日本語学習者の格助詞「に」に対する質問に対し、『「に」は場所を表わす』という珍説を延々と繰り返されている方がいます。これを以下、「ニ場珍説」と呼ぼう。
(助詞「に」と「で」について… https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12371106.htm )
少し考えれば、格助詞「に」は時間的、空間的な位置付けの【認識】を表しているのは自明なことである。
★ 公園に行く。
★ 大阪に行く。
という文を見ると、いかにも『「に」は場所を表わす』かのように思われる。しかし、
★ 友人に会う。
★ 5時に会議が始まる。
★ 先生に本をもらいました。
では、何ら場所は関係していない。これらの「に」も当然ながら同じ格助詞「に」であり、「に」は同じ意義を表している。
この程度の理解もなしに、延々と「ニ場珍説」を繰り返すのは質問者、学習者の混乱を招く意外の何ものでもない。
また、
>>
「に」は場所を表す、という考えは決定的に誤りではありません。 アスナロウさんがその考えはおかしい、批判されたのは考え方の問題であって、それは文法観(方法論)の違いです。「家にいる」の「に」は「家」が対象であることを示しているのが「に」である。「君にやる」という時、対象は「君」であって「に」では無い。それだけのことです。(No.20)
という珍説を述べられる方もいる。なぜ、このような珍説を披歴するのであろうか。それは、言語表現とは何かが本質的に理解出来ていないためと考えられる。言語は表現であり、語は意義を表すもので「示している」のではない。
この画面を見られている方にとって、「に」はDsp上の特殊な普遍的形のドットの集まりである。つまり、視覚的な形の普遍性である。「こ」の形になると他の意義になってしまいます。音声も音の特殊な普遍的波形であり聴覚の対象である。これらが、意義を表すのはこの形と概念が規範により結び付けられているからであり、学習者はこの規範を学ばねばならない。形が何かを示すのではない。
では、「ニ場珍説」のいう「場所」や同類の「到着場所(着点)」とはどのような概念であろうか。「場所」を見てみよう。
ば‐しょ【場所】
①ところ。場。位置。「置き―」「居―」
②いどころ。場席。「自分の―を確保する」
③相撲を興行する所。また、その興行。「夏―」
【広辞苑】
が示すように話者、聞き手とは独立に存在する客体であり、「到着場所(着点)」も同じ客体である。しかし、格助詞「に」が表すのは、このような客体の概念ではない。「場所」や「到着場所(着点)」の認識から生まれた話者の意識、主観の直接の表現であり、これを時空間に位置付ける意識を表していることが判る。
★ 公園に行く。
★ 大阪に行く。
という文で示されている「場所」や「到着場所(着点)」を表しているのは、「公園」「大阪」であり、「に」ではない。当然ながら、
★ 友人に会う。
★ 5時に会議が始まる。
★ 先生に本をもらいました。
の「友人」「5時」「先生」は客体であり、「場所」や「到着場所(着点)」ではない。格助詞「に」の意義とは、これら対象を捉えた意識、主観そのものである。
★ 公園【に】行く。
の「に」が場所を表すというのは、語「に」ではなく、この文が表す意味の解釈でしかなく、この意味と語の意義を混同した誤りでしかない。先に言われた文法観の相違などではなく、言語観、文法観の誤りなのである。
これは、回答者だけではなく現在の言語学、日本語学、文法学、日本語教育学のレベル、欠陥を反映したものといわなければならない。
回答者諸子はこうした言語の表現過程、規範による媒介構造を理解することなく、学校文法レベルの思い込みをもとに感覚的な回答を繰り返しているに過ぎないと感じるものであるが、諸賢はいかが判断されますでしょうか。
忌憚のない御意見、御批判をいただきたい。■
A 回答 (58件中31~40件)
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No.28
- 回答日時:
頭が混乱しているようだから経緯を整理してさしあげよう。
#20で、当方は以下のように述べた。
《そもそも君(=アスナロウ君)は、
「〇〇に▲▲」と言う場合、~~
「に」の時間的、空間的な位置付けの【認識】の表現を媒介して、【〇〇】が、時間的、空間的に位置付けられるに決まっておるじゃろう。
【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【〇〇】に決まっておるじゃろう。(#10)
と述べたはずだ。
★ 【先生】に本を貰いました。
の場合、
「に」の時間的、空間的な位置付けの【認識】の表現を媒介して、【先生】が、時間的、空間的に位置付けられるに決まっておるじゃろう。
【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【先生】に決まっておるじゃろう。
と言ったことになる。》
この発言に対して君(=アスナロウ君)は#20お礼欄でこの末尾文を抜粋し以下のように述べた。
《>>【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【先生】に決まっておるじゃろう。
決まってませんね。
先生はどこにいますか?
これは先生の空間的な場所を聞いているもので、「どこ」は不定の場所で先生ではありません。これが回答者の基本的な誤認です。》
どうかね?
何かお気づきかな?
つまり、君は自分の言った内容を当方(=hakobulu)が言った内容と取り違えて批判をしたわけだ。
◆
そして今回、君は#21で、
★ 【先生】に本を貰いました。
《>「どこ」は不定の場所で先生ではありません。これが回答者の基本的な誤認です。
【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【〇〇】位置に決まっておるじゃろう。【〇〇=先生】でないことは自明です。》
と言っている。
つまり、
【先生】が【不定の場所】に位置付けられる。
と言いたいのだね?
ま、それはそれで構わん。
ただ、
《【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【先生】に決まっておるじゃろう。》
《「どこ」は不定の場所で先生ではありません。》
これらはどちらも君の発言だよな?
矛盾した発言をしていることに気づいてないのか?
それとも、
矛盾していることがわかっていて知らぬ顔をしているのか?
どちらなのかね?
前者なら君はアホだし、
後者なら君は正真正銘のカスだ。
どっちなんだ?
せめて自ら選択したまえ。
>>【先生】が【不定の場所】に位置付けられる。
と言いたいのだね?
いいえ。
「どこ」が不定代名詞で、hakobulu君が苦し紛れに「どこ」などを出してきたので自縄自縛で混乱しているだけです。
ま、それはそれで構わん。
ただ、
《【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【先生】に決まっておるじゃろう。》
で、
不定代名詞「どこ」に対応する場所は【先生】の居る場所に決まっておるじゃろう。「【先生】≠場所」は当然じゃが?
従って、《「どこ」は不定の場所で先生ではありません。》ということになるのじゃ!
君は矛盾した発言をしていることに気づいてないのか?
それとも、
矛盾していることがわかっていて知らぬ顔をしているのか?
どちらなのかね?
前者なら君はアホだし、
後者なら君は正真正銘のカスだ。
どっちなんだ?
せめて自ら選択したまえ。
おっと、マタマタ下品な口調が伝染し、品格を疑われそうじゃ!
自戒せねばな!
■
No.27
- 回答日時:
認識づける、今までこの表現使いました?、やっとここまで、たどりついた?という感じすら。
「づける」の内容いかんですが個人的に使うのは、馬の鼻むけ?のようなもの?、方向づけ、または示唆、暗示・・・その他。
どうどのように認識するのか・・・・。
であれば、私の主張、考え方でも同じ表現が可能ですよ。
ただし「認識づけ」この言葉だけの場合は助詞のほとんどすべての働き(機能)です。
「に」と「を」に限定すれば、お得意の時間空間の位置の認識づけになりますが、「に」と「を」でどのような相違で認識するのかの説明がありません。
私の主張は変わりません、あなたの表現が変わりました、「認識」という言葉の生物化学的な立場での理解も必要だと思いますが、スペースの都合で割愛。
認識づけ、どの様な方法、要領、分野・・・・・・その他。
それの説明で、初めて「に」と「を」の相違が登場します。
そこで思いついたのが「収束」という感覚です。
念仏みたいなこと・・・につながりましたね。
釈迦の手の平ではしゃぎまわる孫悟空の姿が彷彿します。
>>認識づける、今までこの表現使いました?、
どの表現を指して言われてますか?
格助詞「に」は時間的、空間的な位置付けの【認識】を表している
と最初に述べていますが。私の主張は変わりません、あなたの表現は意味不明です。日本語自体がいつも乱れています。
以前にも、しかるべきところへ相談してはとお奨めしたのですが?
頭の中で何かが、「収束」しているのではという感覚です。
念仏みたいなこと・・・につながりましたね。
釈迦の手の平で、はしゃぎまわる孫悟空の姿が彷彿します。■
No.25
- 回答日時:
#24です。
>同様の妄想。
:
助詞の意義というものは、我々がふだん何気なく助詞を使う場合、そこに、どのような無意識が働いているのか?ということを想像しながら、あれこれ検証していかなくてはならない。
辞書などを参考にしながら、自らの無意識と向き合う作業だ。
当然ながら、そこには多大な想像力と、それを論理的に解釈する思考が求められる。
そうした能力の無い者にとっては、君のように妄想としか受け止めることができない。
つまり、それが君の限界だ、ということだね。
ま、あまり無理をせんほうがよろしい。
まして、想像力も論理的思考力もないままに他者を批判するなど、もっての外だということを肝に銘じておくことですな。
>事実、この数年進歩が見られません。
:
何年読んでも、アホにはアホの解釈以上はできない、ということを君は自ら証明しているわけだ。
せめて他人の意見を聞く素直さと、論理的に考える思考力があれば何とか救いようもあるが、君にはそのどちらも無いようだ。
後者は無理だろうから、せめて前者だけでも身に着けるようにせんと箸にも棒にも掛からぬまま、ただのカスで終わってしまうぞ?(笑)
>>当方が、どの箇所で「オーム返し」をしたのかね?
どの道似たり寄ったりでしょう。
:
「オーム返し」をしたことがないのに、「オーム返し」をしたのと似たり寄ったりだということかね?
へえ~~?
君らしいよ。
論理破綻を論理破綻とも一向に思わない逞しさだけが、君の取柄かもな?(笑)
身近な方々はさぞや苦労されていることだろうて。
あまり迷惑をかけてはいかんぞ?(笑)
いずれにせよ、#23の投稿が要所なのでね。
スルーしておけば、そのうち忘れるなどと甘い期待を持ってはいかん。
特に急がんから、ま、じっくり考えて論理的な応答をしてみてくれ。
そのことが取りも直さず君の理解につながるのだから、徒や疎かにしてはいけませんぞ?(笑)
要点だけ。
>>当然ながら、そこには多大な想像力と、それを論理的に解釈する思考が求められる。
何を今更川端柳!
大丈夫ですか?
血が先?
>>何年読んでも、アホにはアホの解釈以上はできない、ということを君は自ら証明しているわけだ。
読みもしなければどうしようもありません。
やはり性根を直さないと!
ただのカスで終わってしまうぞ?(笑)
まあ、今更かな?
論理破綻を論理破綻とも一向に思わない逞しさだけが、君の取柄かもな?(笑)
■
No.24
- 回答日時:
#21です。
補足拝見。
1.
>☆ 本を読む。
のように表現する場合、
読むという動作の動的な目的対象として【本】が話者に認識されている。
つまり、本は読むという動作の動的な対象としての実体として認識されている。
:
なるほど。
☆ 本を読む。
のように表現する場合、
読むという動作によって本の中身は話者の頭の中に吸収されていく。
つまり、本は読むという動作によって動的な影響を受けることになる。
という当方の記述に対照してくれたわけだな。
感心感心!(笑)
しかし、これは当方の記した内容とほぼ同じことを言っているにすぎないのではないかね?
つまり、君は、当方の見解の同意したが、同意したと言うのが嫌で、若干表現を変えて、いかにも君独自の見解であるかのように装っているわけだ。
見え見えだぞ?
呆れを通り越して憐れを催すわい。(笑)
2.
>★ 公園に行く。
の場合はそうじゃない。
公園は話者にとって動的な動作対象ではない。
なぜかというと、「行く」という動作の移行の結果としての空間的な場所である公園に位置付けられるからだ。
「行く」は、あくまで動的概念としての行動を表し、公園という空間的地点に位置付けられただである。
格助詞「に」は『静的対象として空間的な場所に位置付けるだけで、実際に動的な行為の対象ではない』
とも言えるだろう。
:
なるほど。
こちらも、
★ 公園に行く。
の場合はそうじゃない。
公園は動的影響を受けることはないのだよ。
なぜかというと、「行く」という動作は公園に位置付けられた段階で落着しているからだ。
「行く」は、あくまで動的概念として公園という空間的地点に、落着する形で位置付けられただけなのだ。
格助詞「に」は『動的概念として動作を位置付けることで落着させてしまうので、実際に動的影響を与えるには至らない』
とも言えるだろう。
という当方の記述に対照してくれたわけだな。
感心感心!(笑)
しかし、残念だが、論理破綻を露呈していますな。
当方の場合、
《公園は動的影響を受けることはないのだよ。
なぜかというと、「行く」という動作は公園に位置付けられた段階で落着しているからだ。。》
【だから】
《格助詞「に」は『動的概念として動作を位置付けることで落着させてしまうので、実際に動的影響を与えるには至らない』
とも言えるだろう。》
という論理展開をしている。
ところが君の場合、
《なぜかというと、「行く」という動作の移行の結果としての空間的な場所である公園に位置付けられるからだ。》
【だから】
《格助詞「に」は『静的対象として空間的な場所に位置付けるだけで、実際に動的な行為の対象ではない』
とも言えるだろう。》
という論理展開だ。
しかし、
《なぜかというと、「行く」という動作の移行の結果としての空間的な場所である公園に位置付けられる》
という記述は、
《『静的対象として空間的な場所に位置付けるだけ》
という内容と矛盾していないか?
そもそもだが、
《「行く」という動作の移行の結果としての空間的な場所である公園に位置付けられる》もの
とは一体何かね?
後学のために教えてくれんか?
3.
>ともかく、こうしたことを頭に置きながら『日本語はどういう言語か』(季節社版)の
【空間的・時間的な位置付けの意識が「に」で表現されます。これは固定したつながりとしての意識ですが、運動し変化したことを意識して位置づけする場合もあります。】
という解説を味わってみてくれ。
:
要するに、君では理解できないから、わたしに読んで解説してください、と頼んでいるのかな?
それならそうと素直に言い給え。(笑)
そうでないなら、せめて自分の解釈を述べるのが先決だろうさ。
せめてページぐらい明記したらどうかね?
そもそも『こうしたこと』が矛盾だらけなのだから、そんなことを『頭に置きながら』読んだとして、まともな解釈ができるとは到底思えんが。(笑)(笑)
>くだらんオーム返しするしか能が無いのかね?
:
ほお??
当方が、どの箇所で「オーム返し」をしたのかね?
アホの真似をしてそんなことをした覚えはないが、その箇所を教えてくれんか???
それとも自分自身に言い聞かせている反省の弁なのかな?(笑)
要点だけ。
>>☆ 本を読む。
のように表現する場合、
読むという動作によって本の中身は話者の頭の中に吸収されていく。
つまり、本は読むという動作によって動的な影響を受けることになる。
妄想癖がありますか?
>>公園は動的影響を受けることはないのだよ。
なぜかというと、「行く」という動作は公園に位置付けられた段階で落着しているからだ。
これも、妄想癖のたぐい?
話者の認識と客体世界を混交。
>>《格助詞「に」は『動的概念として動作を位置付けることで落着させてしまうので、実際に動的影響を与えるには至らない』
とも言えるだろう。》
同様の妄想。
>>《「行く」という動作の移行の結果としての空間的な場所である公園に位置付けられる》もの
→公園が位置づけられる
>>君では理解できないから、わたしに読んで解説してください、と頼んでいるのかな?
馬鹿口をポカ~ンと空いていれば何か落ちてくるだろうという怠惰な心根では進歩はありません。
事実、この数年進歩が見られません。
性根を入れ変えなければどうしようもありません。
>>当方が、どの箇所で「オーム返し」をしたのかね?
どの道似たり寄ったりでしょう。
■
No.23
- 回答日時:
#21です。
1.
>「どこ」は不定の場所で先生ではありません。これが回答者の基本的な誤認です。
【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【〇〇】位置に決まっておるじゃろう。【〇〇=先生】でないことは自明です。
:
では、なぜ#10お礼欄で、
《【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【先生】に決まっておるじゃろう。》
と言ったのかね???
2.
>ここで言う「対象」とは話者が表現しようとする、認識された存在のことです。
☆ 本を読む。
「を」は、話者が「読む」という動作(行為)の動的な対象として認識しているものが「本」であることを表わす。
という意味になる。
しかし、
★ 公園に行く。
これは、「行く」という動作(行為)の動的な対象として認識しているものが「公園」であることを表わすのではない。
「公園」は「行く」という動的な目的対象として認識し表現されているのではなく、動作(行為)の静的な目標である対象として認識され、それを空間的に位置付けるために「に」と表現されている。
動作目標としての静的な対象を時空間に位置付ける認識を直接に表現するのが格助詞「に」の真骨頂と言える。
:
おお、ちょっとはマシな文を書けるようになったではないか。
論理的思考というものが少しはわかってきたようだな。
辛抱強く付き合ってきた甲斐があるというものだ。
ただ、残念ながら詰めが甘いため、根本的な矛盾は一向に解消されておらん。
いいかね?
☆ 本を読む。
「を」は、話者が「読む」という動作(行為)の動的な対象として認識しているものが「本」であることを表わす。
のだろ?
そのとおりだ。
ただ、これに対比させて「に」を説明するなら次のように表現しないと意味がない。
★ 公園に行く。
「に」は、「行く」という動作(行為)の動的な対象として認識しているものが「公園」であることを表わすのではない。
「に」は、話者が「行く」という動作(行為)の静的な対象として認識しているものが「公園」であることを表わす。
これが正しく論理的な説明だ。
この点は同意できるよな?
このことをもって、普通の人間の感覚なら、
「に」は(「公園」という)場所を表わす。
と表現するのだよ。
簡単なことだろ?
これは、君が言うところの、
《「公園」は「行く」という動的な目的対象として認識し表現されているのではなく、動作(行為)の静的な目標である対象として認識され、それを空間的に位置付けるために「に」と表現されている。》
と何の矛盾も生じない。
だろ?
だからムキになって否定する必要は全くないのだ、ということを最低限理解する必要があるのだよ。
そもそも君は質問本文で、
《★ 公園に行く。
★ 大阪に行く。
という文を見ると、いかにも『「に」は場所を表わす』かのように思われる。》
と述べているではないか。
つまり、
『「に」は場所を表わす』
という表現自体を自ら認めているのだよ。
だから、「主体的表現が客体的表現を表わすことはできない」などという矛盾で批判を展開するのは論理破綻になることぐらい理解しておくと、これ以上恥をかかずに済むぞ?(笑)
★ 友人に会う。
などの場合は場所ではないなどとほざいておるが、それは君の理解力が不足しているからにすぎない。
論点をずらして逃げていては、いつまで経っても理解につながらん。
よろしいかな?
3.
さて、2では、
《「に」は、話者が「行く」という動作(行為)の静的な対象として認識しているものが「公園」であることを表わす。》
と述べた。
ここで重要なのは、
《「行く」という動作》が静的であるとはどのような意味か?
ということだ。
これは、「に」によって《「行く」という動作》が「公園(という場所)」に位置付けられていることを意味する。
「位置付ける」という動作自体が静的だから《「行く」という動作》が静的であることを表現できるわけだ。
つまり、「位置付ける」ものはあくまで「動作」なのだよ。
動作というものは本来動的なわけだが、それを静的に転換する役目を果たすのが「位置付ける」という動詞だ。
そのような静的動作によって位置付けられた先(場所)も静的なものになるのは確かだが、それはあくまで結果にすぎない。
結果というものは単純でわかりやすい。
だからこそ
「に」は(「公園」という)場所を表わす。
と表現するだけなのだ。
しかし、「に」の意義としては、あくまで、
「〇〇に▲▲」と言う場合、
「に」は、▲▲という動作・作用などを時間的、空間的に位置付ける認識(主観)を直接に表すことで、「に」によって位置付けられる【先】(=〇〇)を表わす。
のように解釈する必要がある。
大辞林で言えば、
【動作・作用が行われ,また存在する,時間的・空間的な位置や範囲を示すのが本来の用法】ということだし、
学国で言えば、
【動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】
ということだ。
あくまで
「【動作・作用の】位置」であり、
「【動作・作用の】おもむくところ」であるという点が肝要、ということだ。
「〇〇に▲▲」と言う場合、~~~
「に」の時間的、空間的な位置付けの【認識】の表現を媒介して、【〇〇】が、時間的、空間的に位置付けられるに決まっておるじゃろう。
と君は考えてしまうわけだが、それは短絡思考だということに気づき給え。
4.
>動作目標としての静的な対象を時空間に位置付ける認識を直接に表現するのが格助詞「に」の真骨頂と言える。
:
その認識こそが、それこそ、君の口癖である「文における意味」なのだよ。
「に」の本質的意義を言いたければ、あくまで、
動作を時空間に静的に位置付ける認識を直接に表現するのが格助詞「に」の真骨頂と言える。
とでも表現したまえ。
むろん、そのことによって「位置付けられた対象を表わす」わけだ。
そろそろ理解できたかな?
No.22
- 回答日時:
以前言葉にはすべて意味があります、とバカ?にされましたが。
この「意味」とは?、このサイトでも時々ある、人間生きている意味があるの・・・、なんて質門で使われる「意味」と同じ?、それとも辞書で簡単に調べられる内容のこと?。
先人が体系づけた文法の品詞で「助詞」なぜ助ける詞と命名したのかの説明が必要では。
助詞は単独では主を持たない、なぜなら助ける詞、と命名されたゆえんから・・・に対して、一方的にすべて意味があります、ではお話になりません、逃げているようでもあります。
愛も変わらず不毛の論議が続いていますね。
コメントをありがとうございます。
>>この「意味」とは?、
語の意義と文の意味の相違と関連を理解できていないようですが、ここで問題にしているのは規範としての語の意義です。語は概念としての意義を持っています。それゆえに、語として使用されます。規範に規定された形、意義を持たないものは単なる絵や形、物理的な音などでしかありいません。
それは辞書で説明されています。
>>「助詞」なぜ助ける詞と命名したのか
「花が」「ここに」「今日は」「学校へ」などのように名詞(体言)に続いて、その意味を明らかにすることを機能的に「助ける」と考えたからです。
>>助詞は単独では主を持たない、なぜなら助ける詞、と命名されたゆえんから
「と、おっしゃいますが。」「が、納得はできません。」「では、失礼します。」のように単独で使用される場合もあるように、助詞/助動詞は意義を表すことが認識され使用されています。意義を持たない語など存在せず、使いようがありません。
>>一方的にすべて意味があります、ではお話になりません、逃げているようでもあります。
このように語は意義を表すもので、その点が理解できていないに過ぎません。
そもそも先に述べたように、言語とは何かが理解できていないピント外れのコメントであることを逃げずに自覚しましょう。
以前から指摘の通り、愛も変わらず不毛のコメントが続いていますね。
■
No.21
- 回答日時:
#20です。
1.
>君は、そういった助動詞の「に」や、「にいさん(兄さん)」の「に」も含めて、まず「に」と認識しているのが理解出来んのか。前後の文脈からドット列の「に」を媒介的に格助詞か否かを判断しているのじゃ。
:
そりゃそうですがな。
《格助詞「に」は時間的、空間的な位置付けの【認識】を表しているのは自明なことである。》
と君は言っているが、これは、
《前後の文脈からドット列の「に」を媒介的に格助詞》と判断したものに関して言っているのではないのかね?
《助動詞の「に」や、「にいさん(兄さん)」の「に」も含めて》言っているわけではなかろう?
と申し上げておるのだよ。
2.
★ 【先生】に本を貰いました。
>>【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【先生】に決まっておるじゃろう。
決まってませんね。
先生はどこにいますか?
これは先生の空間的な場所を聞いているもので、「どこ」は不定の場所で先生ではありません。これが回答者の基本的な誤認です。
:
絶句・・・・・(笑)
《決まってませんね。》と言うが、《【先生】に決まっておるじゃろう。》は君の発言からの抜粋なのだが・・・。
(#10)で君は次のように明言しておるぞ???
「に」の時間的、空間的な位置付けの【認識】の表現を媒介して、【〇〇】が、時間的、空間的に位置付けられるに決まっておるじゃろう。
【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【〇〇】に決まっておるじゃろう。(#10)
3.
>>▲▲という動作・作用などを時間的、空間的に位置付ける
日本語ですか。
どうやって「動作・作用などを時間的、空間的に位置付ける」のですか。
:
君は日本語を語るセンスを持ち合わせておらんようですな。
であるのに、人の親切な解説を読むことすらもしない。
いいかね、#16で以下のように懇切丁寧に解説したはずだ。
腑に落ちないのなら【箇所を具体的に明記した上で】批判しろ、と何度言ったらわかるのかね???
君はアホの上に素直さにも欠けている。
よくよく自覚した上で大いに反省したまえ。
※※※※※
《「動作」や「状態」を位置付ける》という概念はたしかに想像力がないと納得しづらいかもしれない。
納得するためには、まさに君自身が使用している「位置付ける」という動詞の意味を正確に理解する必要がある。
たとえば、「を」の意義や語釈に関して、
「を」
●動作・作用の対象を位置付ける。「本―読む」「講演―終わる」
などという馬鹿なことを言う人はひとりもいないはずだ。
(いるとすれば、何もわからないまま、それこそ門前の小僧並みの理解しかしていないことになる)
あくまで、
「を」
●動作・作用の対象を表す。「本―読む」「講演―終わる」
だ。
何を言いたいかというと、
君は「対象を位置付ける」と「対象を表わす」という表現の意味する違いを理解しているかね?
ということだ。
ここで言う「対象」とは「その認識や意志などの作用が向けられるもの」のこと。
☆ 本を読む。
「を」は、「読む」という動作(意志の作用)が向けられるものが「本」であることを表わす。
という意味になる。
しかし、
★ 公園に行く。
これは、【「行く」という動作(意志の作用)が向けられるものが「公園」であることを表わしている】わけじゃない。
「公園」は「行く」という動作が向けられる対象ではなく、「行く」という動作が位置付けられる対象なのだ。
『動作は向けられるのではなく動作は位置付けられる』
これが格助詞「に」の真骨頂と言える。
☆ 本を読む。
のように表現する場合、
読むという動作によって本の中身は話者の頭の中に吸収されていく。
つまり、本は読むという動作によって動的な影響を受けることになる。
★ 公園に行く。
の場合はそうじゃない。
公園は動的影響を受けることはないのだよ。
なぜかというと、「行く」という動作は公園に位置付けられた段階で落着しているからだ。
「行く」は、あくまで動的概念として公園という空間的地点に、落着する形で位置付けられただけなのだ。
格助詞「に」は『動的概念として動作を位置付けることで落着させてしまうので、実際に動的影響を与えるには至らない』
とも言えるだろう。
この「落着させる」という本質を端的に表わすのが「着点」という用語なのだが、もう少し理解が進んでからでないと君に理解は難しいかもしれない。
ともかく、こうしたことを頭に置きながら学国の
【動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】
という解説を味わってみてくれ。
※※※※※
くだらんオーム返しするしか能が無いのかね?
自分で自分を憐れに感じることはないか?
1.
>>《助動詞の「に」や、「にいさん(兄さん)」の「に」も含めて》言っているわけではなかろう?
当然のことでございます。格助詞「に」を論じているのは標記の通りでございます。
2.
>>《決まってませんね。》と言うが
本当に、絶句します。
「どこ」は不定の場所で先生ではありません。これが回答者の基本的な誤認です。
【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【〇〇】位置に決まっておるじゃろう。【〇〇=先生】でないことは自明です。
【先生】はどこにいますか。
【先生】は【先生】には居ません。⇔◎
これが回答者の基本的な誤認です。
君は日本語を語るセンスを持ち合わせておらんな!
君はアホの上に素直さにも欠けている。
よくよく自覚した上で大いに反省したまえ。
3.
人の親切な解説を読むことすらもしないで与太を飛ばしまくるのには見るに堪えません!
※※※※※
《「動作」や「状態」を位置付ける》という概念はたしかに想像力がないと納得しづらいかもしれない。
これは想像力の問題ではなく単なる誤りです。
どうやったら、「動作」や「状態」を位置付ける》ことが出来るのか、そのプロセスを絵に書いて具体的に提示して下さい。
《「動作」や「状態」を位置付け》てどうするのですか?
何のために?
例えば、「走る」を《位置付ける》とどうなるのか?
まず、日本語と現実を正確に理解する必要があります。
何を言いたいかというと、
●君は「対象を位置付ける」と「対象を表わす」という表現の意味する違いを理解していません。
ということだ。
ここで言う「対象」とは話者が表現しようとする、認識された存在のことです。
☆ 本を読む。
「を」は、話者が「読む」という動作(行為)の動的な対象として認識しているものが「本」であることを表わす。
という意味になる。
しかし、
★ 公園に行く。
これは、「行く」という動作(行為)の動的な対象として認識しているものが「公園」であることを表わすのではない。
「公園」は「行く」という動的な目的対象として認識し表現されているのではなく、動作(行為)の静的な目標である対象として認識され、それを空間的に位置付けるために「に」と表現されている。
動作目標としての静的な対象を時空間に位置付ける認識を直接に表現するのが格助詞「に」の真骨頂と言える。
No.20
- 回答日時:
#19です。
1
>では、何なんですか?
:
だから「格助詞」としての「に」に関する懸案事項に決まってますがな?
何を言うとるんだね、君は???
「格助詞」というのは、
助詞の分類の一つ。主として体言につき、その体言と他の語との格関係を示す助詞。(広辞苑)
というものだ。
この格助詞としての「に」が《「ドット列」又は「インクの描線の集合」》なのか?
>訳のわからんことを言わないでください。
下記を虫眼鏡で見ればドットが見えます。
↓
に
〔助動〕
奈良時代に否定の意味で使われた。連用形の用法がある。…ないで。…ずに。否定の助動詞「ず」に「ぬ(連体形)」「ね(已然形)」の形があり、同じナ行であることからこの「に」と同源とする考えもある。平安時代には助詞「に」と混同された。万葉集2「嘆けどもせむすべ知ら―恋ふれどもあふよしをなみ」。万葉集3「稲日野も行きすぎかて―思へれば心恋しき加古の島見ゆ」
【広辞苑】
:
いやはや大笑い。
誤魔化すのに焦ったようで、自ら墓穴を掘りましたな?(笑)
君は、そういった助動詞の「に」や、「にいさん(兄さん)」の「に」も含めて、
《「に」というドット列が表す概念は《時間的、空間的な位置付けの【認識】》という主観を直接に表すのじゃ
と喚いておるのかね???
2
>>>▲▲は、文中の語として明記されているものではない、ということかな?
文の意味の中に位置付けられます。
:
つまり、
★ 【先生】に本を貰いました。
という文において、
「に」は、「先生」を《【先生】に本を貰いました。》という文の意味の中に位置付ける認識を表わす。
ということだね。
本気で言ってるとすれば酷いもんですな。
それは、
「に」は、「先生」を《【先生】に本を貰いました。》という文の中で使うために位置付ける。
と言っているようなものだ。
そんなことが「に」の意義なのか???
そんな論理で本当に納得しているのだとすれば、君は「に」の意義に関して語る資格はない、と言わざるを得ない。
3.
「に」は《時間的、空間的な位置付けの【認識】》という主観を直接に表すのだろ?
この場合、
何を位置付けるのか?
ということ以上に、
どこに位置付けるのか?
ということのほうが、「に」の意義としては遥かに重要なことなのだよ。
であるのに《文の意味の中に位置付ける》とは、あまりにも愚かすぎる解釈であることぐらい理解できんのか?
「に」の替わりにどんな格助詞を入れたとしても、《文の意味の中に位置付ける》点で何の違いも生じんだろうが?
つまり、
★ 【先生】に本を貰いました。
という文における「に」の役割について、何も述べていないも同然なのだよ。
わかるか?
4.
そもそも君は、
「〇〇に▲▲」と言う場合、~~
「に」の時間的、空間的な位置付けの【認識】の表現を媒介して、【〇〇】が、時間的、空間的に位置付けられるに決まっておるじゃろう。
【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【〇〇】に決まっておるじゃろう。(#10)
と述べたはずだ。
★ 【先生】に本を貰いました。
の場合、
「に」の時間的、空間的な位置付けの【認識】の表現を媒介して、【先生】が、時間的、空間的に位置付けられるに決まっておるじゃろう。
【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【先生】に決まっておるじゃろう。
と言ったことになる。
そのぐらいは理解できるよな?
自分の言ったことなのだから。
つまり君は、
《【先生】を【先生】に位置付ける》という矛盾を平気で述べていたわけだ。
その矛盾を指摘すると、
《まあ、これは先に返答させていただいたように質問自体が不適切なので、あまり気にしないでください。》(#15)
と逃げた上、今回は、
《【先生】を【 「先生に本を貰いました」という文の意味の中】に位置付ける》
というわけのわからん主張に変えてきたわけだ。
自身でも見苦しいと感じておるだろ??
たしかに矛盾だ・・・と感じることさえ一切無いのか?
いいかね?
縷々述べてきたように、
「位置付けられる」以上、その「位置付けられるもの」が位置付けられる【先】(=〇〇)も必ず存在しなければならない。
のだよ。
必須なのだから、《位置付けられる【先】》の答えとして《文の意味の中》などという頓珍漢な言い逃れで糊塗しようなどは、噴飯物と断ぜざるを得ない。
ここまでが理解できれば、あとはそう難しくないはずだ。
真理から目をそらしてまで自説に拘りたいなら別だが、わずかでも良心が残っているなら、以下を再確認したまえ。
「〇〇に▲▲」と言う場合、
「に」は、▲▲という動作・作用などを時間的、空間的に位置付ける認識(主観)を直接に表すことで、「に」によって位置付けられる【先】(=〇〇)を表わす。
というのが本質なのだよ。
そのことをかいつまんで、
《「に」は〇〇を表わす》
と表現するわけだ。
この表現が気に入らなければ、君の言うように、
《格助詞「に」は時間的、空間的な位置付けの【認識】を表している》
でも一向に構わない。
こちらとしても、それを否定したことは一度も無いはずだ。
だろ?
しかし、君は自分の示した命題の意味を正しく理解しなくてはいけない。
いいかな?
「▲▲という動作・作用などを 行なう 認識 」ではなく、
《▲▲という動作・作用などを 位置付ける 認識》である点が重要なのだ。
だからこそ、「に」の意義として「位置付ける」という表現が優れているわけだよ。
この点については#16でも詳説しているから、あえて繰り返さない。
じっくり読み返してみたまえ。
君としても矛盾をまき散らして恥を晒し続けるのを良しとしているわけではあるまい???
物事には潮時というものがある。
君が自身の矛盾に気づき、少なくとも、その矛盾を根拠にした他者批判という愚挙から手を引く潮時が今だと言えるのではないかな。
こうした矛盾を清算した上でなら、
客体的表現と主体的表現の語の相違と関連
なり、
対象→認識→表現という過程的な構造
なり、何でも拝聴するぞ?
今回指摘した矛盾に気づいたからといって、こうした内容自体まで否定されるわけではないはずだ。
なぜか知らぬが、君は必死に、それらを関連づけようとしているように見える。
矛盾だらけの論理でね。
その辺りよく考えてみたまえ。
疲れました!
>>《「に」というドット列が表す概念は《時間的、空間的な位置付けの【認識】》という主観を直接に表すのじゃ
と喚いておるのかね???
ほほう、老眼でドット列の点が見えなかったのかな?
それにしても君はどうして「に」と理解、判断しているのかな?
何か霊感でも?
いやはや大笑い。
誤魔化すのに焦ったようで、自ら墓穴を掘りましたな?(笑)
君は、そういった助動詞の「に」や、「にいさん(兄さん)」の「に」も含めて、まず「に」と認識しているのが理解出来んのか。前後の文脈からドット列の「に」を媒介的に格助詞か否かを判断しているのじゃ。
判るかな?
>>【どこ】は空間的に位置付けられた場合の【先生】に決まっておるじゃろう。
決まってませんね。
先生はどこにいますか?
これは先生の空間的な場所を聞いているもので、「どこ」は不定の場所で先生ではありません。これが回答者の基本的な誤認です。
ど‐こ【何処・何所】
〔代〕
(イドコの約)場所・所在・位置をはっきり定めずに表し、または問うのに使う語。将門記承徳点「何トコにか往ゆき何にか来りて、誰が家にか宿る」。「―の人」「―まで話したっけ」→どれ(何)
【広辞苑】
>>▲▲という動作・作用などを時間的、空間的に位置付ける
日本語ですか。
どうやって「動作・作用などを時間的、空間的に位置付ける」のですか。
具体的な絵でも描いて下さい。
これが、どうして、
時間的、空間的な位置付けの【認識】の表現
になるのかな?
★ 【先生】に本を貰いました。
の場合、「貰う」という動作ではなく【先生】を位置づけているのが理解できませんか?
君は自分の示した命題の意味を正しく理解しなくてはいけない。
いいかな?
だから話が収束しないのです。
君としても矛盾をまき散らして恥を晒し続けるのを良しとしているわけではあるまい???
物事には潮時というものがある。
君が自身の矛盾に気づき、少なくとも、その矛盾を根拠にした他者批判という愚挙から手を引く潮時が今だと言えるのではないかな。
こうした矛盾を清算した上でなら、お話しに応じないこともありませんが。■
No.19
- 回答日時:
#18です。
1.
>ここで問題にしているのは、辞書の見出しに記されている、「ドット列」又は「インクの描線の集合」である【に】が表す意義です。つまり、普遍的な形の絵である【に】が表す概念です。
これが理解できれば、「に」が「着点」や「到達点」や「場所」などを表すのでないことは説明するまでもないことが判りますね!
:
さすが正真正銘のカスらしい発言ですな。呆れてものも言えんわい。(笑)
嘘はいかんよ、嘘はね。
君は質問本文で、
《少し考えれば、格助詞「に」は時間的、空間的な位置付けの【認識】を表しているのは自明なことである。》
と明記しているではないか?
格助詞「に」が《「ドット列」又は「インクの描線の集合」》なのか?
詭弁も大概にしておいたらどうかね。
2.
それに、最も重要な質問に答えておらんね?
再掲するからぜひ答えてくれたまえ。
>★ 【先生】に本を貰いました。
では位置付けられるもの(=〇〇)は「に」の前に概念として語に示され、客体的表現である<名詞>「先生」として表されています。そして、詞である「〇〇=先生」が空間的に表現の中(=▲▲)に位置付けられます。
:
《表現の中(=▲▲)に位置付けられます》
というフレーズの意味を、もう少し詳しく説明してもらいたい。
▲▲は、文中の語として明記されているものではない、ということかな?
1.
>>格助詞「に」が《「ドット列」又は「インクの描線の集合」》なのか?
詭弁も大概にしておいたらどうかね。
では、何なんですか?
訳のわからんことを言わないでください。
下記を虫眼鏡で見ればドットが見えます。
↓
に
〔助動〕
奈良時代に否定の意味で使われた。連用形の用法がある。…ないで。…ずに。否定の助動詞「ず」に「ぬ(連体形)」「ね(已然形)」の形があり、同じナ行であることからこの「に」と同源とする考えもある。平安時代には助詞「に」と混同された。万葉集2「嘆けどもせむすべ知ら―恋ふれどもあふよしをなみ」。万葉集3「稲日野も行きすぎかて―思へれば心恋しき加古の島見ゆ」
【広辞苑】
です。
2.
>>▲▲は、文中の語として明記されているものではない、ということかな?
文の意味の中に位置付けられます。
こういう質問ができるようになったのは進歩で慶賀の至りです。
多忙の中、つきあった意味がありそうです。■
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>>正しくは、《【動作】を位置付ける機能(働き)を果たす(発揮する)》なのだ。
「動作」も名詞であり、客体です。
基本的に、客体的表現と主体的表現の語の相違と関連が全く理解できていませんよ!
「~を位置付ける」の対象「~」は客体で、この客体を認識し位置づける主観の認識を直接に表現する(表す)語が格助詞「に」ということです。
この媒介構造をきちんと理解しないと混乱、混迷するしかありません。■
従って、以降の回答の記述は意味を持たなくなります。
言語表現は、対象→認識→表現という過程的な構造を背後に控えた表現で、この過程的な構造を捉えることができないと対象と表現の次元を混同し混乱する結果になるということを御理解いただければ幸いです。■
☆ 本を読む。
のように表現する場合、
読むという動作の動的な目的対象として【本】が話者に認識されている。
つまり、本は読むという動作の動的な対象としての実体として認識されている。
★ 公園に行く。
の場合はそうじゃない。
公園は話者にとって動的な動作対象ではない。
なぜかというと、「行く」という動作の移行の結果としての空間的な場所である公園に位置付けられるからだ。
「行く」は、あくまで動的概念としての行動を表し、公園という空間的地点に位置付けられただである。
格助詞「に」は『静的対象として空間的な場所に位置付けるだけで、実際に動的な行為の対象ではない』
とも言えるだろう。
この「位置付ける」という本質を端的に表わすのが「に」という助詞なのだが、もう少し理解が進んでからでないと君に理解は難しいかもしれない。
ともかく、こうしたことを頭に置きながら『日本語はどういう言語か』(季節社版)の
【空間的・時間的な位置付けの意識が「に」で表現されます。これは固定したつながりとしての意識ですが、運動し変化したことを意識して位置づけする場合もあります。】
という解説を味わってみてくれ。
※※※※※
くだらんオーム返しするしか能が無いのかね?
自分で自分の能力を憐れに感じることはないのか?
■