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▲ (カント:その例証) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1. おそらくはじめは 7+5=12 という命題(判断)はまったく分析的
命題であり この命題は七と五の和という概念から矛盾律にしたがって生じる
と考えられるかも知れない。

2. しかし さらに立ち入って考察すると 七と五の和の概念が含んでいる
のは二つの数を或る一つの数へ結合するということだけで 両方の数を総括す
るこの一つの数が何であるかは その結合によってはまったく考えられていな
いことがわかる。

3. 十二という概念は 私が七と五を結合することを考えるだけですでに考
えられているのではけっしてない。だから そういう可能な和の概念を私がど
んなに分解してみても 私はその中に十二を見つけ出しはしないだろう。

4. 両方の数の一方に対応する直観 たとえば五本の指とか〔・・・〕五つ
の点といったものを助けにして この直観に与えられた五つの単位をつぎつぎ
に七という概念に付け加えることによって われわれはこれらの概念のそとに
出て行かねばならないのである。

5. したがって われわれはこの 7+5=12 という命題によって自分の
概念を現実に拡張し はじめの概念に この概念においてはまったく考えられ
ていなかった一つの新しい概念を付け加えるのである。
・・・
( I. カント:『プロレゴーメナ』§ 2 (c) 土岐邦夫・観山雪陽訳(1972))
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

6. けれども 五も七も十二も それぞれ《単位数の――つまり (4)で
〈五つの単位〉と言っているその―― 一(いち)》の積み重ねである。

7. つまり われわれは 7+5=12 という命題によって はじめの五や七
という概念ではまったく考えられていなかった新しい十二という概念をつけ加
えたのではなく そうではなくて 単位数の扱い方を拡張しただけである。

8. そのように――単位数《一》の五つ目は五であり 七つ目は七であり 七
の五つあとは 十二だというふうに―― 取り決めただけのことである。数の
名前を決めただけである。

9. ――のではないのだろうか?

質問者からの補足コメント

  • №3つづき

    ★ 「8と名づける」という命名判断は、分析判断ではないでしょう?
    ☆ ふたつの側面があると思います。

    数として 単位数《一》の積み重ね(あるいは 初めからの順序)として
    8 が得られるということは――《一》と《足す》と《いくつ目か》という
    概念がすでにあって その上に築くものなのですから―― 分析判断です。

    数の 8 を《ハチ あるいは ヤ》と名づけること これは では総合判断
    として成り立っているか?

    もしそうであっても カントが《数学的判断はすべて総合的である》と言
    っていることとは 関係ありますか?

    言語学的判断は 数学的判断の内にふくまれるということでしょうか?

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/11/09 21:32
  • №4つづき

    ★ №3で示したように、カント式は、「五」概念は、序数としているなら五番目、
    量としてなら手の指の数と同じもの なのであって、お約束とか、算術規則を背負っ
    たもの としてはしていない。だから外に出るのであり、綜合的とされるのでしょう。

    ★ 数概念が、bragelloneさんの「取り決めを基礎」として成り立っている、とする
    べきかどうか・・・また、命名判断を、単なる命名と「判断」とに分けるかの如き
    bragelloneさんの「ふたつの側面」にも立ち入りません。

    ☆ 承りました。カントの前提を間違いだと批判するのは 現代にあって問題となら
    ないのだと。

    ぢゃあ このカテで現代にあってもカントの命題が有効だとしたその発言に対するさ
    さやかな指摘としておきます。

    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10741423.html
    その回答№1です。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/11/11 10:56

A 回答 (9件)

同じ(単に)加算という概念を使って導き出されたわけではない。

7+5では説明がつかない7+(1+1+1+1+1)のことをカントは言っているのだ。その算出過程(生成)が全くの同一であると捉えられるのであれば、カント哲学そのものの否定になる。概念の外に出た所以は、7と5だからではない、4と2の場合でも同じように考えることができるから。その場合は4に指2本を付け加えるという形で、6が新たな計算過程によって導き出された答えになるというだけの話なのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

これまでのわたしの側の言い分を踏まえて あらためて反論なり批判なり
を述べるようにしてくださいませんか。


同じ議論が繰り返されているか。または こちらもカントも言っていない
ことがらが持ち出されて来て 論じられていると思います。

おっしゃっていることが どのようにカントの主張とかかわるのか。ある
いは質問者の言い分とかかわっているのか。そのことが 分かるように議
論してくれませんか?

お礼日時:2018/11/12 22:17

カントが数学が全て総合的判断と言ってるのは知りませんでした。

そういう考え方もできると(彼が)思っているのかなと...よく考えるとダブルスタンダードですが。
新しい概念から導き出された(周知の,既知の)数ではあるけど、新しい概念としての数ではありません。7+5の結果が12になることは公然の事実です。したがって、12 自体が新しい概念であるわけではなく、それを導き出す過程が新しいのです。ペットボトルの例に挙げた式の右辺は、12が飽くまでもカントの言う理論に則って導き出されたということを明示しただけです。つまり、計算が終わるまでは我々の脳裏に12という文字が少しでも過ぎるべきではないというルールです。
7がアプリオリであるとは言ってません。7から一つずつ12まで足し合わされる様がアプリオリなのです。ただ、カントが言うように 7があるから総合的判断みたいなのは間違ってたと思います。算術の基礎などというものの存在を昨日知ったばかりなのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ カントが数学が全て総合的判断と言ってるのは知りませんでした。
☆ №4のお礼欄に次のように引用しています。
▲ (『純粋理性批判』緒言 Ⅴ 一 (その冒頭) 篠田英雄訳)) ~~~
数学的判断はすべて綜合的判断である。この命題は極めて確実であり 何びとと
いえどもこれを反駁し得るものでない・・・
~~~~~

★ 新しい概念から導き出された(周知の,既知の)数ではあるけど、新しい概念と
しての数ではありません。
☆ 意味が取れません。カントは 十二が《あたらしい概念》であると言ってい
ます。
★ 新しい概念から導き出された(周知の,既知の)数ではある
☆ まったく理解できません。わたしの理解では すでに前提とされている単位
数と加算という概念を踏まえて 名前としてはあたらしい(つまり 十二)けれ
ど その生成としては あたらしい概念ではない。です。



★ 12 自体が新しい概念であるわけではなく、それを導き出す過程が新しいの
です。
☆ 命名のほかは 前提となっている諸概念にもとづき導かれているというのが
こちらの考えであり 物言いです。上に示しましたように 《導き出す過程》も
既定の概念装置にもとづいていると言っています。

★ ペットボトルの例に挙げた式の右辺は、12が飽くまでもカントの言う理論に
則って導き出されたということを明示しただけです。つまり、計算が終わるまで
は我々の脳裏に12という文字が少しでも過ぎるべきではないというルールです。
☆ 申し訳ないですが 何のことか分かりません。

お礼日時:2018/11/12 20:02

ほとんど7や5のイメージ(経験)にのみによって7+5=12を計算する方法(総合的アポステリオリ)は一部、新しい概念(アプリオリ)と総合的な部分で関わりを持ちます。

これを組み合わせたものが総合的アプリオリ だからです(だそうです)...
総合的アプリオリの例では、まず7が基準であるという前提があり出発点であるので、7については一の集まりとして認識していないため分析的判断ではなく総合的判断になります。でも、7に5を加える操作、あるいは7からの5の増加分といいましょうか、は5を一の集まりと捉えて順に計算していくのです。したがって、これは経験に基づくものではなく、9+4 でも飽くまで同じ一つの定義の中で計算することができるため、経験に依存しないアプリオリであるということになります。

数学的判断は全て総合的であるというのはどうでしょう、1+1の場合は分析的でもあり得ますし、2+1であればかなり分析的に近いかもしれません。次に、確かに、12も一の集まりであるし193も13679も全て一の集まりでできてることに違いはありませんが、実際に計算されるときは(他方が7とすると)これらの数字に関しては総合的に計算されるはずです。また、カントが分解してみたのは 和の概念 であって12のことではありません。確かに、7+5= 12と呼ぶ という定義(拡張)が為されている以上、12が出てくることが まったく考えられていない というのは少し言い過ぎだとは思いますが、13679+7を計算する際にも、答えが13686であることが79+7の経験によってしか考えられていないため、その(総合的な)結合によっては 両方の数を総括する数が何であるかが(非経験に)考えられていないということだと思います。カントはおそらく、7や5の形状、ナナ,ゴ などからは経験を持ってしか12を導くことができないと言いたかったのだと思います。つまり、7+2でも、7→8→9とすることで呼称や視覚情報ではなく数の間隔(行間)を読むことができるということです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 総合的アプリオリの例では、まず 7が基準であるという前提があり出発点で
あるので、7 については一の集まりとして認識していないため分析的判断ではな
く総合的判断になります。
☆ そういう問題ではありません。七が与件であるとしても・《基準》でさえあ
る――その意味は分かりづらいはずですが――としても まだ判断は始まってい
ません。つまり 総合的かどうかは始まっていません。

与件だというのなら 判断は――七にかんして――まだ始まっていません。

ひょっとして――まさか――この七なる数が 人に――純粋悟性概念として――
《アプリオリな概念》であると言おうとするんぢゃないでしょうね?

そんなことを言ったら 余計にすべての数は すでに生得的な概念であり もは
や《あたらしい概念〔としての数〕》はいっさいないことになります。よ?


言わんこっちゃない。まさにそのことが 次の言明で出て来ました。:
★ でも、7 に 5 を加える操作、あるいは7からの5の増加分といいましょうか、
は 5を一の集まりと捉えて順に計算していくのです。したがって、これは経験
に基づくものではなく、 9+4 でも飽くまで同じ一つの定義の中で計算すること
ができるため、経験に依存しないアプリオリであるということになります。
☆ 十二があたらしい概念だという命題との自己矛盾です。十二も 生得的な数
であり概念だと言っているのですよ?

★ 数学的判断は全て総合的であるというのはどうでしょう、1+1 の場合は分
析的でもあり得ますし、2+1であればかなり分析的に近いかもしれません。
☆ カントが 《数学的判断は全て総合的である》と言っているのです。それに
対してこの質問は それはおかしいではないか? と問うているのです。

ご高察あれ。

お礼日時:2018/11/12 14:49

すみません、そこについて付け加えるのを忘れました。

我々は実際7+5をするときはどうするでしょう、いちいち7に1を5回加えたりはしないと思います。計算過程は単に、ほとんど数の要素である7と5のイメージのみによって12を連想して、7+5=12であると計算していると思います。
次に、どんなに分解してみても という部分は、7や5を一の集まりとして認識し直すということではなく、単に、あくまでカントが想像し得る可能な和の概念において(感性を廃して究極に理性を意識した際に)、連想によってではなく理性的に12を見つけ出すことはできないということだと思います(ここは数学的な事柄について触れているのではなく、あくまでカント自身の、あるいは皆そうであろうというカントの予想や経験則に基づいた感性世界や思考過程の話です)。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 我々は実際7+5をするときはどうするでしょう、いちいち7に1を5回加えたりは
しないと思います。
☆ そういう問題なんですか? この足し算について その和が 12 であるという
とき 七や五とは別のあたらしい概念が発生している・・・かどうかを ここでは
問題としていると思うのですが。

七に五を足すとき 指を折って行くかとか そういう計算の仕方は――それが あた
らしい概念にかかわるのでなければ―― どうでもよいと思います。


★ 計算過程は単に、ほとんど数の要素である7と5のイメージのみによって12を連
想して、7+5=12であると計算していると思います。
☆ あぁ いま具体的にここにいるわれわれが計算するときの仕方を取り上げておら
れる。――ですが これも あたらしい概念にかかわるのでない限り どうでもよい
のではないですか?


★ 次に、どんなに分解してみても という部分は、7 や 5を一の集まりとして認識し
直すということではなく、単に、あくまでカントが想像し得る可能な和の概念におい
て(感性を廃して究極に理性を意識した際に)、連想によってではなく理性的に 12 を
見つけ出すことはできないということだと思います(ここは数学的な事柄について触れ
ているのではなく、あくまでカント自身の、あるいは皆そうであろうというカントの
予想や経験則に基づいた感性世界や思考過程の話です)。
☆ 《数学的判断はすべて綜合的である》――つまり 《〈連想によってではなく理
性的に 12 を見つけ出すことはできないということ〉は 数学における判断の問題で
ある》――はずなんですが?

そして 7+5 あるいは 七や五そして加算といった概念を《分解する》だけでは 
確かに十二という数ないし概念は そのままでは 出て来ません。

しかもすでに 十二という数を確定することのできる《単位数の積み重ね》が見つけ
出せます。それが:
★ 皆そうであろうという ☆われわれ の予想や経験則に基づいた感性世界や思考
過程の話
☆ であり おそらくそのことに間違いありません。

カントは このように考えないというのなら――つまり この単位数の問題を否定す
るというのであれば―― かれは阿呆です。そうでないというわけをおしえてくださ
い。

お礼日時:2018/11/12 04:56

カントは、7+5=12 すなわち、水+ペットボトル=ミネラルウォーターではなく、7+(1+1+1+1+1)=12 すなわち、水+(ペットボトル容器+キャップ+ラベル+空気+オマケ)=呼び方はわからないけど左辺の組み合わせでできる何か確かなもの とすることに意味があると考えたのではないでしょうか。

しかし、あなたの言う通り7も一によって構成されているため、7というものが水だとしても漠然な水だけでその成分が確かでなければ、右辺は完全に確かなものにはならないと思いました。でも、たぶんカントは7を基準(既知なもの)に加算という操作が行われない場合とし、加算という操作が行なわれる場合においてそのプロセスと結果の全てを直感的に既知なものに位置づけようとしたのではないかなあと思いました。
確かに、7+5=12 においては単位数の扱いを拡張したから12という数字ができるのですが、同じことは24+94でも、128+275でも言えることです。ここでカントが敢えて7+5を持ち出したのは、7や5が数の要素であり、桁が増えても同じ桁同士で成り立たつため、先述のことが説明しやすかったからだと思います。
また、カントの言う新しい概念とは、足し算を単なる数字遊びではなく、我々が加算のプロセスと結果までを何か直感的に認識する力のことだと思います。
(1+1+1+...の説明に用いたキャップや容器などは全て同じものではないけど、構成要素の最小単位として見てもらえればいいです。)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。ご回答内容の全体をめぐってですが たとえば カントは次のように
言っています。:
▲ 3. 十二という概念は 私が七と五を結合することを考えるだけですでに考
えられているのではけっしてない。
☆ ここをどう捉えるか?

わたしは どうしても・どう考えても 《単位数・つまり一》を話の前提として・
前提となる概念として踏まえるのでなければ 話は始まらないと思っています。

つまり 七や五という数は どういう概念にもとづき・どういう概念として成り立
っているのか?

単位数・一なる概念のほかには その一に一を《足す》という概念によるのだと。

《数》というからには 前提のさらに以前には 《いくつか? や いくつ目か?》
という概念をも前提しているはずですが。

そして これらの概念装置を操作することによって やがて 7+5=12 という足
し算が成り立っているし そういう計算が出来ることになる。

上に引用したところに続いては こう言っています。:
▲ (3.承前) だから そういう可能な和の概念を私がどんなに分解してみて
も 私はその中に十二を見つけ出しはしないだろう。
☆ どうでしょう? 《七や五やその和といった概念を分解》すれば 単位数が並
んでいます。じつはそこに既に 十二という数(ないし概念)を構成する要素は
《見つけ出すこと》が出来るはずです。

あとは その七と五との和としての数をどう名づけるか。このことだけが 計算と
して残されている。(十進法という概念装置が必要であるかも知れませんが)。

――こういう事情であり こういう問題である。のではないでしょうか?


すなわち:
★ 確かに、7+5=12 においては単位数の扱いを拡張したから12という数字がで
きるのですが、同じことは24+94でも、128+275でも言えることです。
☆ という内容が この場合の《判断》として 基本であり重要であり またそれ
でじゅうぶんである。と考えるのですが。・・・


つまり この基本の事項について どういう違いを打ち出して 説明または批判を
なさっているのか。これが いまひとつ よく分からなかったのですが どうでし
ょう。・・・

お礼日時:2018/11/12 01:12

>カントが《数学的判断はすべて総合的である》と言っている


---『プロレゴーメナ』では、純粋数学に限ろうと言い算術計算の例、純粋幾何学と言って初等幾何を例に挙げています。《数学的判断はすべて》と大風呂敷を広げているのでしょうか?

カント以降に、数学では、算術計算も初等幾何も公理論的に整備されています。
>一般にもそのまま認められていると言うかのような発言
---誰がどう言ってるか知りませんが、分析的・綜合的という分類に入れる方が珍しい、と世間に疎い私は思います。

>言語学的判断は 数学的判断の内にふくまれるということでしょうか?
---そこまで大きな事は言いません。論点を縮小しましょう。算術計算に関して、一言しているだけとお考え下さい。

>その上に築くものなのですから―― 分析判断です。
---というbragelloneさんのお考えから、また「初めのお約束ですから」という言葉からも、数概念の捉え方がカントと異なっていることが明確です。その由来する点を、細かく追求するのは措いて、分析判断・綜合判断を分ける線が異なっている、とだけにしましょう。

№3で示したように、カント式は、「五」概念は、序数としているなら五番目、量としてなら手の指の数と同じもの なのであって、お約束とか、算術規則を背負ったもの としてはしていない。だから外に出るのであり、綜合的とされるのでしょう。
数概念が、bragelloneさんの「取り決めを基礎」として成り立っている、とするべきかどうか、といったことにまでは立ち入りません。また、命名判断を、単なる命名と「判断」とに分けるかの如きbragelloneさんの「ふたつの側面」にも立ち入りません。

取り敢えず、bragelloneさんのお考えと カントの考え方の違いが隈取れているなら、私としては充分です。できていないと思われるなら私の力不足です。つまらぬコメントをよこしたと、おしかりを賜ったところで、矛を収めていただければ と。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ---『プロレゴーメナ』では、・・・《数学的判断はすべて》と大風呂敷を広げて
いるのでしょうか?
▲ (『純粋理性批判』緒言 Ⅴ 一 (その冒頭) 篠田英雄訳)) ~~~
数学的判断はすべて綜合的判断である。この命題は極めて確実であり 何びとといえ
どもこれを反駁し得るものでない・・・
~~~~~
☆ その折りにこの『批判』の本が手元になかったので プロレゴ―メナから引きま
した。


★ カント以降に、数学では、算術計算も初等幾何も公理論的に整備されています。
☆ いかに疎くてもそう推察され得ます。けれども はっきりと今頃このカテで 次
の発言に接したのでした。
☆☆ >一般にもそのまま認められていると言うかのような発言

★ ---誰がどう言ってるか知りませんが、分析的・綜合的という分類に入れる方が
珍しい、・・・
☆ その《実例》の箇所は 控えます。どうしても明らかにせよとおっしゃれば 示
します。

☆☆ >言語学的判断は 数学的判断の内にふくまれるということでしょうか?
★ ---論点を縮小しましょう。算術計算に関して、一言しているだけとお考え下さい。
☆ 了解しました。

☆☆ >その上に築くものなのですから―― 分析判断です。
★ ---というbragelloneさんのお考えから、また「初めのお約束ですから」という言
葉からも、数概念の捉え方がカントと異なっていることが明確です。その由来する点
を、細かく追求するのは措いて、分析判断・綜合判断を分ける線が異なっている、と
だけにしましょう。
☆ ううーん。一点のみ触れます。(4)(5)のカントの考え方にもとづいて物言
いを言っています。
▲ 5. ・・・はじめの概念に この概念においてはまったく考えられていなかっ
た一つの新しい概念を付け加える
☆ ことには成っていない。と思います。《いくら? または いくつ目?》と《一》
と《足す》といった初めの概念を基礎としていて そこでなら 《五も七も十二》も
その概念の範囲内で派生し得ると思います。命名としては あたらしい言葉です。

つづく

お礼日時:2018/11/11 10:29

私としましては、その三つの「だけ」で済んでいるなら、質問自体が成立していないように見えた、だけ。

つまり、質問者にとってすでに確信を持った事柄を、その確信のママに質問してもどうかな、と思うのです。その確信に隙間を作れないかな、とコメントしたのですが。

「=」の両辺共に、単位数に還元したら同じものであるのだから、等しいと言うことは「分析的」だというのは、フレーゲでしたか。それは量的なのかな? bragelloneさんは五つ目等と序数と見て、説明されています。カントはどっちとも言えない。「次々に加える」というのだから順序でもあるけれど、量の増加に過ぎないと見ているかも知れない。

フレーゲ流の説明は(実際はフレーゲを読んでいないので又聞きの又聞き)、
7=1+1+1+1+1+1+1
5=1+1+1+1+1
12=1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1
なのだから、
(1+1+1+1+1+1+1)+(1+1+1+1+1)= 1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1
これは分析的である、というものでしょう。

一方カントは、
《一》を内に持つ七 に 《一》を次々に加えることで はじめの七という概念においてはまったく考えられていなかった一つの新しい概念を付け加えるのである。
(親指)7 に 《一》を加える = 8
(人差し指)8 に 《一》を加える = 9
(中指)9 に 《一》を加える = 10
(薬指)10 に 《一》を加える = 11
(小指)11 に 《一》を加える = 12
片手が終わったので、ここで打ち止めで、12が得られた。
この過程のことを「概念の外に」と言って居るのではないか。加法とはこうしたものなのだから、綜合判断である、と。

7に《一》を加えたものを8と名づけただけ、と言ってみたところでカントへの反論にはならない。「8と名づける」という命名判断は、分析判断ではないでしょう?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 私としましては、その三つの「だけ」で済んでいるなら、質問自体が成立し
ていないように見えた、だけ。つまり、質問者にとってすでに確信を持った事柄
を、その確信のママに質問してもどうかな、と思うのです。その確信に隙間を作
れないかな、とコメントしたのですが。
☆ そうですね。たぶん その行き方が 学問的でしょうね。

この場合は すでに表題の命題がカントにおいて主張されており 一般にもその
まま認められていると言うかのような発言 これがありました。この発言に接し
て感情的に反応していることを白状しなくてはなりません。

★ 「=」の両辺共に、単位数に還元したら同じものであるのだから、等しいと
言うことは「分析的」だというのは、フレーゲでしたか。それは量的なのかな?
★ bragelloneさんは五つ目等と序数と見て、説明されています。
☆ これは 順序としても 単位数の積み重ねとしても 分析できると言おうと
はしていました。
☆☆(№2お礼欄) 《一》が 5という数の――外ではなく――中にあり そ
のことは 7にも12にも共通しています。これは カントの定義によれば《分
析的判断》です。

☆ 舌足らずだったと思います。


★ カントはどっちとも言えない。「次々に加える」というのだから順序でもあ
るけれど、量の増加に過ぎないと見ているかも知れない。
★ 《一》を内に持つ七 に 《一》を次々に加えることで はじめの七という
概念においてはまったく考えられていなかった一つの新しい概念を付け加えるの
である。
(親指)7 に 《一》を加える = 8
(人差し指)8 に 《一》を加える = 9 
・・・
☆ これは どうでしょう。つまり フレーゲ流に:

7=1+1+1+1+1+1+1
を踏まえて
7(=1+1+1+1+1+1+1)+1=8
という数を得て そのように呼ぶという取り決めを基礎としています。

したがって:
★ はじめの七という概念においてはまったく考えられていなかった一つの新し
い概念を付け加える
☆ たぐいの判断ではない。と思います。8という名前があたらしい《だけ》な
のだと思います。なぜなら 単位数の積み重ねであり 順序を示すための取り決
めであることは 初めのお約束ですから。

つづく

お礼日時:2018/11/09 21:32

カントシリーズ? 今更哲学史のお復習いでもないでしょうから、何か意図があるのでしょうが、それは存じ上げないことにして。



>そうではなくて 単位数の扱い方を拡張しただけである。
---「拡張しただけ」から「だけ」を取る。「拡張した」ということは言い換えれば、「一つの新しい概念を付け加えた」となるのではない?拡張したんなら。

>七の五つあとは 十二だというふうに―― 取り決めただけのことである。
---ジャ、六の六つあとは 十二だとは取り決めなかったの?
それとも、五の七つあとも 十二だとは取り決めた? つまり、計算があるだけすべてを取り決めたという見解なのですか?

>数の名前を決めただけである。
---数の名前は決めただけであろうけれども、「+」も記号を決めただけ、「=」もそうであろうけれども、「7+5」と「12」とが等しいと言うことも決めただけ?

数学的命題の真は規約による、という現代的な見解は、カントが主張する分析的・綜合的とはちょっとズレているのではありませんか。その算術演算の範囲でも、規約によるという見解は、演算として可能なすべての組合せは真偽が既に決まっている、としているようなもの。カントの見方からすれば、それは「綜合的命題」の集積から見ているだけ、とも言えるのではないか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。お久しぶりですが こちらでは 初めてでは?

★ カントシリーズ? 今更哲学史のお復習いでもないでしょうから、何か意図
があるのでしょうが、それは存じ上げないことにして。
☆ いえ。単純です。カントの認識論が このところ持ち上がり この《数学の
総合的判断》もそして別口でなおカントールの功績も たたえられているのを見
て それらに反応しているところです。

☆☆ >そうではなくて 単位数の扱い方を拡張しただけである。
★ ---「拡張しただけ」から「だけ」を取る。「拡張した」ということは言い換
えれば、「一つの新しい概念を付け加えた」となるのではない?拡張したんなら。
☆あぁ そういう場合もあるかも知れませんが 《同じ概念や理論》を拡張する
場合もあり得るのでは?

☆ >七の五つあとは 十二だというふうに―― 取り決めただけのことである。
★ ---ジャ、六の六つあとは 十二だとは取り決めなかったの?
☆ いえ。それは はっきりしています。つまり 単位数の問題ですから。(十
進法だとつけ添えるべきでしょうか)。


★ それとも、五の七つあとも 十二だとは取り決めた? つまり、計算がある
だけすべてを取り決めたという見解なのですか?
☆ 単位数の《一(いち)》は ひと一人の存在たる数であり それをことさら
確からしく扱うのは ひとの意志行為――その自由と答責性に裏打ちされている
――の一回性の原則から来ていると思います。


★ ---数の名前は決めただけであろうけれども、「+」も記号を決めただけ、
「=」もそうであろうけれども、「7+5」と「12」とが等しいと言うことも
決めただけ?
☆ やはり単位数の取り決めが原点だと思います。

★ 数学的命題の真は規約による、という現代的な見解は、カントが主張する分
析的・綜合的とはちょっとズレているのではありませんか。
☆ 《一》が 5という数の――外ではなく――中にあり そのことは 7にも
12にも共通しています。これは カントの定義によれば《分析的判断》です。
《規約》は そういう取り決めを言うに過ぎません。


末尾のご指摘にも当てはまると思います。どうでしょうか。

お礼日時:2018/11/08 10:14

零次元


数直線としての時間は一時現象から

金太郎飴は違うかな。
数字は連続してないですよね。

位置とニノ間がああいてしまう。
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