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強迫性障害の数字にこだわるとはどういう症状ですか?

A 回答 (3件)

強迫性障害の数字にこだわるとは1、 2番さんの回答通りだと思いますが、強迫性障害にまでしてしまうと云う意味と、強迫障害が治ると云う意味に付いて答えたいと思います。



強迫性障害は神経症に属しています、対人恐怖も吃音や上がり症や、パニック障害なども同じです。自律神経失調症なども含まれているようです。

医学的な検査では異常が見つけられない状態の事ですが、本人の訴えだけが取り下げられない状態の事です。

何処も異常が無いけれど、本人だけが異常を訴えている状態です。こういった状態になった時、神経症と云っているようです。そうして本人の訴えが症状に当たります。

神経症は別の名でノイローゼとも云う様です。その症状が本人の頭の中に固定される時、その症状が発症したと表現出来ると思います。

様々な異なった症状が存在しています、処が治し方とか治療の方針は、症状別に存在している訳ではないようです。何故ならばそういった症状が発症する原因や背景には、全人格的な『何か?』が関わっているからです。

従って吃音を例にして説明するなら、幾ら良い話し方が出来る講師の元で、幾ら長い間練習を積んだとしても吃音は、治る事は無くて、しかも悪くなっている可能性さえもある様です。

神経症が発症する『全人格的な何か?』を鍛え挙げてげてやる事が、神経症の治療に大いに関係する事は、森田療法などの治療に於いては証明済みの事実のようです。

神経症の、例えば強迫障害で苦しむという場合では、或る数字に囚われると云った場合では、文字通りその数字への拘りが強くなって、日常生活が脅かされてしまう事を意味します。

或いは手を洗ったとしても、手が未だに汚れているとして、一時間も二時間も手洗いから解放されない症状も在ります。

頭の中の『想い』に縛られてしまって、日常生活が普通に送る事が出来なくなる場合を指しています。

神経症の症状が発症して、その症状に悩まされて、その症状に振り回される事を神経症と書いていますが、何故にそうなってしまうのかのメカニズムです。

人間の脳内には『心が二つあります。』一つは自我意識です、二つめは”無意識”の自分です。この二つの意識のずれと云うか、食い違いに悩まされる事が『神経症の原因になっています。』

手を洗う場合での強迫行為を、先に例に挙げて説明しましたが、手が綺麗になっていない気がしているのは『自我意識』と云う心です、他方一回洗えばよいではないのか、と無意識の自分は考えています。

そのどちらの心も自分自身です。つまり心の矛盾を悩んだり、病む事が人間の悩みになったり、心を病むと言う意味になっています。

神経症が発症する事を書いてきましたので、次は治るという事を書いてみたいと思います。

治りには、段階的な治りと、瞬間的に治ってしまって後戻りが無いと云った完治と云ったものが在る様です。

神経症になる原因は『人格的な原因』と先に書いてきましたが、『本人の世の中の見方の誤り』と云う意味があります。

世の中の見方の誤りと云う意味の中に『どちらの自分が見た事を重視出来るのか?』が含まれています。

長くなっていますので、簡潔に書きたいと思います。

自我意識が感じている内容は、『我が強いに代表されるように、自分勝手とか自分の欲目が掛かっていると云う意味です。』

無意識の自分が見たり考えている事は、その欲とか得とかは、含まれていません。

自我意識の世界は『自分の妄想で描いている世界です。』=『虚の世界』と云っても良い世界です。

無意識の自分が見ている世界は『真実が厳然として現れている世界です。』

この二つの世界に戸惑っている事が、神経症の世界とも言えます。

この二つの世界を往ったり来たりしながら、人間は生きています。

最後の後戻りをしない治りを書いて終わりにしたいと思います。人間はこの二つの世界を頭の中に感じながらい生きています。神経症の症状は現実には存在していないものです。

例えば、死に対する恐怖症が治る場合を例にするなら、死が恐いと感じるのは万人共通のものです。それが高じてしまって『逃れたい一心で、その恐怖感の排除を願いようになっています。』

その為に、常に死の恐怖感が襲ってきています。まるで死刑囚になったような心地しかしなくなっています。ここまで来た時に死に対する恐怖症が完成しています。

治る場合では、絶えず死を恐れているようになっています。何時も身体中から緊張が抜けなくなっています。処が或る日、自分が恐れていた者の正体が分かる時が訪れます。

自意識が、無意識の自分と出会う事が在ります。この瞬間に『自意識がこれまで抱えてきた緊張感が一気に解放されてしまいます。』

身体中に掛かっていた力が、一気に抜け落ちる瞬間です。

身の毛がよだつ、という場合では、身の毛を弥立たせている者の存在が在ります。同じように死を思う時死を怖いと思わせているものが存在しています。

処が、怖いと思わせられていた物が、実は自身の味方であった事が分かる体験です。死が恐いと思っていた事は、実は永遠の命が欲しかったことを意味します。

もう一人の自分は、『既に永遠の姿をしています。』言い替えるなら自分には既に永遠の命が備わっていた事を体験する出来事です。

これ以後、死に対する恐怖症は完治します。死とか生に対しての分別が消えるのです。生に執着して死を恐れたり卑しんだりする見方が消えてしまいます。

事実を受け入れる準備が完了した事を意味します。絶対肯定と云った足場に立った事を実感する事を意味します。『死ぬる時には死ぬがよかろう』を自でゆく事が出来る事を意味します。

死の恐怖所の反対語は、大安楽です。それ以後では、安楽に過ごす事が出来ます。自分の死に拠っても覆す事が出来ない安楽と云う意味です。
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一例をあげると、



・4は(日本語の)死に通じるので避けたがる
・9は(日本語の)苦に通じるので避けたがる
・13は(西洋では)不吉な数字と言われる場合があるので避けたがる
・自分の好きな数字(幸福になれる数字、ラッキーナンバーのようなもの)に執拗にこだわる
・その他、日本語と数字の語呂合わせ、自分の身に起きた過去の体験などに特定の数字を紐付けしてこだわる

などです。

上のような数字と言語の紐つけ行為は、自分や周りの人の日常生活に大きな支障が出ない範囲で、ときおり思うだけであれば、別に強迫観念とは言いません。せいぜい「縁起かつぎ」ぐらいの軽い意味で受け取ってよいことです。

しかし、そういった数字への拘りによって、大事な集まりや仕事への遅刻や欠席などがひんぱんに起きる、カレンダーや時計の針がさしている数字を延々見つめてしまって他のことが出来なくなる、不眠症になってしまう、食欲不振になる、外出困難になる、周りの人にたいしても、自分と同じように特定の数字を避けたり重視したりするようにしつこく強要(または懇願)しまくる、不吉な数字を見ただけで自分が近々本当に死んでしまうと思い込む…などの症状が出てきたら、強迫神経症(強迫性障害)の症状と見なされます。
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たとえば、不吉な数字・幸運な数字にこだわり過ぎてしまったり、特定の数字を不吉と感じ、あらゆる行為の際にその数字を不必要に避けようとしたりします。




 ご参考まで
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