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①クラッシックは楽譜通りに忠実に弾く事が大前提の音楽である
②楽譜を読むには作曲家の意図を考えつつ読む必要がある

このような事をネット上でとある講師職の方が仰いましたが少々疑問があります。

一つは①はそもそも昔からクラッシックイコール楽譜通りに忠実に弾く事が大前提であった訳では無く
当時は即興演奏披露を常として毎回その演奏が違っていたなどとも聞きます。
さていつからクラッシックは①のようなものであるといった事が大前提になったのか?

もう一つは②で私自身も違うジャンルの作曲等を行う訳ですが、楽譜に表記できない事のほうが多く
仮に表記したにしろそれが編集者等の手に渡った時点でまるっきり元のイメージとは違う形になってしまい弾き手に渡るというのが常ですし、そもそも作曲家がどういった意図の元それを記載したかは
あくまで学者さん及び編集者や弾き手の主観に基づいた裁量によるものであり、本当に作曲家がそのような意図でその楽曲を書いたといった事実が無いのでは?
という事であればあくまで現代に流通しているオーソドックスな解釈手法というだけのもので
過去から未来に向けてそれは変化する可能性があるのではないでしょうか?


指番号まで作曲家が指定したものだと主張する原理主義者が居たり、クラッシックでは指番号も必ず記載通りの指使いで弾かなければならないものだと主張する人が居たり、おなじクラッシックの同じ曲であっても各々がまるで違う主張をしている事が多々あるように思います。

要はそれが真実であるといった根拠がある訳では無く、あくまでその人(講師を含め)が受けた教育上のモノであるだけの可能性はありませんか?


詳しい方ご説明宜しくお願いします。

(=゚ω゚)ノ?

A 回答 (2件)

>いつからクラッシックは


19世紀ころはまだ独創的な演奏も認められていて、演奏者の解釈が尊重されていたと言える。
しかし同時進行的に、たとえば協奏曲のカデンツァが、演奏者の全くのフリーから作曲者に楽譜で指定される傾向が強くなる。

ベートーヴェンによって進められた形式主義から表現主義(というべきもの)への転換によって作曲者の内面が重視されるようになり、それは20世紀において頂点に達したといえる。

>変化する可能性があるのではないでしょうか?
それはそのとおりである。
楽譜に記せるのはほんの一部であり、作曲者にしてみれば「もっとこれも訴えたいのに」と思うことは多々ある。
たとえばラフマニノフの時代には録音が可能になっていた。
かれは自分で演奏しそれを残したりしている。
(もっとも彼自身は「これは他の演奏者の解釈を縛るものではない」と言っている)

現在、作曲者の肉筆楽譜とかスケッチとか日記とか手紙とかが熱心に収拾されている。
そういうものを解析すれば、楽譜からは読み取れない、いわば作曲者の意図の闇の部分に少しでも光を当てることができる。
そうやって、少しずつでも作曲者の意図に肉薄しようとしている。

そして、19世紀から20世紀にかけて演奏者主体から作曲者絶対に大きく傾向が振れたように、今後演奏者主体に振り返す可能性は十分にある。
現在そういう傾向だからと言って、だからそれが絶対の真実とはいえない。
トレンドは常に変化する。
音楽の基本は理論だが、表現は人の心である。
要はどちらかを否定することでなく、両者の調和のとれた可能性を探ることだろう。

最後にナマなことを一つ。
主流に逆らうことは難しい。
大家が「これは間違っている」といえば「あいつは耄碌した」と言われるし若者が言えば「あいつは音楽を何だと思っているか」と言われる。
いずれにしても道を閉ざされ不遇に追いやられる。
そういうことはどの世界にもある。
もっとも合理的とされる物理学会や数学界にさえある。
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この回答へのお礼

助かりました

非常に参考になりました

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/04/22 19:39

曲譜は、作曲が誰でも再現できるようにした記録です。


演奏家は、その曲譜に従って忠実に再現しなければなりません。

これに即興演奏を認めるならば、それは編曲になります。
かつて、森進一が即興歌唱を行い、原作詞家の反感を買いました。

作曲家(/作詞家)の意図は尊重すべきです。
変えたければ、編曲等の許可を取って、編曲として演奏すべきです。
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