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唯心論が正しいと思う人も多いようですが

唯物論者も多いです

あなたはどちらですか それとも両方統合できていますか?

どちらが正しいのか?両方つながるのが正しいのか?

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    カント「我が上なる星きらめく天空とわが内なる道徳法則」

      補足日時:2019/07/14 22:52

A 回答 (12件中1~10件)

追記



唯物=物

唯心=心

だとすると

物=水

心=砂糖

てな具合に考えてみて

水と砂糖

どっちが甘いか(正しい)
みたいな話に感じます

物は物

心は心

合わさってこその
意識とか魂

砂糖水みたいな感じかな?
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真水=入物



心=砂糖

入物を
甘いとかしょっぱい
味覚で判断するかな?
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在るものはなんでも使うは


基本ですよ
(  ̄▽ ̄)にっこり

唯物論は
極論で
真水みたいに
捉えてみる方が
良いのかも!
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この回答へのお礼

ありがとう

唯物論も唯心論も両方極論に感じますねえ

真水ですか。理性でしょうか??

お礼日時:2019/07/19 23:09

唯物論と唯心論って基本的にまったく違います。



世界の根源が物質だととらえるのが唯物論、精神ととらえるのが唯心論(観念論)です。
宗教というのは、物質の向こうに八百万の神なり創造神を想定していますから唯心論(観念論)になります。
創価学会のように「宇宙生命」の存在をいっていますので唯心論(観念論)ですね。

精神か物質かと言えば難しくなるけれど、基本的には人間の心をどうとらえるかでしょう。
人間の心は、脳という神経ネットワークによりできているのか、それとも物質とは異なるものがあるのかということです。
脳科学ではきわめてはっきりした結論がだされています。

人間の高度な精神というのは、全て脳内のネットワークによりつくられています。
ですから、幼児が経験をしながら、性格が構成されていき心がつくられていきます。
まさに、これは脳内における神経ネットワークが構成されていく過程でもあります。
反対に、認知症などにより神経ネットワークが破壊されていけば性格も全く変わってきますよね。

脳内の言語野の部分に障害がおきれば論理的な考えが全くできなくなります。
別の人間が特定の部位を刺激すれば、笑う、泣く、喜ぶということが自由に操作可能なんです。

ですから、世の中のことはやはり正しいのは唯物論でしょう。
それを言うと、「物質の方が精神より優れているというのか!」との批判もあります。
しかし、唯物論というのはそのようなことを主張しているのではなく、根源は何にあるかということです。

絵の具でできているからといっても、モナリザの価値は変わりません。
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この回答へのお礼

Thank you

モナ・リザかあ 懐かしいなあ。物質にも性質があるじゃないですか

その性質が脳で六根?から来る刺激を受け取って外界の刺激も含めて精神(小宇宙?)

ではないでしょうか?

そんな特別なものは脳にもないと思いますよ。クオリアとかも言いますけどね。

ありがとうございます。

お礼日時:2019/07/19 23:07

正しさを思うのは


心の働きとか
精神の働きだとおもうから

唯物論を正しさで
はかる事は

ちょいとズレを感じます

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

ありがとう

そうですねえ。唯物論はそのまま科学が使えますが 科学だけでは人の心や

人生は分かりませんねえ。

両立しないと答えは出ないと思いますがねえ。

お礼日時:2019/07/18 21:43

No.3です。



>>そういうものでしょうか?
唯心なら心だけ 唯物なら物だけ という意味ですが。

この世界をどのように認識しているか?でしょうね。
無から、想いでこの世界を作った創造主の立場であれば、「唯心論」が正解。
でも、あの世の世界を認識できず、「この3次元世界が全て」と思う人にとっては、「唯物論」が正解でしょう。

ソクラテスやプラトンは、生きているとき「あの世」の世界に行っていたから、そこからイデア論が生まれ、それが理解できた。
でも、アリストテレスなどプラトンの弟子たちは、「あの世」を知る能力は無かった。
だから、リアルな世界のみを研究して、科学技術の発展を導いた。

カントは、神を信じていたようだけど、自分自身には、それを語る才能・能力は無いと思っていたようですね。
だから、語らなかった。
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この回答へのお礼

Thank you

成る程 カントも分からいかもしれないものは語らなかったのでしょうね。

あの世って何処にあるのでしょうねえ?人々の心のネットワークにあるのでしょうか?

神を語るにはそれを認識しなければ よくあるのは「神さまのお蔭で生きている アーメン」

とか あの世があるなら人生をやり直したいです、私も。

お礼日時:2019/07/15 12:49

まず、存在論と認識論の対立がありました。


そして存在論の中に、唯物論と唯心論の対立があったのですよ。

過去形で言う理由は、カント以降の哲学では存在論は既に歴史として扱うようになり、現在は全ての哲学者が認識論に取り組んでいて、存在論は宗教の一部と位置づけられるからです。

哲学者(フィロソファー)以外に、哲学学者(フィロソフィーヴィッセンシャフトラー)と言う職業の方々が居て、この方々が、哲学の歴史と哲学の現在をゴチャゴチャに話すから、現在も存在論が哲学の対象であるかの誤解が生ずるのです。

我々が住む世界は認識論でしか説明がつかない事が解ったので、存在論に立脚した哲学は歴史でしかないのです。ご不満があれば、カントのコルニグス的転回を勉強して下さい。
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この回答へのお礼

Thank you

カントのコぺルニクス的転回は勉強しましたが あれは認識も対象もどっちもどっちですねえ

デカルトが「我思う故に我あり」と言いましたが それは何かを認識しているという事であって

その何かが無くては認識のしようがないでしょうね。

あの考察で得られた事は「何かが在る」という事です。我と言っても自然の一部の脳に社会の一部の精神が

なけなしの自由を持って存在しているのだろうと確からしさを以て存在していると考えるわけです。

私の哲学は宗教染みていて、自分でも自信在り過ぎだなと反省しています。

反省し過ぎると今度は何だかよく分からなくなるのですが・・・ どうもありがとうございます。

お礼日時:2019/07/15 21:20

詳しいことはわかりませんが、カントなんかも『両方統合』的なんじゃないでしょうか。


物自体を認めている意味で完全な唯心論(観念論)というわけではなさそうですし、また、現実は現象として認識するしかなく、その認識の仕方によって世界は規定されると言っているように見えるので。
まったくの推測ですので、適当に聞き流していただいて構いませんが。
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この回答へのお礼

ありがとう

そうかもしれませんねえ。コペルニクス的転回が有名なだけに全体が知られてないのかもしれませんが

カントほどの人なら客観的な現実もちゃんと頭にあったのだろうと思います。

しかし学界では随分酷い目にあった様ですねえ。

お礼日時:2019/07/14 22:47

>哲学学者 と言うのは何でしょうか??



哲学をせず、哲学者の研究をしたり、哲学の講座で哲学者のことを教える学者ですよ。
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この回答へのお礼

Thank you

言えてますねえ。大学の先生・教授は専門があって ドイツ語とか使ってカントとかニーチェとかを教えるのでしょかね?

もう哲学は先に先に進まないと時代遅れになってしまいますねえ。

お礼日時:2019/07/14 22:44

>>どちらも正しいなら 唯心論 という言葉は使えませんけど どうでしょう?



包丁は、調理につかえるので善。
でも、殺しに使えば悪。
そんな感じでしょう。
常に正しいとか、間違っていると言いきれないことは、世の中には多い。
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この回答へのお礼

うーん・・・

そういうものでしょうか?

唯心なら心だけ 唯物なら物だけ という意味ですが。

お礼日時:2019/07/14 21:10

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