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哲学の世界でも「存在」を扱いますが 普通にも「ここには酸素分子が存在する」とか

ここにはパソコンが存在するとか、私が存在するとかあなたが存在するとか言いますよね

存在者 と言う言葉もありますが可笑しな言葉です。

存在するのなら存在でしょう ツキノワグマの存在がどうこうとかも言いますよね

地球が存在する 地球という存在 とも言いますよね。

大哲学者たちはこの「存在」をこねくり回して何か余程の化け物のように言いますが

存在を定義出来る人いませんか?

私も私なりに定義してみましたが 答えが合うといいのですが。

存在を定義してみて下さい。よろしくお願いします。

A 回答 (19件中1~10件)

認識。

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存在を哲学的にいうと、近世以降では、1.客観的に存してこれを主観が捉えようとする立場と


2.主観が構成するものとする立場の二つがあるということです。(ある百科事典の記述です)

定義といっても結局、観念的なものにしかならないわけです。つまり、「訳のわからない言葉
だけの定義」で、現実には当てはめることができないという事になるでしょう。

西洋哲学といっても私はもっと可能性を感じているのですが、現在の様相では、千年はおろか
一万年たっても埒が明かないと思います。
人類があと千年もつかどうかですよね。

ですから、「新しい流れ」を作らねばならないという点では、共感していただけると思います。
ま、確かに大風呂敷といえますが、ハルさんの目的はまさにそこにあると思います。

私は東洋哲学にその可能性を感じています。
仏教哲学の中に「三証」という原理があります。
即ち、はじめに結論を説いて、「文証」(文献的証明、現代学問も含む)「理証」(人々が認める
道理)「現証」(現実の証拠)の三つの点における証明がなされて、はじめて社会的に「真理」で
あるとされる。

この方法以外には証明の方法はないと思います。ですから、その方向で行動がなされるべきです。
いつまでも理屈を捏ねくっていたり、他の悪口ばかり言っていても全くどうにもならんという
事は明々白々という事になります。

最後になりましたが、私の存在の定義は、「生命」です。(予想通りでしたか?)
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★ (№15お礼欄) ~~~~~


宗教に任せておいては不幸な人がますます不幸になりかねません

哲学としての見解を示すべきです。
~~~~~~~~~~
☆ 身近に宗教があると 一定の数の人びとは 近寄って行くと
いうことでしょう。

それらの人びとに向けて 哲学が発信するというよりも 宗教に
向けて批判をおこないつづけることが 基本であると考えます。

オシヘは考えるものだ。それを信じなさいと(つまり 無条件に
受け容れなさいと)説くのは やめたまえ。・・・こう発信しつ
づけることだと考えます。 

(世界認識において 思考と信仰とを区別していない。または区
別していても まちがって混同して用いていると)。


わたしのかかげる質問で 神論ものないし信仰論ものは つねに
そういった宗教批判をふくんでいます。

毎日 宗教という宗教はみなアホンダラ教であると言っています。
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この回答へのお礼

Thank you

宗教は分からない事まで分かった様な顔をして それを信じて拝みなさい唱えなさいといいますから。

よくあんな芸当が出来るなあと思いますけどねえ。

分かったつもりになってるんでしょうねえ。私にも経験があります。全て分かった様な気になりました。

でもよく考えると分からない事は沢山ある。

でも信じると迷いがなくなって 良いか悪いかは分かりませんが実行力が出るんですよねえ。

それが間違うと統一教会やオウムの様な結果になります

どちらもまだ信者が活動していますが元々の教えが間違いが多いから思うような結果になりません。

松本サリン事件や地下鉄サリン事件等になると取り返しがつきません。

宗教もやってる人は味目にやってる人も多いのでしょうけど、葬式仏教とか何かお金儲けですねえ。

アホンダラ教ですか まあ信徒が可哀想ですねえ。長崎の教会に原爆が落ちた時にはどう思ったでしょうねえ?

お礼日時:2017/04/30 19:48

地球は存在しません。

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この回答へのお礼

うーん・・・

地球が存在している事を証明するにはどうすればいいのでしょうか?

地球は存在すると聞いてますし、映像も見ましたが

かなり確実に地球は存在していますけどねえ。

お礼日時:2017/04/30 15:31

★(№11お礼欄) しかし宗教ではおそらく間違っている事を「これが


真実だ」と言って説いているのですよ。
☆ そうですよ。そういう場合がしばしばです。

★ ~~~~~~~~
それに対して哲学はノーコメントで良いのでしょうか? 

やはり「それはおそらく違う」という様な事を言わなければならないので
はないでしょうか?
~~~~~~~~
☆ そういう批判の仕方では埒が開かないでしょうね。

宗教の致命的欠陥は 《思考すべき内容から成る思想としてのオシヘを
信じなさい(つまり 無条件に受け容れなさい)と説くということ》で
す。

これが止むなら 自己の教義や組織の絶対化も止むことでしょう。

と思います。
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この回答へのお礼

ありがとう

宗教に任せておいては不幸な人がますます不幸になりかねません

哲学としての見解を示すべきです。

哲学は難しすぎて分からないと言われます。

もっと分かり易い哲学を供給すべきです。

キリスト教もイスラム教も宗教改革すべきです。

お礼日時:2017/04/30 15:28

そもそも存在するか、存在しないかのいずれかであるという命題は証明されていない。



コンピュータの世界は、0か1だが、実世界は、それほど単純ではないだろう。

世界が存在と無で説明出来ないとすれば、存在を問う事は無意味な事である。

存在も無も取るに足りない。世界から、存在と無が共に無くなったら、何も存在しないと言うのは、愚か者の言葉である。
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この回答へのお礼

うーん・・・

存在するか、存在しないか・・・他に何がありますかねえ?

コンピューターは人間が作った法則で動きますが 存在するか、存在しないかと言うのは

自明のような気がしますが 違うんですかねえ?

愚か者ですかねえ?

お礼日時:2017/04/30 14:18

量子論的に、認識される事で有限な存在性は派生して


います。
確定化しようとすると無限不確定に発散する不確定性
原理の相補性を、階層現象を表面的に捉える事で、
“仮象的な対象の確率的な存在性”を派生させるのです。

その「相補的不確定性」の、「位置(S)と運動量(St)、
時点(T)と質量(Ts)の2対において、一方の値を確定
しようとすると、もう一方が無限不確定に発散する」
というのは、時間軸(時間の流れ=記憶=自我仮説(心))
と空間軸(空間の広がり=予測=時空仮説(物))の相補
分化に基づきます。
その「相補分化」は、無=不確定性無限の潜在的
認識可能性=感受表面での量子相互作用=光速=
現在からの、過去(超光速)と未来(光速下)への
相補分化でもあります。
原理的な超弦(量子定常波=光速)の階層現象的
潜在化による、現象表面的な非光速性に付随して
派生する。
「存在とは何か?」の回答画像13
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何をぶつぶつ言ってるんだか。


そんなの定義するまでもない。
みんな存在という言葉を使って生活してるじゃないか。
もし君が存在という言葉を定義して、みんなにこれが存在の定義ですよと吹聴したとしたら、途端に存在という言葉はおかしくなって、通じなくなってしまうことだろう。
試しにやってみるといい。
存在を定義するなんてバカなことだったと思うから。言葉なんて通じればいいんだから、定義が、定義がなんて言って却って通じなくなるなら滑稽だろう。

ただ、一部の専門家だけに通じる専門用語と言うのは確かに有る。哲学における存在と言う言葉の定義も専門用語としてなら考えられうる。
だが、その専門用語と日常使う言葉をごっちゃにするといかん。
同じ存在という言葉でも、全然意味が違うから。
僕ら一般人が知ってる血と、医者が知ってる血液に、どれほどの差があるか想像すれば言わんとしてることはわかると思う。
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この回答へのお礼

ありがとう

成る程 しかし僕ら一般人の知ってる血と、医者の知ってる血液は同じですよねえ。

ただ医者はその成分を詳しく知ってるだけで、難しいことまで知ってるだけで

我々は我々で知を知らなければなりません。哲学者が難しく知ってる知はなかなか役に立ちません

一般の人は哲学者の難しい哲学を嫌っています。訳が分からんと言っています。

我々の哲学は何なんでしょうか?哲学なんて必要ないのでしょうか?

我々の為の身近な哲学が必要なのではないでしょうか?

それで存在とは何か考えてみたいと思ったのです。

ハイデッカーもサルトルも何だか分からない 存在。

お礼日時:2017/04/29 15:09

★ 確からしさは定説とまで行かなくても6割方確からしくても


「おそらく○○であろう」と言います。
☆ もしそれが 数学の確からしさであるとするならそれは 哲
学でも使い物に成りません。

言いかえると 《半々の確率で その事象が現われる》とか《お
そらく○○であろう》とそのまま そのとおりに言わねばならな
い思います。

哲学は専攻しておらず 講義にも出たことのない人間ですが。


★ 明日も太陽が東からのぼる 充分確からしい。おそらく明日
は晴れるだろう。
☆ 天気の晴れか雨かなどの予報は――そういう天候の動きにも
とづく予報なのですから―― そのままそう見なすとして 日が
東から 明日も昇るだろうという推理は 何て言いましたかねぇ

▲ 自然の斉一性原理 ~~~~~~~~~~~
ヰキぺ:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6 …

「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、
何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がく
りかえされるはずだ」という仮定
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ だと思います。哲学も その取り決めに従うとは思います。
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この回答へのお礼

Thank you

>☆ もしそれが 数学の確からしさであるとするならそれは 哲
学でも使い物に成りません。

しかし宗教ではおそらく間違っている事を「これが真実だ」と言って説いているのですよ。

それに対して哲学はノーコメントで良いのでしょうか?やはり「それはおそらく違う」

という様な事を言わなければならないのではないでしょうか?

自然の斉一性原理と言うのですか 勉強になります。

しかし自然界も地球温暖化などで変わってきましたね。夕立とかなくなりました。

生態系も変わって来て 斉一性もなくなって来ましたねえ。条件が変わったからですが。

お礼日時:2017/04/29 15:01

★(№8お礼欄) 私は「確からしさ」を採用しています


☆ それは 妥当性のことでしょう。

経験合理性〔と知恵ないし直観〕に照らし合わせて 間違いは
ないと認識され 一般にみとめられたなら ひとまづ・一応
定説として扱われます。

これでしょ? 確からしさとは。


確からしさ あるいは 本当らしさは 文学の用語ではなかっ
たでしょうか。

虚構が前提とされていて それでも 現実性が醸し出されてい
るといった場合 本当らしさがみとめられるとか。
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この回答へのお礼

Thank you

色々ご存知ですねえ。哲学科を出られたのでしょうか?

確からしさ とは数学の用語です。確率で出てきます。統計学的にも出てくるのではないでしょうか?

確からしさは定説とまで行かなくても6割方確からしくても「おそらく○○であろう」と言います。

妥当性があればそれに越したことはありません。

明日も太陽が東からのぼる 充分確からしい。おそらく明日は晴れるだろう。

ひょっとすれば明日もソフトバンクホークスが勝つかも知れない。という風に書きます。

哲学は絶対確かでないと ○○とは言えない。で終わってしまう傾向があります。

それでは話になりません。世界像を描いて見せないと哲学を考えようとする人はさっぱり分かりません。

人々が哲学は難しい 嫌いだと言うのはあまりに厳密すぎるからです。人間には分からない事もあります。

お礼日時:2017/04/28 22:20

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