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宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩についての質問です。
この詩は「そういうものになりたい」自分、つまり理想の自分として、
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
とあります。

詩の前半を見ると看病したり、稲を負ったり、訴訟をやめろと言ったり、いろいろと活躍する自分が出てきますが、どうして最終的にデクノボーと呼ばれたいのでしょうか?
デクは「木偶」で木の人形で、役に立たないものの例えだと思います。

丈夫な体を持ちたいとか、清貧な暮しをしたいという願いはわかりますが、「ホメラレモセズ」を理想とするのはどういう心理なのでしょうか?
それとも単なる謙遜なのでしょうか?
本当は世の中の役に立ちたいという心理が裏にあるのでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

追記


「真言宗の漱石の者ですが…」でなく
「真言宗の僧籍の者ですが…」です(汗)

 さて、宮澤賢治と常不軽菩薩についてここのHPを参照されてはどうでしょう
『日蓮宗 現代宗教研究所』「所報第36号:118頁~ 研究ノート 法華経と宮沢賢治の『春と修羅』(三)」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho36/s36_11 …

 ちなみに宮澤家は代々、熱心な浄土真宗の家系でしたが、賢治は『漢和対照妙法蓮華経』との出会い、さらに「国柱会」に入信し法華経信者となりました。もともと仏教に深い関心を持っていた賢治ですが、浄土真宗と日蓮系法華信仰は相容れない部分があるので、家族とも信仰面で軋轢があったようです。

「国柱会」は田中智学を開祖とする日蓮法華系在家仏教教団で、石原莞爾も入信していました。
国柱会HP
http://www.kokuchukai.or.jp/index.htm

 なお、立松和平は『「宮沢賢治」の生き方に学ぶ』(サンマーク出版)で“復刻された『雨ニモマケズ』に、最後の「二尊四菩薩(※)」が削除されているものがあるが、ここまで書かれてはじめてこの詩が完成するものであり、宗教色があるからといって削除するのは改竄ではないか”といった旨を述べています。

※二尊四菩薩…日蓮が感得した十界曼荼羅の中央部分に書かれる「南無妙法蓮華経」の両脇に位置する「多宝如来」と「釈迦牟尼仏」の二尊と、「無辺行菩薩」「上行菩薩」「浄行菩薩」「安立行菩薩」の四菩薩のこと。『雨ニモマケズ』の最後には

  南無無邊行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多寶如來
南無妙法蓮華経
 南無釋迦牟尼佛
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩

と書かれている。

参考URL:http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho36/s36_11 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
漱石=僧籍だったのですね。
参考URLによれば、デクノボウと呼ばれたかった(理想)のではなくて、実際によデクノボウだった(現実)とう指摘は、鋭いと感じました。
 雨ニモマケズの詩を書いたときは重篤だったので、死をはっきりと意識していたと思います。
 遺言のようなものなのかもしれません。
 その中でデクノボウと呼ばれたいと書き遺したことは、精神性の崇高さを感じさせます。
 法華経を信じているがゆえに、死に直面しても心が安定していたのでしょうか。
 参考URLもう一度じっくり読んでみます。

お礼日時:2005/02/21 01:17

直接の回答じゃありませんが。


「デクノボー」のモデルは、昔から、大乗仏教の菩薩から来たとか、たくさんの書籍でいろいろな説があります。その中でよく言われている説で、斎藤宗二郎という実在の人物がかなり影響しているんじゃないか、というのがあります。
この人は寺の生まれですが熱心なキリスト教信者で、内村鑑三の弟子としてけっこう反戦運動などは熱心に活動しました。

花巻で新聞配達をしていましたが、一軒くばっては神に祈りをささげ、また一軒配っては祈り、という感じで、実際、傍目にはデクノボーだったようです。いつもポケットにあめ玉と小銭を持っていて、配達の途中で、泣いている子供がいたら飴をやり、病気で寝込んでいる家には小銭を置いたりしていたそうです。ほんとに「雨ニモ負ケズ」。
賢治は、この人が学校の奉仕で花壇を作っていた時に知り合って、ものすごく影響を受けたようです。そんなわけで、こういう実在の人物プラス仏教の菩薩像が融合して、「デクノボー」が生まれたんでは、という説は結構有力ですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
デクノボーにモデルがいたとは知りませんでした。
斉藤宗二郎という人に理想の姿をみたのかもしれませんね。
その人の行動から、滅私奉公というような言葉を思う浮かべました。
「アラユルコトヲ自分ヲ勘定ニ入レズ」にということが自我を滅却することとしたら、それがデクノボーになるのかもしれません。

お礼日時:2005/02/22 01:48

真言宗の漱石の者ですが…



『妙法蓮華経』(法華経)の「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつぼん)第二十」に、
<はるかなる過去に威音王仏が教えを説かれたが、時がたつにつれ、その教えを自己解釈し、固執する修行者があふれた。しかしそんな行者たちに対して「決してあなたを軽んじない。あなたは必ず仏になる」と言って礼拝する行者が居た。そのため常不軽菩薩と呼ばれたが、しかし周囲の人は常不軽菩薩を嘲笑し、ののしった。それでも常不軽菩薩は迫害に耐え、礼拝を続けた。その後、常不軽菩薩は法華経の教えを知り、その教えを嘲笑していた修行者にも説いた。そしてその功徳は計り知れないものであった。
 常不軽菩薩は釈尊の前世の姿であり、彼を嘲笑していた修行者は釈尊の弟子の前世であった。ゆえに法華経の教えは、いかなる時がたとうとも不滅であり、それを聴聞し、説法することは必ず仏になることである>
と、説かれます。
 宮沢賢治が法華経信者であるのは有名ですが、『雨ノモマケズ』の最後に「南無妙法蓮華経」と書かれている点からも「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ」とは「常不軽菩薩」の生き方を理想としていたからでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
初めて「常不軽菩薩」の存在を知りました。
ネット検索すると下記のようなサイトがありました。
http://www.ne.jp/asahi/hassy/cat/hassylab/kenji/ …
常不軽菩薩はどのようにして、どのような者でも仏になると確信することができたのか?
でくのぼうだったからか?
常不軽菩薩と賢治のデクノボウは確かに似ていると思います。

お礼日時:2005/02/21 01:06

意味としては


「デクノボーとよばれることがあっても、
誉められることはないかもしれないけど」
ということだと思うのです。
当時、賢治のことをよく思わない人もいたのではないのでしょうか?
だけども自分はこういう理想があるのだということだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
人から誉められたい、感謝されたいという動機で行動するのではなく、湧き上がってくる自然の感情のままに行動するということかもしれません。
最初は謙遜だと思っていたのですが、もっと深遠なことのように思えてきました。

お礼日時:2005/02/21 00:56

 僕も、みなさんと同じで、確信はないのですが…


 僕たちは大抵、○○だから○○する、とか、○○だから○○になる、というような因果律の中で生きていると思うんです。凄く卑近なことを言えば「損得勘定」というのもそうだし、「将来医者になって離島の人の生活を守るために、今は勉強して良い学校に入る」というような高尚なものもあるかも知れません。
 思うに、賢治の詩の主人公は、そのような因果律とは無縁の人ということなのではないでしょうか。
 ○○だから○○、ではなく、ただはじめから、そこにそういう存在として、ある存在というか。鳥や虫、獣がそこにそういう存在としてあるがごとくですね。
 普通、でくのぼうと言われれば怒ると思うんですよね。僕も怒ると思います。それは「自分がそうしているのには、確固たる(自分が思っているだけだとしても)理由があるんだ」と思ってるからなのではありませんか。真意があるのだと。
 でも、彼にははじめから、人に語る真意などないと。ただ、そこに生きてる存在なのだから、と。
 でも、「そういう人になりたい」のは何故なんだ、と問われると、一回転して因果律の中に飛び込んでしまうんですよね。人の頭の中はややこしい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
でくのぼうには、あるがままの自分を受け入れる、自然のまま生きるという意味があるのかも知れませんね。
人の眼を気にしないとか、他人の期待に無理にこたえようとしないとか、ということも含まれているのかもしれません。
含蓄のある回答が多く、感謝です。

お礼日時:2005/02/21 00:53

 感で答えてもよさそうなんで一言。



「ホメラレモセズ」というのは、誰に喜ばれる
こともなく・・・と読み替えてもいいと
思います。

 賢治の作品、例えばセロ引きのゴーシュなど、
ひとりで練習しているゴーシュのところに
いろいろな動物がやってきますが、
みなゴーシュを誉めていて、ゴーシュも
動物たちに喜んでもらっている
という感情が徐々に高まって
腕が上がっていきます。

 これは私の勝手な想像ですが、
あの話の動物たちは、全て
ゴーシュの幻覚だったのだと
思います。

 人間は本来心が弱い生き物ですから、
どこかで他人に誉められ、喜ばれる
ことを生きがいにしています。

 ここで言うホメラレルというのは、
誰かに認めてもらって、自分だけ
いい子になるというような意味では
なく、他人に喜んでもらうといった
心の支えのことで、そういった支えが
なくてもやっていける、強い人間に
なりたいということなのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そういえばゴーシュは自分の音楽が多くの動物たちを癒していることを知らなかったという設定でしたね。
一生懸命なにかに打ち込んでいれば、自然と善なるものがにじみでてくるという発想かもしれません。
よい作品を思い出させてくれました。

お礼日時:2005/02/21 00:48

例えば、剣術の稽古などで木偶人形は打ち込まれるままでいます。



賢治はそこから連想し、あるがままを淡々と受け入れ、あれこれ思い悩んだりしないことを「木偶」に例えたのでしょう。

どんな苦労を背負おうとも平気な顔でそれをこなし、誰にもそれを気づかせない、そうした意味があると思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
あるがままを受け入れる人間になりたいということですね。
詩の内容と一致する気がします。

お礼日時:2005/02/19 19:58

役にも立たず、邪魔にもならず…


つまり、「ニート」の様に、空気の様な存在になりたいという訳では?

あんな事もしたい、こんな事もしたい。でも、たまにはのんびりと遊びたいなぁ~。と言う人間の心理を上手く表現した…というのは穿った見方でしょうかw。

褒められるのも貶されるのも、じっとして遊んでたら中々出来ない事ですからw
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
最初に丈夫な体を持ちたいという願望が書かれています。
空気のような存在になりたいというより、世の中の役に立ちたいという気持ちがあるようにも思えます。
またニートはニートで、精神的に不安定ないのではないでしょうか?親からいろいろといわれそうです。

お礼日時:2005/02/19 19:06

デクノボーでいた方が生きていくのが楽だからじゃないでようか?そういう人うちの会社にいますよ。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
あばら屋に一人で住んで、精神的な葛藤はあまりなく、生きるのは楽そうですね。
でも「ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ」とありますでの、社会との交渉はしっかりと持ちたいようです。

お礼日時:2005/02/19 19:02

謙遜(わざと自分の能力・価値などを低く評価する)しているというよりは


謙虚(自分の仕事・能力などにおごることがない)でありたいという願いだとおもいます。

自分の能力・行動を自慢したり、誉められるためにやるのではなく、自発的な人助けをしたいということだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」とありますでの、自慢する気持ちはなさそうです。
今で言うボランティア精神の持ち主でしょうか。

お礼日時:2005/02/19 19:00

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