都道府県穴埋めゲーム

§1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関

(1)
人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。
《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。
《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。

(2)
強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 
《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動
は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解
(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は
身体のウゴキとともに意志する。

(3)
《S-A》連関は 《身体 ‐ 精神》および《市民 ‐ 公民》のそれぞれ連関構
造となります。

(4)
わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い そ
の共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのです
が 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度と
して存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》
でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。

(5)
これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサ
ノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保し
ます。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 
従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと
思います。 

(6)
次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者
に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざま
な運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な
概念をかたちづくるものと見られます。
これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼
ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。
あやまちうるスサノヲ人間語と あやまち得ない〔と一応考えられている〕
アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。


§2 主観としての《S ‐ A 連関》から出発する

(7)
主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身
体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観な
いし主体とは やはり《S者 ‐ A者 連関》なる一個の存在です。

(8)
すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって
主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたとき
にも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくこと
ができます。

(9)
このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は 殊に《観念》で
あると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同
の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概
念のことです。

(10)
主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common
sense = 常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 
生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえた
ものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。

(11)
主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者が
A者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているという
ことであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。

§3 共同主観と共同観念

(12)
さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときに
は 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり 
あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域で
す。

(13)
たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理
解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。
しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念で
あり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語っ
たり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。

(14)
したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イズムなる共同の生活におい
て この《和》が 主体的に・つまり《S者 ‐A者 連関存在》おのおのの行為
をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観
であります。

(15)
これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法など
として論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共
同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。

(16)
この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たと
えば《ムライズム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主
体的な共同主観であったとするなら このムライズムと名づけられた語・概念
・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。

(17)
共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観
的であることによって ムライズム(《和》)あるいはナシオナリスム(《大
和=やまと》)といった次元で 社会的です。

(18)
しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻
想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あ
たかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えま
せん。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。

(19)
もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕
の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機
会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。

(20)
つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ
者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった
共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おお
いかぶさって来るというようなしろものです。

(21)
また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理
念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを
表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共
同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 
理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出
されるそれであるということでしょうか。


§4  記憶・知解・意志(愛)

(22)
身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わば
われわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織です。

(23)
同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして 
ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながっ
てゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見
たのですから。

(24)
何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力であ
る《意志》に基づくでしょう。

(25)
精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは自
治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意
志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は 
この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。

(26)
記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 
現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》
の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。

(27)
また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像で
あるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかと
いったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を 
ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。

(28)
従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のな
かで人は 生きています。

(29)
新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守
しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活してい
ます。

(30)
そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体
である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考え
られます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥー
ム)というふうに呼びます。象徴はアマテラシテです。
全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。

(31)
人間と社会をめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用
語を使って人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょう
か。

A 回答 (1件)

トルストイの『懺悔』を書店を歩き回りましたが見当たりません。



『セワストポーリ』で人々から受けた賞賛は、(純粋な愛国心)でしょうか。

『懺悔』を描いたころには自らの回心をこれにまとめたのでしょうか。

その後のトルストイさんはおよそ、民話や初期のキリスト教を基に(想像して)個々の信仰による姿を描いて、世界を支えるものを表現したのでしょうか。


ギリシャの神々のなかで、(記憶)が(文芸)の親のようですよね。

ホメロスさんの言葉も(愛国心)でしょうか。


過去の仕事を現代に応用するには、マジメな分析と批判が必要ですよね。
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    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 過去の仕事を現代に応用するには、マジメな分析と批判が必要です
よね。
☆ こう考えます。結論は そのとおりでしょうね。

思ったことは 人気があったりけっこう評価がされている作品の場合 
それでも おかしいというものがあります。

デカルトは おかしい。ニーチェは おかしい。フロイトはおかしい。
ソシュールは 間違っている。・・・(論証抜きですが)。

そう思うのは 著作については まづ初めにその内容がただしいと思
って読む。50ページ読むと おかしいものは 分かって来ます。初
めに信用したゆえにこそ 分かって来ます。

批判には しっかりとした論証が必要であることに間違いありません
が。



★ ギリシャ・・・(記憶)
☆ あるいは ミメーシス(模倣?)とか。

★ ホメロスさんの言葉も(愛国心)でしょうか
☆ 誇り・名誉と聞いたことも。


★ トルストイ
☆ 申し訳ない。知りません。読んでいない。

TVの番組で見たのですが 理想の村を築こうとしたし 実践したよう
ですね。なかなかの信念だったんだなぁと思ったことを覚えています。

武者小路実篤を読んでいたとき 寝ても覚めても トルストイだと言
っていて おかしいとは思わなかったのですが 食指が動かなった。

いろいろおしえてください。

質問を立てられては?

お礼日時:2017/10/03 16:45

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