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信長辺りの時代では将軍は殺されたり利用されたりとしていますが、京や天皇については手を出していませんよね。
それどころか松永も信長も信玄も上洛だけはなんとかしようとしています。

この将軍の価値の低さはなんでしょうか?
あれくらいの扱いをされるのなら京も占領して天皇も将軍みたいに利用する輩がでてもおかしくないと思うのですが、あまりこれだという文献に当たりません。

A 回答 (6件)

将軍なんて、もともと朝廷が雇う傭兵の親玉に過ぎないのだから、大した地位ではない。

 日本で、使用人が雇い主に逆らうことが許されるようになったのは、ほんの第二次大戦後のこと。
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後鳥羽上皇あたりまで、武士は貴族に仕えるもの、って考え方が大筋でしたから。

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「天皇も将軍みたいに利用する」ってのは, 具体的には何をどうするんでしょうか? あの時代には天皇が「権威の象徴」となっていたので,

それになんかするとそれこそ「信長包囲網」どころではない騒ぎになっちゃいますが.
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義輝、義栄、義昭のイメージですね。


その前も足利将軍は義教暗殺、義材、義澄、義晴が追放の目にあっています。

また鎌倉将軍も二代頼家から五代藤原頼嗣まで暗殺か追放、その後の宮家将軍も適宜追放の憂き目に遭っています。
頼朝以降の将軍も武士(摂家、宮家将軍除く)ですから、その様な争いに巻き込まれる事が多いのです。
共通しているのは足利義教を除いて人望又は力がなかった、という事です。
義教は信長パターンで屠られたので非力だったのではありません。

問いの時代は信長が義昭を奉じて大挙上洛するまでの頃の前後かと思いますが、この頃の天皇は権門としては既に無力で武威を争う対象にはなり得ません。
天皇…帝を害するなど、祟りによるどんな災いが降りかかるかを思えば、当時の武将がそんな恐ろしい事をするなどあり得ないと思います。

足利将軍は次第に実力を失っていきましたが、公方としての権威は依然高貴なものを持ち続けていました。
多くの戦国大名が自らの正当性を帝や公方から得ようとしています。
その意味では、戦国になっても足利将軍の価値は高かったのです。
武田晴信、上杉輝虎などの偏諱を見てもわかります。

信長は若かりし頃、上洛し将軍義輝に拝謁しています。
義昭を奉じ上洛後、天下(畿内)を治め京、堺に代官を置く正当性を得たのは将軍義昭のおかげです。

また信長は、元亀争乱の時のピンチの際の朝倉勢との和睦、石山本願寺を事実上屈服させた和睦の際は朝廷の仲介を仰いでいます。
さらに信長は右大将、右大臣と昇進していき義昭を超えていきましたが、それにより公方(足利将軍)の権威はほぼなくなり帝の権威だけが残ったと言えるでしょう。

いずれにせよ、当時帝も公方も権威としての価値は高かったと言えると思います。
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この回答へのお礼

なるほど!よくわかりました!

しかし
>天皇…帝を害するなど、祟りによるどんな災いが降りかかるかを思えば、当時の武将がそんな恐ろしい事をするなどあり得ないと思います。
これについて一つ疑問なのですが、信長も信玄もお坊さんの殺害はもちろんお寺を焼いたり壊したりしていますよね。
信仰の対象としても格差があったというわけでしょうか?

お礼日時:2017/02/12 07:27

将軍の価値は、せいぜい今の内閣総理大臣ぐらいの地位でしょう。

つまり「替えが効く」わけです。

日本という国は、価値構造が2重になっている国です。たとえば江戸幕府で失政が起きても責任を取るのは老中で将軍が変わるということはなく、現代でも内閣は入れ替わっても天皇が交代するような事態はおきないわけです。

なぜこうなっているか、というと諸外国と比べて権威と権力が並列しているからです。多くの国では権威は宗教界が握っています。たとえば戴冠式の時に王冠を授けるのは宗教指導者だったりするわけです。
 
こういう国だと王様はある程度取り替えても変わりはいくらでもいますが、宗教指導者個人はともかく、宗教界をずたずたに切ってしまうと、王冠を授ける人がいなくなって、人々が王様の権威に納得しなくなります。特に武力を持った有力者は「あいつが勝手に王冠を被るなら、おれがかぶってもいいだろう」ということになっていくのです。
実際にそれで国が崩壊した例がいくつもありますし、ヨーロッパでは王位の認定を巡って皇帝と法王が権力争いをした有名な「カノッサの屈辱」事件も起きています。

日本においては、天皇は日本のオーナー(つまり朝廷開祖)であり、叙任権をもっている唯一の人物です。天皇によって征夷大将軍に任じられるからこそ、日本の他の実力者が「天皇からお墨付きをもらったなら、しょうがないから従う」ということになるわけです。

ですから戦国時代において「天下取り」という言葉は「上洛して天皇に日本一の権力者ということを認めてもらって、将軍に任命してもらう」ということであったといえます。

ですから将軍は「空席なら争って奪う椅子取りゲーム、空いて無ければ将軍を殺して空席にすればよい」というレベルの地位であり天皇は「椅子取りゲームの審判で、これを殺すと、際限ない椅子取りゲームになってしまう」ということです。
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この回答へのお礼

詳しくありがとうございます!
ところで
>実際にそれで国が崩壊した例がいくつもありますし
なのに日本でおきなかったのは、そこまで考えての事なのか、単純に信仰の対象として手が出せなかったのか、どちらでしょうか?
また、当時の天皇や公家はお金のない時代で、信長が勝手に名前名乗っても諫められませんでしたよね。
なのに権威、信頼が落ちなかったのは上記の理由からでしょうか?

お礼日時:2017/02/12 07:31

#5です。

お礼ありがとうございます。

日本の天皇というのは、信仰と日本統一の要なのです。

時代は奈良時代以前のことになります。当時は各地に豪族がいる時代でしたが、のちに天皇家となる有力な豪族が各地の豪族を束ねて行きました。その時、戦争をして勝って配下にした者もいるでしょうが、説得して従った者もいたはずです。

いずれにして天皇家は「俺の配下になれば、お前の氏神も一緒に祈ってやるよ。」と説得したのです。
拒否した者は滅ぼされたでしょう。それに納得して天皇家に従った者は、いまでも(今日も明日もです)天皇が毎日のお勤めとして、配下の豪族たちの神々(今では各地の神々になっています)を祈っているのです。

つまり、のちに日本と呼ばれる統一国家は「天皇家が配下の豪族の神々を尊重すること。」で出来上がった連合体だったのです。

その後、大化改新などで仏教を取り入れたりしていますが「天皇家が神々に祈る」という約束は今日も行われています。

このおかげで各地の豪族たちは「自分たちの神様が滅びることはない」と安心することができました。天皇家が神様を祈ってくれる、ということはその豪族の家系を維持する根拠があるということだからです。(普通は負ければ自分たちの部族と神様は滅亡します。)

だから天皇家の配下の豪族たちは安心して出兵したのです。(自分が死んでも、誰かが必ず継げるように天皇家が采配してくれるからです)

戦国時代と言えどもこの約束は有効でした。織田家も先祖は豪族まで遡れたはずです。

各地の多くの実力者もそういう繋がりを持ったものがおおかったので、天皇家を滅ぼことはできなかったのです。
なぜなら、天皇家を滅ぼせば、自分の家系の神様も滅びてしまうからです。

また、木下藤吉郎の様な下賤な出だと、天皇家を滅ぼしたら、もっと大変です。本来なら従ってくれるはずの古くからの名家の怒りを買ってしまうからです。

逆を言えば、古くからの約束を天皇家が守ってくれている限りは、天皇の命令には従うのが日本という国の約束なのです。

これを一般的に「権威」と呼びます。

将軍なんてものは、その時の実力者、権力者に過ぎませんが、天皇は日本の枠組みを作って統一を成し遂げ、維持し神々に祈ってくれている人です。

そういう人を滅ぼそうというのは、異民族のやり方です。

将軍として指名してもらうために、お互い争うなら内戦のうちですが、天皇を滅ぼして日本を支配するつもりなら、民族紛争ということになってしまうので、武士たちも大義名分が無くなってしまいます。

また、そもそも日本統一は大陸からの勢力に対して日本の全勢力が一丸となって戦う準備でしたから、戦国時代であっても、外国の勢力を呼び込んでしまう様な内乱(天皇を殺してゴタゴタする状態)は誰も望まなかった、ということもあるでしょう。

だから天皇の地位を利用はしても、天皇の地位を脅かすことはなかったのです。
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この回答へのお礼

とても参考になりました!
ありがとうございます。

世界史を勉強していて、どうして日本だけ特異な状況が生まれたのだろう?と不思議に思ったのですがどういう文献が参考になるのかよく分からず…。
重ね重ねありがとうございました!

お礼日時:2017/02/12 14:20

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