1. 価値ないし価値観ないし主観〔の片寄り〕からなるべく自由に対象を
・世界を認識する。
2. そうして おのれの思想や個性をも含む人間たる自己そのものの表現
として その世界観を明らかにする。
3. つまり ① 価値判断をできるだけつつしむ事実認識の段階と その
あと ② 自由に――表現の自由なる公理にもとづき まったく自由に――
価値判断をおこないこれを述べる。
4. 《哲学する》が ふたつの段階に分かれているだけである。
5. 初めの段階をひとまづ切り離しておこなうようになれば これを 《狭
義の哲学する》こととして 《科学する》と呼ぶだけのことではないか?
6. 形而上のことは 価値判断に――間接的・隠然としてにしろ――ふく
まれるものだ。人間が つねに超自然なるものと接しているとするならば。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
> ☆ ということは 哲学の話にはおさまる――ということなのでは?
言うまでもないと思いますが、科学は哲学の一分野です。「個人の判断はいかになされるか」ということを対象として取り上げて研究するのであれば、それは「哲学の話」です。しかしながら、ある個別事例において「その判断がその人の形而上学的信念に左右されたかどうか、あるいはその人がたまたま当の科学者だったのかどうか」をいくら論じてもせいぜい文学であって、哲学にはならんでしょう。
> 自然科学者が《科学者》に徹しようとする場合がありますが それは人間
> として広くはふつうに自然に哲学者であることを――その人の信念からか
> 趣味からか――禁欲しているだけだと考えられます。
いわゆる専門家が、自分の専攻分野以外の大抵のこと(哲学や科学を含めて)に何の興味も持っていない、という状況はごく普通に見られることでしょう。禁欲とは関係なく、単にアホであり教養がないということです。これは科学とは無関係だと思いますよ。
一方、科学において新分野を開拓する人はしばしば哲学的考察を行う。科学の方法論が非常に厳しく限定されているためにほんの足元しか見えないという制約のもとで、見通しを得ようすれば、自由な発想を温めつつそれを(科学の方法論を逸脱してはいるが)できるだけ論理的に構造化しようとするのは、必然じゃないでしょうかね。
> ②の価値判断に
> は――早い話が 《有る神》派か《無い神》派か 二つに一つの――おのれ
> の形而上学を踏まえた上で 経験的な思考と意思決定をおこなっているは
> ずです。
そうは思えません。その価値判断が拠るところは神秘的な話などではなく、むしろ、哲学の中でも倫理学と呼ばれる分野でしょう。(現実の社会とその動力学的仕組みを如何に的確に認識しているかによって、企図した通りに物事が進むかどうかは違ってくるわけですが、少なくともその価値判断の動機は倫理に導かれている、という意味です。)
倫理をあたかも数学のように体系化しようとすれば、ユークリッドの方法に倣って「原理」からすべてを演繹することになり、(怪しい新興宗教やスピノザのように)ズッコケるのは目に見えています。一方で「大多数の人がどう感じるか」を調査して倫理に代えようとするのはその場しのぎであり、人々の想像力の限界の先にどんな矛盾を孕んでいるかもしれない危険で安易な倫理学です。しかしながら、えーい、どうせ分からんのなら超自然のせいにしちゃえ、というほど無責任な人は、重要な価値判断に関わるほどの研究ができる人の中では、かなりの少数派でしょう。
ご回答をありがとうございます。
> ☆☆ ということは 哲学の話にはおさまる
★ ・・・しかしながら、ある個別事例において「その判断がその人の形而上学
的信念に左右されたかどうか、あるいはその人がたまたま当の科学者だったのか
どうか」をいくら論じてもせいぜい文学であって、哲学にはならんでしょう。
☆ あぁ。《論じる》というところを見落としてしまっていたようです。
論じる・あるいは表明された思想を分析してどういう源泉から来ているかを明ら
かにする――といった作業は おっしゃるように むしろ文学でしょう。なぜな
ら 用語の定義が――形而上のことに触れているなら――ほとんど覚束ないもの
でしかないと考えられますから。
言わずもがなでしたが それでも自己表現というものは 価値判断をふくめると
きには つねにその人の神論をも伴なっているものだ――と言おうとしたのでし
た。
そのことを裏返して捉えるなら 次のように分析され得ると考えたのでした。:
>☆☆ 自然科学者が《科学者》に徹しようとする場合がありますが・・・禁欲
しているだけだと考えられます。
★ ・・・禁欲とは関係なく、単に・・・教養がないということです。これは科
学とは無関係だと思いますよ。
☆ 往生際のわるさを発揮するならば 禁欲する科学者の例が確かにあって そ
れを取り違えて 《専門分野以外のことは放っておいてよい》と思った《 学者 》
が多いのでしょう。
★ 一方、科学において新分野を開拓する人はしばしば哲学的考察を行う。・・
自由な発想を温めつつそれを(科学の方法論を逸脱してはいるが)できるだけ論
理的に構造化しようとするのは、必然じゃないでしょうかね。
☆ 何の文句もありません。
> ☆☆ ②の価値判断には――早い話が 《有る神》派か《無い神》派か 二つに
一つの――おのれの形而上学を踏まえた上で・・・
★ そうは思えません。その価値判断が拠るところは神秘的な話などではなく、
むしろ、哲学の中でも倫理学と呼ばれる分野でしょう。
☆ ヒラメキ直観(これは 源泉が神秘であっても 得られたものはすでに神秘
ではありません)から価値判断を形成し得ます。また 良心(つまり 恥ぢ意識
やヤマシサ反応)は その意識や顔の赤らめなどが 倫理の問題に直結します。
つづく
No.7
- 回答日時:
>5. 初めの段階をひとまづ切り離しておこなうようになれば これを 《狭義の哲学する》
>こととして 《科学する》と呼ぶだけのことではないか?
4.までは、「思うところあるけれど」言っている意味分けるけれど、5.は、そりゃないだろう
となります。
理由。
3.において価値判断を行ないこれを述べるほう、が《狭義の哲学する》に当たり、そうでないほうが
《科学する》になるところ、 《科学する》側を《狭義の哲学する》と言っている。そりゃない。
質問文
>《科学する》なる主題について なぜ価値自由性を言わないのか?
《哲学する》とは、広義には、宇宙の森羅万象を明らかにすることを含み、つまり科学(自然科学)を含む
ので、価値自由性のもとに述べる場合と価値自由性を無視して述べる場合と両方あるから、価値自由性を言う
ことは、立場を明確にすると言う意味で言う必要あるけれど、
科学(自然科学)は、自動的に価値自由性を満たしているから、《科学する》のとき、価値自由性云々は
今更過ぎて誰も言いません。
ご回答をありがとうございます。
☆☆ >5. ・・・《狭義の哲学する》こととして 《科学する》と呼ぶだけ
★ は、そりゃないだろう となります。
★ 理由。
3.において価値判断を行ないこれを述べるほう、が《狭義の哲学する》に当たり、
そうでないほうが《科学する》になるところ、 《科学する》側を《狭義の哲学する》
と言っている。そりゃない。
☆ ご指摘の点は すぐさまあとで気づきました。
もし詭弁を弄するならば: ① 価値自由による事実認識も ② 価値判断による
主観表明も いづれも《狭義の哲学する》と呼べて ①のほうは特には《科学する》
と一般に呼んでいる。のだと。
☆☆>《科学する》なる主題について なぜ価値自由性を言わないのか?
★ 《哲学する》とは、広義には、宇宙の森羅万象を明らかにすることを含み、つ
まり科学(自然科学)を含むので、価値自由性のもとに述べる場合と価値自由性を
無視して述べる場合と両方あるから、
価値自由性を言うことは、立場を明確にすると言う意味で言う必要あるけれど、
科学(自然科学)は、自動的に価値自由性を満たしているから、《科学する》のと
き、価値自由性云々は今更過ぎて誰も言いません。
☆ これはですね。【Q:科学】という質問があったでしょう? わたしはブロック
されていて投稿し得ないので いまこの質問を用意したのです。
つまり:
★ 今さらすぎる
☆ ことを問題にしています。蛇足をムカデのごとくしようとしています。
ご納得のほどを願います。
ついでにいまやはり【Q:哲学カテ界隈で話が噛み合わない・・・】なる質問が挙げ
られています。実質的な内容としては 同じ問題だと思われます。お暇とご関心が
ありますれば どうぞ。
No.4
- 回答日時:
No.3へのコメントについてです。
価値自由な研究成果を出すまでが科学。それに基づいてさて現実にどんな政策を提言するかというところを誰かが行ったなら、それはその人の価値判断。さて、その判断がその人の形而上学的信念に左右されたかどうか、あるいはその人がたまたま当の科学者だったのかどうか、などは科学そのものとはまた別の話でしょう。
一方、(たとえばシュレディンガーが量子の波動方程式を構想する際に非線形項をばっさり切り捨てたように)科学者が理論を構築する際にオッカムの剃刀を振るうのも一種の価値判断だと言えば言えて、それを形而上学と呼べば呼べるかもしれないが、こちらは価値自由という話とは関係ないでしょう。用語の曖昧さに頼ってちゃソクラテスの詭弁と同レベルになっちゃいますぜ。
ご回答をありがとうございます。次のように考えます。
★ 価値自由な研究成果を出すまでが科学。それに基づいてさて現実に
どんな政策を提言するかというところを誰かが行ったなら、それはその人
の価値判断。
☆ はい。
★ さて、その判断がその人の形而上学的信念に左右されたかどうか、あ
るいはその人がたまたま当の科学者だったのかどうか、などは科学そのも
のとはまた別の話でしょう。
☆ ん? ですから:
★ 科学そのものとはまた別の話
☆ ということは 哲学の話にはおさまる――ということなのでは?
自然科学者が《科学者》に徹しようとする場合がありますが それは人間
として広くはふつうに自然に哲学者であることを――その人の信念からか
趣味からか――禁欲しているだけだと考えられます。
つまり まさに:
★ 一方、( たとえばシュレディンガーが量子の波動方程式を構想する際
に非線形項をばっさり切り捨てたように)科学者が理論を構築する際にオ
ッカムの剃刀を振るうのも一種の価値判断だと言えば言えて、
☆ という場合に相当するものと思います。(ただし シュレディンガー
は ご容赦ください。すみません)。(科学たる理論についてだけのオッ
カム裁断だと また別ですが)。
★ それを形而上学と呼べば呼べるかもしれないが、こちらは価値自由と
いう話とは関係ないでしょう。
☆ ですから ① 価値自由な認識と ② おのが価値判断による実践と
に分かれます。分かれますがそのとき ふつう一般には ②の価値判断に
は――早い話が 《有る神》派か《無い神》派か 二つに一つの――おのれ
の形而上学を踏まえた上で 経験的な思考と意思決定をおこなっているは
ずです。
★ 用語の曖昧さに頼ってちゃソクラテスの詭弁と同レベルになっちゃい
ますぜ。
☆ 前回 リンク先のURLを添え損ねました。人間が採り得る形而上学は
或る程度具体的なかたちとして 次のような《絶対性》理論にしたがうと
いう仮説です。どうぞご一読を。
【Q:普遍神という《一般絶対性》および 信仰という《個別絶対性》の理
論】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11000910.html
No.3
- 回答日時:
6はわからんすが、5まではおっしゃる通りでしょう。
自然科学は西欧の自然哲学の延長に他なりません。Max Weberが価値自由を強調したのはただの論考や演説ではない、自然科学に近い「社会科学」を樹立しようと企図したからです。もちろんそれらは哲学の一分野ですんで、どちらも博士号はPh.D.つまり哲学博士です。ご回答をありがとうございます。
★ 6はわからんすが、5まではおっしゃる通りでしょう。
☆ 賛成票にも感謝します。6は 次のコメントをめぐって考えます。
★ 自然科学は西欧の自然哲学の延長に他なりません。
☆ 事実経過として そうでしょうかね。
★ Max Weberが価値自由を強調したのはただの論考や演説ではない、
自然科学に近い「社会科学」を樹立しようと企図したからです。
☆ そうでした。ただし 最終的には 《科学者》も価値判断をおこなうと
言ったものと思います。
★ もちろんそれらは哲学の一分野ですんで、どちらも博士号はPh.D.つま
り哲学博士です。
☆ そうですね。医学部からの修士・博士の場合にもそうなる場合を知りま
した。
つまり 形式と内容ともに 哲学が あらゆる対象におよびあらゆる分野を
ふくむのだと。
6ですが:
☆☆6. 形而上のことは 価値判断に――間接的・隠然としてにしろ――
ふくまれるものだ。人間が つねに超自然なるものと接しているとするなら
ば。
☆ 横着なお応えになりますが ぜひ次の質問の趣旨説明をごらんください。
【Q:普遍神という《一般絶対性》および 信仰という《個別絶対性》の理論】
哲学カテは いま荒野をさまよっています。
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みづからのもとに確保する》。です。
少数派であっても それが 基本であり 哲学の道として導き手となるでしょう。
倫理は 胸の動悸あるいはシドロモドロになる舌の問題であると考えます。