら 神からのメールをいつももらっていて それを心の感性
の目で読んで生きている・・・のかも分かりません。

ウサギそのものは 滅びざるを得ない存在ですが ナゾの何ものかにつらなってその
存在は 限りなく時を経て行くものなのかも分かりません。
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この回答へのお礼

これは存在論なのですか? 何だか冗談のように読めますが もっと真剣に存在、存在論について考えて下さい。

神の事もいいですが 無神論の人も多いのです。存在論はどちらにも通用するものでないと行けません。

ウサギと言うのは生き物の名前です。物質をウサギとは言いません。人間というのは?精神のこと だと持っています。

勿論極論です。

お礼日時:2016/10/11 19:59

いろいろと丁寧にお言葉を貰ったのでお返事を。

私の投稿を読むのも大変かもしれませんから、できるだけ手短に書いてみます。

(No26お礼欄)>私の存在の定義は 個性ある性質を持ったエネルギー・物質 と言うのですが時点だけで判断は出来ません。犬なら犬という個性を見れる瞬間を見て それから時点の存在を犬と判断するのです。

他人様のお礼欄に書いてあった言葉ですが、これは明快な定義だと思います。存在は今(現在)だけではなく、前後(過去と未来)がないと分からない。行動が停止すれば(死を迎えれば)、前後がないので個性が判断できなくなる、というわけですね。
私の理解も深まりました。どうもありがとう。

(No24お礼欄)>ただ私は「当たり前の話しか世の中に通らんわ」というのは苦手で

誰でも、それはそうです。哲学っていうのは、自由なものでないと。
でもいろんな人がいろんなことを言うから、熱気があって楽しい時もありますね。

私ばかり投稿しても他の方が入りにくくなるとよくないので、一端、これくらいで。
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あほなさん、ありがとうございます。



差し出がましいことを言った私がフォローするのも見当違いとは思いますが、しかし、ハルさんも対等に話してくれることを喜んでいると思いますよ。ただほんの少しの気遣いで、もっと楽しく話せるのでは?と思ったということでした。

フランスの映画で『最強のふたり』というものがありました。格闘映画のようなタイトルですが、そうではありません。登場人物の一人は教養もない介護士。もう一人は大金持ちで教養もあるが半身不随(何か音楽の研究者みたいな設定ですね)。

このお金持ちは気難しい人として知られていました。半身不随であることがつらくてしょうがない。周囲のことが妬ましくてしょうがない。しかしポンポンものを言う介護士を気に入ってしまうのです。

介護士の若者は、教養がないし、人生詰んでいて、ふてくされているからそういう風にしたんでしょう。しかしお金持ちの人は、自分を対等の人間として扱ってくれたことが嬉しかったんだと思いますね。毒が薬になったというわけです。

気を遣われるより、思ったことをはっきり言ってもらった方が、まだありがたいこともあるでしょう。そう考えると、これは流れに任せるべきで、私はますます余計なことを言ったことになるんですけれども、まあ私の腕が悪いということでお許しを。

ウサギの存在がどうなったのかは、死についてそれぞれが現実感覚を持った経験なんかを語りあえると、お互い別々の経験をしているということで、お互いを尊重し合えるかもしれません。ただちょっと重い話でもあります。

既に出ている言葉は一見、理屈で割り切ったような軽さがありますが、その裏に、重いものが隠れているんだろうなと私は思っていました。
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この回答へのお礼

ありがとう

大体九州の人間は話してると喧嘩してる様に聞こえるそうです。口が悪いというか

少々言われても構わんというか。腹はないんですが口が悪いんでしょうねえ

特に昔は多かった。京都や東京の様には行きません。

武田鉄矢とか高倉健とかそうですねえ 鹿児島はもっとそうです。

所謂九州男児と言うのは薩摩隼人のことで 福岡とか根性無いです。

北海道や外国で暮らす勇気なし。がばいばあちゃんは佐賀かな^^

鹿児島で知ってるのは「とんぼ」の長渕剛とかですねえ。

お礼日時:2016/10/10 19:31

サイコロさん、ありがとうございます^_^


ハルさん相手だとつい言いたい事を言ってしまいます。彼とはokwaveからの付き合いですが、つい甘えてしまいますね。
私は、自分の至らなさをハルさんに重ねて物を言うことも少なくなかったかなと、自分で思いもします。ハルさんには迷惑だったかも知れません。
つい、ハルさんの事を分かった気になってしまうのですよね。自分と重ねるから。
でも、実際は私のイメージとは重ならない、ハルさんの本当の姿があるのでしょう。
私も早とちりですね。ハルさん、色々と物申しましたが、これも何かの縁でございました。私の言を役立ててくれとは言いませんから、まぁ、あんな事を言っていた奴も居たなくらいに受け止めておいて下さい^_^
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この回答へのお礼

ありがとう

然し考えてみると時点での存在って 何なんでしょうねえ。電子も止まってスカスカの状態ですよねえ。

それこそ色即是空の世界ですねえ。

私の存在の定義は 個性ある性質を持ったエネルギー・物質 と言うのですが

時点だけで判断は出来ません。犬なら犬という個性を見れる瞬間を見て それから時点の存在を犬と判断するのです。

色んな意見を聞いてみたいものです。どうもみなさんありがとうございます。あほなさんもありがとう。

あほなさんに届くように頑張りますよ。取り敢えず^^

お礼日時:2016/10/10 16:32

勿論、生者と死者は違うのですが、九相図を見ては、そんな絵を描くよりも塚でも作ってあげろよ、と私ならば思うのです。



私もダメですね、ハルさんの一面しか見ないでつい反射的に回答してしまいます。一連の回答で不満に思うのともあるかと思いますが、ご容赦下さい。

ハルさんも、この冬で引退するのですか?
私は十月一杯をめどに去ろうかと思っています。
別の質問にも言った通りですが、ハルさんとはここでよく話しました。振り返れば、なかなか楽しかったですよ^_^
お相手下さりありがとうございました。
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この回答へのお礼

ありがとう

あほなさん 僕は葉っぱにカエルの乗ったあほなさんが好きでした。悟ったような感じがしました

議論というのは心がささくれて嫌ですねえ。僕の心の中に怒りの心があるのでしょう

それを相手にぶつけてしまう 良くないですねえ。アホなさんの様に穏やかでありたいものです

大人でありたいものです。ガンガン言ってくる人が多くて 自分までガンガン書くようになってしました

石頭になったのかな?バカの見本かもしれません?不器用な人間だと思ってご容赦下さい。

10月で去るのですか まあそう言わずときどきのぞきに来てください。

この質問コーナーがどうなってるか分かりませんが たまに見る分にはいいと思いますよ。

お礼日時:2016/10/10 10:29

あほなさん、おひさしぶり。

(先日、ご質問に回答しましたが)

まあまあ。ちょっと待ちましょう。話の始まりは、ウサギを事例として、死を境に存在が変わったのかどうか、でしたね。こんなことは、誰にも明確な答えは分からないのです。こういう話題は、話を噛み合わせるために、工夫が必要ではないでしょうか。例えば、「あなたはそう思ったんですね」と一旦受け止めて、それを出発点に話を広げていく手もあるでしょう。これは当人の現実感覚に直結している問題だから、「あんたは間違っている」ということは、下手をすれば、その人の人生を否定してしまうことにもなります。

あほなさんの回答を読んでいて思いましたが、あほなさんは世の中を駆け回って、いろいろなものをご覧になり、実地でお考えになっているんでしょう。大切なものがある。それを守るためには、時として、他を捨てるでしょう。踊り食い程度は、残酷とは思わないでしょう。現実感覚がしっかりあるわけです。しかしハルさんはどうでしょうね。別のやり方で現実感を養っているのではないですか。世間を飛び回ることはないかもしれないが、じっくり考える機会があるはずです。

私がこんな差し出がましいことを言うのも、私は昔、長いこと入院していたことがあって、ハルさんと少し言葉を交わした感じで、その時の病室の人らのことを思い出したわけです(いじめっ子さまたちがいるので、プライベートなことを書いて材料を与えたくないんですが、ええい、仕方がない!)。

病室には、病院から出たことのない子供らがたくさんいたわけです。彼らは正直、社会的に見れば何の役にも立たんかもしれない。世間知らずで、(学校もいっていないので)勉強もできない。医療費もドンドン使っていく。周囲に申し訳ないと思っている。でも自分が社会に何か役に立たないかと思って、必死だったものです。

「地に足がついていない感覚がする」は言い過ぎではないか。いや、こういう相手に、一番言ってはならないことではないか、と私は少し胸が痛くなったわけです。良いところを見て、お話ししてはどうですか。

ま、余計なことを言ったかもしれません。私は猪突先生から前に注意が入ったように仲裁みたいなものの腕が悪いわけです。それにお二人の関係もよく知らないから、頓珍漢なことを言ったかもしれません。気に障ったらお許しを。
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この回答へのお礼

ありがとう

あほなさんの言う 地に足がついてないというのは本当かもしれません。

僕は障害者なんで世間知らずです。仕事は色々やったんですが 今は病状悪化で休んでいます

存在性理論と言うのを考えてからは頭は現実より未来の可能性の方にあります。

しかしなかなか上手くいかずに 夢は枯れ野を駆け巡るという感じはありますねえ。

もう一息なんでしょうけど どうすれば突破できるのか考え倦ねています

哲学者に知り合いもいないし このまま埋もれる運命かなと思ったりします。

折角の仲裁をありがとうございます。ただ私は「当たり前の話しか世の中に通らんわ」というのは苦手で

それでは哲学をやってる意味がないように思うのです。

あほなさんは常識があって大人で見識もあるようですが 僕には何を書いてるのか 何が言いたいのかよく分からない

と言うのが本音です。あほなさんとは仲良くしていきたいし あほなさんが此処で悟ってほしいと思いますが

僕も限界があるもので あまり多くは読み書きできないんですよねえ。

お礼日時:2016/10/10 10:12
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