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秀吉が死んだ後、高台院となった北の政所が、加藤清正、福島正則等、子飼いや親族の大名に、家康につくように指示しています。彼女は、賢い人ですから、信長の死後、天下が血統上の相続人ではなく、実力者が天下を継承した事実。家康の行った三河で起きた一向一揆の処理から、家康がただで秀頼に、天下を継がすことはないという見極めはついていたと思います。秀頼が生きている限りこれを担ぐ人間が出てくるのが、普通ですので、家康は決して生かしておかないことと考えられたと思います。また、彼女は、北条政子や呂后のように、夫の天下盗りに貢献した賢い妻にありがちな、妬悍であったような逸話が、ありません。(北条政子や呂后なら、淀君への嫉妬からたとえ秀吉の子供でも淀君もろとも殺していたと思います。)たとえ、淀君の子供でも秀吉の子供なら、せめて殺されないための何らかの方法が打てたと思います。それをしていないところをみると、淀君も他人(これは当たり前)秀頼も他人だったのではという疑問がわいてきます。
それでは、誰が秀頼の父親なんでしょうか?というのが質問です。
これは、別のところでカキコしたのですが、反応がないので、何方か推理をお願いします。

A 回答 (3件)

誰かと言われれば、DNA鑑定も無い時代ですから関係者以外判りません。


しかし歴史に縁れば秀吉の子供は石松丸、鶴松、秀頼の三人しかおらず、鶴松と秀頼は淀殿の子供で、秀頼は父親の秀吉に似ない大柄ですから、種が違う可能性は否定できません。
有力な説としては大野治長ですが、名古屋山三ではないかという噂もあります。
ただここで引っかかるのが最初の息子石松丸(秀勝)の存在で、この秀勝という名前は愛着があったのか、後に甥の小吉にも与えて養子にしてますが、側室南殿との息子ですから秀吉に全く子種が無かったともいえません。
因みに石松丸の母親、側室南殿とはもう一人女児が出来たとも言われてます。(死産)
もっとも南殿との子供も他人の種という可能性も捨てきれませんが。
他にも側室・京極竜子との間に子供が出来たとの説もあります。(死産or夭折)
真実はやぶの中かと。

この回答への補足

ご教示ありがとうございます。
僕、勉強不足で、石松丸(秀勝)と側室南殿について、詳しく知りません。何か参考になる本とかございましたらご教示戴ければ幸甚です。
ちなみに、秀勝は、海音寺潮五郎氏の「武将列伝」の秀吉ところで、信長の四男、お次丸を養子にし「羽柴秀勝」としたとあり、また、同氏の「実説武侠伝」の千姫の項で、この「羽柴秀勝」は、小牧長久手の戦いの翌年病死し、また、18Kinさんのおっしゃる、秀吉の姉日秀の子も「羽柴秀勝」で、朝鮮役で死亡、とあります。
また、記録に出てくる秀吉の最初の妾は、黒田官兵衛の姫路城の提供を受け、中国方面司令官になった時、妾をおいたと、これまた同氏の「日本名城伝」の姫路城にあります。側室と妾とは違いますが、ねねさん以外の女性を持った最初の女性なので、彼女が後、側室となり南殿になったのか、或いは、別の女性だが石松丸(秀勝)が、夭折したので、信長の四男、お次丸を養子にし「羽柴秀勝」とも考えられます。この頃、秀吉は信長の猜疑心を恐れていますので、養子にすることによって、秀吉の身代は、信長の子供のものになるとことを示し、「秀勝」の名前をつけることによって、これを強固に裏付ける政治配慮だったとも見られます。もし、この推測が当たっていれば、南殿との出会いは、姫路城の提供から、お次丸を養子にもらう前の期間のかなり短い期間になると思いますが、如何でしょうか?

補足日時:2005/02/28 02:35
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NHKの大河ドラマの見過ぎかもしれませんが、石田三成説というのはどうでしょう?たしか平成8年放映の『秀吉』(堺屋太一原作)で、松たか子扮する淀君が洋装して真田広之扮する三成を誘惑、三成が淀君を押し倒して…。

そこでそのシーンは終わってしまうのですが、どうもこのシーンが頭に残っていまして…。

その後秀頼生誕となるので、それを暗示したシーンだと思っていたのですが…。

家康に対して敵意剥き出しにして最後まで抵抗し、あげくは関ヶ原の戦いで西軍の組織化に奔走し、毛利輝元を担ぐものの実質的な大将的役割をするのは、ただの秀吉恩顧の武将とは思えないのですが…。

この回答への補足

僕も、maria sharapova さんのおっしゃるとおり、石田三成の可能性も考えましたが、この説の納得できないところは、関ヶ原の後の淀君の態度です。
家康が大阪城に報告に行った時に、淀君は、何ら三成を擁護していません。この事件が、秀頼にも彼女にも関係が無いという報告を受けるとほっとしています。むしろ死んだ三成を役立たずに思っていたような形跡があります。秀吉があっての張子の虎であっても、その権勢は並ぶべき物はなかったはずで、おなじ近江閥であれば、秀頼の将来を託せる人間であったはずです。しかも、そこに男女の関係があったとすれば、もっと憐憫の情があってしかるべきだと思います。それがないところに、淀君とは何もなかったことの証明になるのではないでしょうか。
ところで、大河ドラマは見ていませんが、松たか子のキャスティングは戴けませんね。淀君は、もっとヒステリックな人でないと、松たか子では、育ちの良さがですぎてしまいます。

補足日時:2005/02/28 03:52
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秀吉は無類の女好きで側室だけで十数人、遊びで手を出した数を入れれば100人以上と関係していて淀君だけが子供を宿せた


しかも晩年に・・・
秀頼は180cmを越える長身でなかなかの美形だったそうで小男猿面の秀吉とは結びつきにくいですね

って事で昔から大野治長説、名古屋山三説と色々あります
その中でも大野治長説が一番有力のようです
治長は淀君付の乳母の子で淀君の推薦で秀吉の側近なりました
かなりの美男子で、淀君や奥女中らに茶道の手ほどきをしていて淀君も彼を近くにおき、片時も離さなかったらしいです

そして、大坂夏の陣では、治長は秀頼の側近として殉死しています
秀頼と最後を共にしたのももしかする親子の情によるものだったのかもしれませんね

この回答への補足

大野治長が妥当かもしれませんね。
彼は、IceDollさんのおっしゃるように、淀君が、一番信頼している乳母の子というだけで、経験、技量も、威厳もない人間です。この事は、世の武将たちも知っており、それに対するコンプレックスから、ただ淀君からの信頼という権威を振り回して、大阪の陣で多くの献策を退けてしまいました。例えば、龍城と決まったとき、持ち場をなんとクジで決め、(アホさ加減が分かる)大手の黒門を渡辺内蔵介と取り合いしあわや殺し合いになりました。この場は、仲裁が入って収まりましたが、これを聞いたある武将(名前失念)が、「放っておけばよかった。その方が豊家のためになる云々」と言ったとか、冬の陣の後、家康に冬の陣の指揮ぶりを誉められ有頂天になり、ますます人の言うことを聞かなくなって豊家の無様な最後を演出してしまいました。
例を挙げればきりがありませんが、要するに治長は、その当時の武士のモラルを持っていません。普通なら、冬の陣の講和が敗れた後、負けるのは必至で、責任者である彼は、戦死するか、捕まえられて殺されるしかないのは分かっているはずです。これをずるずる生き残ったのは、千姫をてこに秀頼の助命を考えたと言い訳できるでしょうが、もともと秀頼を殺すことに意義がある戦いなので、残念ながらこれはいい訳に過ぎません。
ここで、彼の様な人物なら、(今の世間のでも一杯います。)我が身かわいさに、寝返るとか、城から逃げることをするはずです。それをしなかった、或いは出来なかったところに、IceDollさんのおっしゃるように、秀頼の父親であった傍証があるのかもしれませんね。
ところで、僕、勉強不足で、名古屋山三について知りません。ご教示戴ければ、幸甚です。

補足日時:2005/02/28 01:22
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