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アメリカの現代作曲家、モートン・フェルドマンの『ヴァーティカル・ソーツⅡ』や、
日本の現代作曲家、細川俊夫さんの『ヴァーティカル・タイム・スタディⅢ』など、
「ヴァーティカル」(垂直)という曲名が付いているのですが、
この場合の「垂直」は、どういう意味合いで付けているのでしょうか?

今度、ヴァイオリニストの神尾真由子さんのリサイタルで演奏されるので、
もしご存知の方がおられれば、ご教示ください。

A 回答 (2件)

「ヴァーティカル」は「ホリゾンタル」の対義語で、音楽でこの二語を使う場合、


「ヴァーティカル」は瞬間々々の縦方向の音の重なり、つまり「響き」、
「ホリゾンタル」は、横方向での音のつながり、関係性を考察するものとして、
理論書でもしばしば使われます。これが基本的な使い方です。

この基本的な意味から、「ヴァーティカル」という言葉が使われた場合、
作曲上、何らかの意味で縦方向への興味を優先させているか、
あるいは横方向の音の関係性の束縛から自由になっているか、
そのどちらかの意味が暗示される場合が多いでしょう。
必ずしも個々の作品にのみ限定されるような特殊な意味ではなく、
ある程度一般化して理解してもよい語です。

An4aFe3rvaさんご自身が、ほかの質問者への回答でお書きになっていることですが、
クラシックでは、個々の声部の横のつながりが重視されます。
ポピュラーの場合はコード単位で考えますが、それでも「コード進行」という、
横方向の一定の進行を基本に考え、そのパターンの基礎はクラシックと同じです。
このように、時間軸(ホリゾンタル)の流れで前後の音が一定の論理で結び付けられ、
それによって音楽が展開、進行していくというのが、西洋クラシックの伝統的な美学です。
言い換えれば、曲全体を通して聴いている時間の経過の中で、前後の関係性によって理解される音楽です。

20世紀半ばには、各芸術の分野で前衛活動が盛んになり、従来の伝統的価値とは違うものを模索するようになります。
モートン・フェルドマンも、当初、いろいろな前衛的な手法を試みていましたが、
最終的に、美しい響きや一定のリズムをパターン化し、それを延々と繰り返してく、
いわゆるミニマル・ミュージックと同じ方向へ作風が定まっていきます。
その作品は、強音になることはなく、静かなまま似たような音楽が数時間も持続する、
いわば環境音楽に近いスタイルです。
個々の「響き」は、空間におかれた彫刻のように、それ自身だけのためにあり、
何かを促したり、それ自身以外のものに発展したりはしません。
響きは調性的ですが、伝統的な音楽のように機能和声での進行することはありません。
フェルドマンの『ヴァーティカル・ソーツ』は、1955年にヒューストンで開催された美術展にインスパイアされたものです。
そこでは、マーク・ロスコのThe Green Stripeを含む抽象画が展示されましたが、
フェルドマンは、それらの作品と同じように、音楽での抽象表現を意図しました。
冒頭に書いたように、音楽の構造を考えるときは、縦方向の響きの構造と、
横方向の形式的構成の両面から見ます。フェルドマンに関しては、
縦方向を主体にして、ホリゾンタルな論理からは自由であろうとする立場の象徴ということになります。
ですので、フェルドマンにおける「ヴァーティカル」は、必ずしもこの作品のみに限定される考えではなく、
その作品全体に共通して言えることです。

細川俊夫の作品における「ヴァーティカル」も、基本の意味としては同じですが、拠り所が違います。
この作曲家は、以前から、日本の伝統音楽の美学を取り入れて創作していることを自ら語ってきています。
日本の伝統音楽の美学は、西洋音楽とは根本的に違い、
メロディー、リズム、ハーモニーよりも、音色、間、息などが重要になります。
音色の表現のためには、撥を弦楽器に叩きつけたり、管楽器に強く息を吹き込んだりして雑音も加えます。
「間」は、多くの場合「沈黙」として理解され、細川の場合もそういう意味での「間」を意識しているようです。
前後の関係での音の意味ではなく、一つ一つの音がそれ自身意味を持ち、
瞬間々々に聞き入るというのが、日本の伝統的美学ということです。
作品の楽譜を出版している会社のホームページの解説でも、
ホリゾンタルな音の関係性による構造という西洋の伝統ではなく、
個々の音の本質を感じることに根差しているとあります。
さらに、ヴァイオリンが人間の内面の声を、ピアノが人間を取り巻く自然と宇宙を象徴し、
作品の静寂さは、人間の魂の限りない深さに相当する、と、やや思わせぶりな解説が続いています。
ただ、細川俊夫の音楽は、本人が語るほど日本の伝統的な美学を感じさせず、
むしろ、1950~60年代の前衛の延長にあるように聞こえてしまいますし、
「間」などの扱い方も、日本の伝統楽器でやってこそ意味があることを、
そのまま「沈黙」として持ち込んでいるあたりが、やや表面的です。
それでも、西洋人にとっては少し違う音楽の作り方をしているということで、
かなりの高い評価を得ることになった作曲家です。
私見では、彼の作品を聞くときには、本人の解説にあまりとらわれずに、客観的に判断した方が良いと思います。

しかし、いずれにしても、伝統的な時間軸構成によるドラマよりも、
瞬間の響き、個々の音や和音を個別の存在として、
その瞬間ごとに、感覚的にその意味を感じ取ることを主眼とした美学に則っているという点で、
両者は共通していると言えます。
コンサートのプログラムをネットで見ましたが、ほかにもフィリップ・グラス、
アルヴォ・ペルトなどのミニマル・ミュージックの系統に属する作曲家の作品が選ばれていますので、
後半の演目全体がそういうテーマになっていると思います。

参考サイト

http://www.e-flux.com/announcements/37023/vertic …

https://en.schott-music.com/shop/vertical-time-s …
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この回答へのお礼

お時間取って回答して頂き、ありがとうございます。私もご承知の通り回答したことが御座いますので、大変なのがよくわかります。

それで、"Vertical"という単語がフェルドマンや細川さんの作品に共通していましたので、「作曲様式」として何らかの共通性があるのかと思い、質問させて頂きました。

ヴァーティカルがホリゾンタル(水平)の対義語だということで、ヴァーティカルは横よりも縦を重視する作曲技法なのだとわかりました。
それで、今までミニマル・ミュージックに対する疑問が少し溶けたような気がします。それは、同じモティーフの繰り返しがどういう意味を持つのかがわからなかったのですが、「時間軸」、つまり横方向に対するテーゼなのだということがわかりました。
なるほど、現代音楽では水平方向より、瞬間的な響きを重視する傾向にあるなと以前から思っていました。

今回の神尾さんのプログラムでは、フェルドマン、細川さん、ウェーベルン、ペルト、グラスなど生演奏で聴けるのは僥倖です。今まで聴き続けていてよかったと思いました。こういうプログラムをもっと演奏してほしいです。

私は、音楽は「わかる」為に聴いているのではなくて、「感じる」為に聴いています。その準備として楽譜があれば見るし、音源があれば聴きます。演奏に触れるときは、作曲家に想いを馳せるときもありますが、演奏者に意識が向くときもあります。これだけ色々な演奏があるということは、プロであっても作品に対する解釈が違うのだと思います。

今まで、演奏は余計な知識を入れずに対峙するべきだと思っていましたが、やはり「印象」だけでは「感じる」ことが出来ず、フランスの作家(彼は印象を重視しましたが)マルセル・プルーストが言うように、印象も「知性の裏付け」が必要なのだと思いました。

お礼日時:2018/04/02 09:37

作曲者でなければ分からないでしょう。



音楽、特にクラシック音楽において、「タイトル」は音楽を聴く上で気にする必要はありません。
「タイトル」の意味と、そのタイトルを付けた意図を知って、音楽が分かったつもりになるのは一番つまらないことですから。
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この回答へのお礼

折角回答して下さって恐縮なのですが、作曲者でなければわからないというのも真実なようで実際は違うのではないでしょうか?

例えば、文学でも作家がすべてを論じられるわけではなくて、作家は単に生みの親、生まれてしまえば作者の手を離れます。
だから、文芸評論家がいるのだと思います。作者でも気づかないことが研究者によって光を当てられるのは、音楽も同じでしょう?バッハやモーツアルトの研究者はそのために居るのです。

あのですね、古典派やロマン派の作曲家たちと違って、現代のクラシック作曲家は、「タイトル」にかなりの意味を託している場合が殆どです。幸いこちらにはプロの方がおられるので、「作曲様式」となにか関連性があるのではないかと思い質問しました。

現代作曲家は意味なくタイトルを付けるはずがありませんし、音楽をわかったつもりになるのでもありません。
絵画鑑賞でも、ガイドとなるキュレーターが居なければ、到底理解など出来るものでは御座いません。

お礼日時:2018/04/01 12:40

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