都道府県穴埋めゲーム

中学の歴史について質問です。
戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、足利義昭を将軍としたのに、1573年に足利義昭を追放して、室町幕府を滅ぼしたのですか?

A 回答 (4件)

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。


そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によって殺害され、替わりに義栄が14代将軍として擁立される、ということまで起きています。

信長が義昭を将軍に添えたのも、理由としては同じです。
世の中に色々と命令などを出したいが、自分の名前で出すと周囲の大名たちの反発を生んでしまう。義輝を殺害して、義栄を擁立した三好氏と同じように信長も、義栄を追放して、義昭を擁立することで、義昭の名前を利用しようとしたわけです。
実際、足利義昭を将軍に添えてから数年で近畿地方における勢力を確立しました。
しかし、信長の力が伸びることに反発した義昭は、周囲の大名に対して信長を討って自分を助けよ、というような書状を出すなどしました。
信長としては、近畿地方をほぼ制した上に、自分の敵ばかりを作る義昭、室町幕府はもはや用無し。なので、追放し、幕府を滅ぼした、ということになると思います。
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そうですよ。



信長は、天下統一の大義名分として、
足利将軍を表に担ぎ出してきました。

その後、信長は力をつけ、もはや将軍の看板など
必要としなくなります。

足利将軍の方も、このままでは将軍の座を奪われるかも、
ということで、反信長連合を画策しました。

それで信長が、足利将軍を敵視するようになり
追い詰めた結果、室町幕府が滅びました。
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足利、すごーい


着いていきます、という武将は沢山いましたが、足利軍その物は兵士の数は、300人も居なかったのです。

兵士5000人を抱える信長が(それでも少人数)どうぞ、京に上ってください、と送り出して

足利が、俺が一番だぞーと京で言ったわけですが、信長がうちは5000人の塀が居ますよ、戦いますか?

と言ったので、負けると判った足利が手を引いたので、室町幕府が崩壊したんです

兵、というか人を抱える、人々に気に入られる、という事をしなかったので、やがて足利から人が少なくなったんです
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先細りの自然消滅という形でしょう。


その前の将軍のときから、ほとんど幕府として機能してませんでした。
とりあえず上洛と京都周辺の抑えのため、一時的に室町将軍の肩書きを利用したってことでしょう。
その後、義昭は書状をあっちこっちに回し、反信長連合軍という形で抵抗しています。
後に、徳川家康が征夷大将軍に任命され幕府を開いた時点で、小数点以下の確率とはいえわずかにあった室町幕府復活の可能性がなくなりました。
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