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1. 自我という概念は じっさいに現実においてそれとしてまとまった実態と
しては あり得ない。ですよね?

2. あっても わがままだとか我執だとかの心理的(つまり一時的・その場的)
に強固に固まった気持ちだったり 或る種の条件反射のごとく何かに反発して相
手や周りを省みずに動き出す意志のような意志ではないようなハタラキだったり
するのみであって けっきょくたとえば《個人にとって社会的に自我が形成され
る》といったような意味合いの実態はない。はずだ。

3. 自我が形成されるというのは われがわれであるという自己還帰(われに
還ること)を言うのみであるはずだ。さもなければ この資本主義社会で生きて
行くすべを確立したというほどの意味であって やはり《自我》と言う必要はさ
らさらない。

4. あるいは 超自我とエス(リビドー)とを取り持つというような自我は 
けっきょくこれも《われ》のことでありその知性ないし意志のことだと考えられ
ます。

5. われはこう思うということはあっても わが自我はこう思うとは言わない。
わが自我は きょう映画を見に行こうと思うが きみの自我はどうか? なんて
言わない。

6. 自我は 死語であり幻想ではないでしょうか?





☆ 蛇足気味ですが もう少しつづります。

7. つまり いわゆる一人称(ないし再帰)代名詞で表わす《われ・わたし;
おのれ》とは別の種類の概念を 日本語では――《自我》として――つくってし
まった。のではないか?

8. けっこうウケたのかも分かりません。定義を問わない文学としては持って
来いなのかも分かりません。




9. 重ねてですが あとは やっぱり精神分析の《自我》は もしそれが人格
全体としての《われ》に取って代わるとすれば 人びとの《われ》が縮こまって
しまいます。

10. そして 《エス》を《無意識なる〈独立した〉脳細胞の部位》だと説か
れてしまうと困ります。検証のすべがないのをいいことにして そういう独断説
が出されているようなのです。

11. 《超自我》も ただ単に《〈わたしが〉 エスのリビドーを抑える》と
言うに過ぎません。しかもこのムイシキの《エス(それ・あれ)》だって いか
に低俗であっても れっきとした我が欲動です。いかに勝手にうごくとしても
生まれつきそなわったわが自然本性のハタラキです。

12. 自我・エス・超自我なる要素概念は わが《われ》を分断している。の
ではないですか?

A 回答 (12件中11~12件)

1.に付いて。


現実的に有る、と思います。
生命は“我”そのもの。生命は“我”の活動といえます。
2.に付いて。
ここで云っている事などはみんな“我”の働きです。
“我”は学ぶ事で成長します。
3.に付いて。
自己環帰(我に環る)って何ですか?
4.に付いて。
知性は、人間だけのものです。
5.に付いて。
ここでいう“われ”は自我のことですね。
6.に付いて。
“自己”こそ幻想に近いと思います。
実感し難いということです。
7.に付いて。
《自我》イコールわたしです。
8.に付いて。
《自我》は“わたし”と同じだから分かりやすく、だから持って来いなのでしょう。

ここまで。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 1.・・・現実的に有る、と思います。
生命は“我”そのもの。生命は“我”の活動といえます。
☆ ん? 《自我》とは言っていませんね?

★ 2.・・・ここで云っている事などはみんな“我”の働きです。
“我”は学ぶ事で成長します。
☆ つまり 《自我》とは微妙にか明らかにか 別ですね?

★ 3.・・・自己環帰(我に環る)って何ですか?
☆ 自己到来とも言います。《それまで気づかずにあたかも別のわれ
でいたし行動していたところ 或るきっかけで ふとわれに還った》
というような場合を言います。

★4.・・・知性は、人間だけのものです。
☆ パス。

★ 5.・・・ここでいう“われ”は自我のことですね。
☆ でも そういう言い方はしませんね。

★ 6.・・・“自己”こそ幻想に近いと思います。
実感し難いということです。
☆ どうですかね。《みづから・おのれ》と言っているだけだと思う
のですが。

★ 7.・・・《自我》イコールわたしです。
☆ つまりすでにじゅうぶんそういう用法が定着しているようです。

★ 8.・・・《自我》は“わたし”と同じだから分かりやすく、だから
持って来いなのでしょう。
☆ 一般に言語習慣として 《根付いている》ようなのですね。

でも それなら:
(あ) わたしは 自我に目覚めた。
☆ と言うのは 要らないですね。哲学の命題としては 《わたし
は わたしがわたしである状態に成った》と言うでしょうし (3)
の《われに還る・自己到来》という言い方がよさそうです。

お礼日時:2018/09/13 13:52

自我が目覚めるなどの使い方があります。

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この回答へのお礼

おっしゃるとおりです。ですが それも すでにいま使われている
意味と用法において成り立っている・・・のだと思います。


ご回答をありがとうございます。


あるいは 飾りとしてのような役目があって 文学的に用いられて
いるのではないかと。

つまり :
(あ) そのとき わたしの自我が目覚めた。
(い) わたしは ようやく 自我に目覚めた。
(う) そのとき少年の中で 自我が芽吹いて来たようだった。
・・・

☆ というふうに表現したとき けっきょくみな同じひとつのこと
を言っています。《わたしは われに還った》・《わたしは 自分
が自分であることをさとった》のような内容です。

《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》と言えばよいの
であって われと自我とがあたかも別だというように見られる表現
を使う必要はないはずです。

もし文学的表現として われとは別だと見られる自我という言葉を
使うと それらしく見えると言う場合 その場合は おそらく日本
人は 《わたしがわたしである》といった感覚また自覚を持ったこ
とが少ないという理由からではないか?

つまりは 自己の周りは クウキと呼ばれる同調圧力がいつも漂っ
ていて わたしは 《われと自我とのふたつの部分的自己》に分断
されていると感じているのではないか?

こんなふうに思われますし 考えます。そのとき自我は まぼろし
です。

お礼日時:2018/09/13 13:36

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