17~18世紀の康熙・雍正・乾隆帝の時代、清帝国は積極的な領土拡張政策をとっており、モンゴル帝国以来の広大な領土を獲得しました。
乾隆帝の時代はジュンガル、ネパール、ベトナム、台湾、ミャンマーなど多くの国と戦争してそのほとんどに勝ち、朝鮮などは完全な従属下に置かれていたと思います。
康熙帝・雍正帝・乾隆帝は周囲の国と戦争をして勝ってきたわけですが、海を隔ててすぐの距離にある日本列島には何故か領土的野心を持つことがありませんでした。
当時、清帝国・徳川幕府ともにどちらが上ということもなく、お互い波風を立てず静観し合っている状態だったと思われます。
このような全盛期の強大な清帝国でさえ日本列島に攻め込もうとしなかった理由は何だと思いますか?
昔のアメリカとソ連、今のアメリカと中国の関係のように、お互いの軍事力の大きさと、いざ手を出したら大戦争になって東アジアが大混乱になることをよく知っていて、敢えて双方とも手を出さなかったということでしょうか。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
以外に知られていませんが「日本」と言う国はそもそも「大陸からの影響力を排除し、大陸から侵攻する勢力に対抗できるようにするために、島国を統一した」ところが原点になっています。
白村江の戦いで、惨敗して帰ってきた倭人は「このままだと朝鮮を併合した唐が攻めてくる」と富国強兵に走ったのです。そのため、仏教を取り入れ・律令制を実施し・租税と徴兵制を国中に整え、その上で国号を「日本」に改めました。それを唐に対して宣言したのは「今までの豪族の寄り合いの倭国とは違って、日本は倭人の勢力を結集した国家だかね。攻めると痛い目に合うよ」ということです。
このやり方、明治維新で西洋文明を取り入れ・近代法と近代軍を整備した明治維新とほとんど同じことをやっているわけです。
このような「日本」に対して唐は遠征を躊躇したようですし、その後の隋も海を渡ってきませんでした。それをやったのは漢人ではない騎馬民族の元で、でも2回遠征して2回とも失敗して帰っていきました。この時点で大陸には「日本にはそうとう準備してかからないと(船で海を渡ることを含めて)大変だ」と言う意識ができて行ったのです。
清は騎馬民族系の女真族ですから、そもそも征服するのが仕事みたいなところがあります。しかし、征服するのは「地面がつながっていて馬で行けるところ」であり、台湾は元々漢人が少しだけ居たこと、独立した政府がない(ということは統一され訓練された軍隊もない)こと、などの理由で比較的簡単に征服したわけです。
しかし、日本は手ごわいわけです。日本ほど統一された政府を持ち、軍事力も巨大で馬が使えない以上、船で戦争を仕掛けるには相当な準備が必要でした。
また、清国自体が元の遺伝子を引きずっています。清国は漢民族を支配に置く際に、元の玉璽を受け継ぎ「元の後継者として正当に大陸を支配する」というイメージを作りました(玉璽は偽物というのが通説ですが、イメージで支配できればいいわけです)
元は元寇でコテンパンにやられているので、清朝も日本侵攻には慎重にならざるをえなかったのでしょう。
また、清が大陸を支配できるようになった影の功労者は実は「日本」です。明の末期、秀吉による朝鮮出兵はそもそも「明制服を目指していた」とも言われ、明朝は朝鮮救援のために多額の資金と、多数の軍隊を派遣しています。これが、明の財政を悪化させ、明が滅亡するきっかけの一つになりました。
つまり清から見れば「日本は手ごわい、明を倒せる切っ掛けを作れるほど勢力が大きい」と警戒することになったわけです。
大胆にいえば、秀吉出兵は「日本は大陸に対抗できる力があることを見せつけるため」に行ったわけですが、結果として清朝が滅亡まで日本を攻めることを躊躇した原因を作り、さらに清朝は満州国として日本の傀儡になる歴史の皮肉を作ったともいえるかもしれません。
日本という国号は「大陸から攻められないように統一国家になったよ」と言う宣言だったのです。各時代のリーダーたちはそれを熟知していて、必要に応じて手当てをしたからこそ、日本はずっと独立を維持できた、と言うことなのだと思います。
No.3
- 回答日時:
#2です。
補足拝見しました。>清が滅ぶきっかけを作ったのも日本ですよね。
その通りですね。日本と言う国は、6世紀以前も以降も結構「大陸」のことを勉強し、常に監視を怠らなかった、と言えると思います。
日本が煬帝に「これからは天皇(皇帝)を立てるから対等な国と言うことでよろしく!」と手紙を送って激怒させたのは、よくよく考えてのことだと思います。教科書などには「世間知らずだった日本が勝手にやって怒らせた」という解釈が多いようですが、それ以降の日本と大陸の付き合い方を見ていると、戦略的に関係を変えた、と考えるほうが正しいと思います。
翻って、ベトナムや朝鮮は陸続きであるがゆえに別の苦労を強いられたといえるでしょう。ベトナムは北方の漢民族や漢を征服した騎馬民族だけでなく、コメが取れるがゆえに人口が豊かなクメールやインドネシアなどからの侵入にも対応しなければならなかったし、朝鮮は常に野蛮な騎馬民族を排除するために漢人王朝にすり寄ることをよぎなくされた、からです。
彼らにとって中国大陸に巨大な帝国があることは、とても嫌なことではありつつ、反対側の敵と戦うために必要な後ろ盾でもあった、といえます。だから彼らは朝貢したり、敵対したりと融通無碍に利用したのでしょう。
それに対して日本は島国で後ろは海、攻めてくるのは大陸からしかありません。そういう点で太平洋からペリーが来たのは晴天の霹靂であったでしょう。当時の日本のエスタブリッシュメントは常に大陸側を見ていたわけですから、その分衝撃が大きかった、と言えるのだと思います。
明治維新は、そういう文脈も踏まえないと読み込めないのではないでしょうか。
江戸時代、清朝は出島で日本と交易を行っていますね。18世紀になるとポルトガルに変わってイギリスの東南アジア支配が明確になり、フランスなどもじわじわと清帝国領土に近くなっていきます。wikiには「19世紀になると、清朝も西洋国とどのように付き合うか悩みだした」と書かれていますが、実際には16世紀にはインドや東南アジアに進出し始めた西洋国の植民地政策に対抗して、清朝は巨大な帝国化を望んだ、というのが真相だと思います。これで中央部にある北京などは守れるはずが、アヘン戦争になっていくわけです。
そういう清朝の歴史定期立ち位置をみると「常に南と西から進出してくる西洋列強との交渉」があり、とても日本にかまっている余裕はなかった、ともいえるのではないかと思います。
だから、日本が背後からペリーにやられたように、結局清朝は「近代化した日本」に背後を突かれて崩壊した、のでしょう。
日本と言う国は、不思議なほど「周りをよく見ている国」だと思います。鎖国と言いながら、実際には貿易で清とオランダとつながり、この2か国も特権的な貿易利益を維持したいがために、日本に有益な情報を常にもたらしてくれた、といえます。
それができたのは、やはり「大陸と決別し島国一国で独立を維持する気概」を6世紀に持ったからだと思いますし、歴代の為政者たちは、その意識を十分に意識してやってきたから、清朝とも敵対しないで済んだ、と言うことなのだろうと思います。
No.1
- 回答日時:
清は、もともと中国東北部で内陸部の女真族です。
その昔、同じく内陸部の元が日本に攻めて大敗しました。
内陸部出身部族は海戦は経験したことないし、不得意です。
そういう過去があったから日本を征服する気がなかった。
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清が滅ぶきっかけを作ったのも日本ですよね。日清戦争で負けて衰弱し、日本に留学し帰ってきた孫文による辛亥革命によって滅亡しました。
イギリス・フランス・ロシアなども盛んに清を攻めましたが決定打になることはなく、日本によって葬り去られたのも因縁を感じます。
日本が中国から学んだのは隋・唐・宋までで、元以降も交易をしたものの、ほとんど対等な関係になっていたようです。
何せ、中国の冊封体制では皇帝は中国しか認められませんが、日本では皇帝と同格である天皇が常に存在し続けましたから。