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▲ 或るブログ:死生観に関する随想その42
(トマス・ネーゲル「人生の無意味さ」(1971年)から)
https://ameblo.jp/naturalleaf2006/entry-12429810 …

▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ネーゲルは人生について書いている。〔(* )内は引用者=ブログ主のもの〕

1. 「われわれは、エネルギーと注意力なしには、また、自分があるいくつかの事柄に特に真剣に取り組んでいるということを示すような選択をすることなしには、人生を生きていくことができない。

  ☆ 質問者註: ふつうにまじめに 自然に真剣に 生きており 時に
   自分はこれに賭けるのだというまでの仕事などに取り組むことがある。
   と言う。

2. だが、一方では、われわれは常に、自分が現に生きている特定の生のかたちの外部に、ある視点(* 一歩後退した視点、「永遠の相の下」の視点)を持つことができ、そこから見れば真剣であることは根拠(* 正当な理由)のないことに見えてくる。

  ☆ いや この《外部なる或る視点》とは 《〈永遠の相の下〉の視点》
   と言うのであれば それが 《真剣に生きる姿を 根拠のとぼしいも
   の》に見せてしまうというのではなく そうでは決してなく むしろ
   そのささやかな真面目さを どこか知らないかたちで支えてくれるの
   かも知れない。のではないか?

3. われわれが持たざるをえないこの二つの視点が、われわれの中で衝突し、その結果、人生が無意味なものと(* 感じてしまうことに) なる。

  ☆ 移ろいゆかざるを得ない相対的な経験世界にあって まともたらん
   とする人間の姿は 前項2の註から行けば 決して《互いに衝突しあ
   う二つの視点》なのではなく 縁の下の力持ちのように支えてくれる
   と感じられる。

4. それ(* 人生)が無意味である(* と感じる)のは、われわれが、自分でも解決不可能であることがわかっている疑念を黙殺し、その疑念にもかかわらずほとんど減ずることのない真剣さをもって生き続けるからなのである。」

  ☆ 《人生における解けないナゾ》をめぐる疑念。これは 《疑念》な
   のか? 
    あるいは 疑念だとして なぜ《黙殺する》のか? 
   《解決不可能だと分かっている》のなら 人間が黙殺したところで
   どうなるというのか?

   しかもじつは 黙殺しようがしまいが 《疑念にもかかわらずほとん
   ど減ずることのない真剣さをもって生き続ける》と言う。見上げたこ
   とだと思われるけれど ならば その《ナゾ》は むしろひとにとっ
   て親和性のある何ものか・・・ではないのか?

(トマス・ネーゲル「人生の無意味さ」
(原題"The Absurd", Journal of Philosophy, pp. 716–27、1971年
(repr. in Mortal Questions))
永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』(原題Mortal Questions)
勁草書房1989年6月20日p22)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

5. 人生は 無意味だと言うことらしい。だが 無意味ならそれならそれで しかもふつうに真面目に生きると言う。それだけでじゅうぶんなのではないか? 

☆ いろんな点について・また全体として くわしい方 ご教授ください。

質問者からの補足コメント

  • №2つづき

    ★ そして、死ぬ時になって神とキリスト様に感謝して「いままで、ありがとうございました」と呟いてくたばっていく。
    ☆ 感謝の念についても うなづけますね。意味が有る無しどちらに規定しようと その相対世界は 言うなれば絶対性の側から ナゾのうちに規定されているはず。このナゾと親和性を感じるなら ありがたい思いで生きているでしょうから。

    ★ 人生に対して特別に意味を期待しておりませんし、本当に必要なのかなと疑問すら感じます
    ☆ といった感じなんだと わたしも思います。

    あと 具体的にいくらかの種類に分けて触れておられます。うなづけましたが これらの復唱は割愛させてもらいます。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/11/09 19:03

A 回答 (9件)

先生。

お早うございます。現在、奈良にいます。そもそも3~4次元において高次元は非知、シュニュター空虚ですね。人は常に歴史を振り替えるとき、絶対知、全体知ができる神のごときメタレベルに立てます。ですが所詮知においては3~4次元レベル。聖なるもの、高次元は知識になり得ない。絶対知に収まらない。それらは、へーゲル哲学の体系を飛び出る過剰さをもっています。在らぬ神、無い神ですね。
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この回答へのお礼

おはようございます。

奈良ですか。へええ。

(わたしは 三輪山と大神(おほみわ)神社が好きです)。


★ そもそも3~4次元において高次元は非知、シュニュター空虚ですね。
☆ そういう説もあり得ますが わたしの場合は――《絶対性》を大前提においていますから―― じつは 《高低 または 内外や異次元》といった相対性としての概念は使いません。 《経験世界を超える》と表現します。

《空》は その絶対性に見合う概念だとは思います。



★ 人は常に歴史を振り替えるとき、絶対知、全体知ができる神のごときメタレベルに立てます。
☆ げんみつには 《知》は 相対的な経験事象に属します。

《メタ》という表現は びみょうですね。使えないこともないとは思います。


★ ですが所詮知においては3~4次元レベル。
☆ ええ。わたしが先走ってしまいました。

★ 聖なるもの、高次元は知識になり得ない。
☆ 《聖と俗 高い低い》と言えるとしたら やはり相対性の世界だと言わなければならないかも知れません。

★ 絶対知に収まらない。
☆ あぁ。そう言えば 神を擬人化して 意志だとか知解をあてはめるなら その知解能力として《絶対知》と言えなくもないですかねぇ。つまり 全知全能のことですが。

〔これは げんみつに言えば 神=絶対性を 擬人化して 絶対者と言い表わし これを物語化して 創造主と表現する。その神の属性を考える(人間が忖度する)と 真理・善・美;慈愛・全知全能といった概念が付与されるといったふうに捉えています〕。


★ それらは、へーゲル哲学の体系を飛び出る過剰さをもっています。在らぬ神、無い神ですね。
☆ ふむ。おもしろそうですね。精緻化が 必要かも。

お礼日時:2021/11/13 05:07

人生無意味なんて静かな動物では済まない「過剰さ」を宿した存在が「ヒト」です。

他の動物にはない生存をはみ出す、過剰さ、例えば、文化文明(言語、宗教、戦争、経済、政治)を展開してます。意味を過剰に求めた意味の世界に我々は居るようです。思想家バタイユが、この観点から、呪われた部分=消費経済学、宗教の理論を書いていますね。
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この回答へのお礼

★ 人生無意味なんて静かな動物では済まない「過剰さ」を宿した存在が「ヒト」です。
☆ なるほど。自由の自由度は ズレがある――デメンティアでしたか――とも言われてましたね。《過剰さ》のことが。


★ 他の動物にはない生存をはみ出す、過剰さ、
☆ わたしは 《道草を喰う》って言っています。自由ないし善の中から――その《ゆとり》の中から―― ふと道端の草花に眺め入りトンボをどこまでも追いかけてゆく。

自由ないし善から外れることがある。

★ 例えば、文化文明(言語、宗教、戦争、経済、政治)を展開してます。
☆ ええ。


★ 意味を過剰に求めた意味の世界に我々は居るようです。
☆ 自由を満喫したいのでしょう。好奇心がつよく また時にはうたがいぶかいのでしょう。


★ 思想家バタイユが、この観点から、呪われた部分=消費経済学、宗教の理論を書いていますね。
☆ 読みこなした解説を――少ないながら――読んだことがありません。

《非知 non-savoir 》という主題ないし概念を言っているようですね。

わたしは 《非知:知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ incomprehensible incomprehensibility 》として《絶対性・神》のことを呼ぶかたちを採っています。

その非知なるナゾとわれとの――タテの関係――は 《非思考の庭(つまり 信仰という動態;生命体であること;霊性)》と規定して使っています。

お礼日時:2021/11/13 04:29

自殺さてるかたが、毎年、日本には3万人くらい、人生にたいして期待ができない、行き詰まる、抜き差ししならない。

人生は無意味でなく、彼らはネガティブな「意味」に満たされたのでしょうね。
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この回答へのお礼

そうですね。

その話題には ほとんど思考がおもむかないんです。だって はっきり言いますが ひとごろしなんですよ。


★ ネガティブな「意味」に満たされたのでしょうね。
☆ ・・・ですか。そうなんですかねぇ。――ううーん。おそらくそうなんでしょうけれど だからって・・・。

いや 何とも応答ができなくて。あぁ。

お礼日時:2021/11/12 19:54

親が結婚の話をしていましたが、


私はもう人生がメチャクチャですから結婚はできないでしょうし、
振られたのをずっと未練がのこってるの
なぜか兄の話が出ても、その兄はいないで牛、立ち直れず、
女性はヒドイデ牛、
今ではドーナツだのマンホールだの腹無意味な枚にtです。いただの
大阪だの京都だの関西人に煽られてるバアk理で、

大学生が人工衛星を打ち上げていたり、
紅白に出場したり、本を出版したり、ベストセラーになってるのに、
私は何もせず、どこへも行けず、
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この回答へのお礼

わたしも くすぶっていたときがありましたけど。

お礼日時:2021/11/10 21:56

★ 結局、ネーゲル氏はあらゆる手段を用いても「人生を真剣に普通に生き抜け」ということを主張し、


☆ そうですよね。そして ふつうのことですよね。

そうですね。誰が言ったか忘れましたが、あたりまえのことを疑い、じっくりと考え、あたりまえの結論を出す。それが重要なのだと言ったか読んだことがあります。

☆ ですよね。英語さんによると 思考の過程では キリスト教の神が入ってくる。オシへの神が あたまの中に侵入して来て うるさくてかなわない――と言ったかどうかは分かりませんが 生きることをネガティヴに受け取るようにみちびかれる。っていうことなんでしょう?

安易な考えかも知れませんが、知的水準の高い人は人生などを悲観的に捉えがちな傾向があるのかも知れません(ブラジュ先生は能天気らしいですが、だいたい小説家や哲学者って悲観的な顔しておりますね)。英語さんもすごい人ですからねえ。何を言っているのか、さっぱりわからないことをさらっと書いていらっしゃる。ネーゲル氏も頭が良すぎるのでしょうね。ショーペン・ハウエルなども頭が良すぎて(天才なので)自殺に対して容認的で、憂鬱そうな表情をしておりますよねえ・・・

しかし、一読して、理解できるブラジュ先生も英語先生も、やはり哲学の才能に恵まれた方だと思いました。次元が違います。第一、読書量が凄すぎます。

いや、はや、久しぶりに頭を使って疲れました・・・めめこが現れた時も疲れましたが・・・あいつ私が必死に格闘した思考の痕跡を質問を取り消して逃げましたからね・・・まったく・・・(>,<)/
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この回答へのお礼

★ そうですね。誰が言ったか忘れましたが、あたりまえのことを疑い、じっくりと考え、あたりまえの結論を出す。それが重要なのだと言ったか読んだことがあります。
☆ そうなんですが ただこの場合は 思考の過程があたまの中の思い込みのような感じがしたようだったので。

☆☆ ですよね。英語さんによると 思考の過程では キリスト教の神が入ってくる。オシへの神が あたまの中に侵入して来て うるさくてかなわない――と言ったかどうかは分かりませんが 生きることをネガティヴに受け取るようにみちびかれる。っていうことなんでしょう?

★ 安易な考えかも知れませんが、知的水準の高い人は人生などを悲観的に捉えがちな傾向があるのかも知れません(ブラジュ先生は能天気らしいですが、だいたい小説家や哲学者って悲観的な顔しておりますね)。
☆ たしかに《傾向があり》ますね。

★ 英語さんもすごい人ですからねえ。何を言っているのか、さっぱりわからないことをさらっと書いていらっしゃる。ネーゲル氏も頭が良すぎるのでしょうね。ショーペン・ハウエルなども頭が良すぎて(天才なので)自殺に対して容認的で、憂鬱そうな表情をしておりますよねえ・・・
☆ 《憂鬱そうな表情》 そういう感じがあるにはありましたね。


★ しかし、一読して、理解できるブラジュ先生も英語先生も、やはり哲学の才能に恵まれた方だと思いました。次元が違います。第一、読書量が凄すぎます。
☆ わたしは かなり片寄っていることを告白しておきます。


★ いや、はや、久しぶりに頭を使って疲れました・・・めめこが現れた時も疲れましたが・・・あいつ私が必死に格闘した思考の痕跡を質問を取り消して逃げましたからね・・・まったく・・・(>,<)/
☆ おつかれさんでした。


☆ アルトゥール・ショーペンハウエル ですよ。

お礼日時:2021/11/10 21:55

もう一度、じっくりとブログを読んで考えておりました。


非常に難しかったです。私には。

結局、ネーゲル氏はあらゆる手段を用いても「人生を真剣に普通に生き抜け」ということを主張し、人生上のいろんな問題(「人生を無意味」と感じてしまっても)とネーゲル氏なりに必死に格闘し(対処法すら考え、または自分を超越したもの(国家や科学や宗教や神などに依存してでも))、それなりの人生をなんとかして肯定しようという結論(普通に真剣に人生と向き合い生活し、人生を最後まで生き抜け)を出したのだと解釈いたしました。

>5. 人生は 無意味だと言うことらしい。だが 無意味ならそれならそれで しかもふつうに真面目に生きると言う。それだけでじゅうぶんなのではないか? 

そうです。結局、このブラジュ先生の5の解釈・主張と同じです。
いかに「人生を無意味」と感じても、生き抜くことを放棄せず、ふつうに真面目に生き抜く、それだけで十分立派だと、ネーゲル氏もブラジュ先生の5と同じ主張・結論のようです。

しかし、一読して理解できるブラジュ先生には脱帽しました。やはり普段から難解な哲学書を読んでいらっしゃる、その差だと思います。

私なんかは何回もブログを読み返し、自分なりに時間をかけて考えないと理解できませんでした・・・恐れ入ります。m(..)m
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この回答へのお礼

★ もう一度、じっくりとブログを読んで考えておりました。
非常に難しかったです。私には。
☆ 引用した箇所 これは まとまった一つの議論であり命題を成すと捉えて いちおうの用を足せると考えたのではありました。


★ 結局、ネーゲル氏はあらゆる手段を用いても「人生を真剣に普通に生き抜け」ということを主張し、
☆ そうですよね。そして ふつうのことですよね。


★ 人生上のいろんな問題(「人生を無意味」と感じてしまっても)とネーゲル氏なりに必死に格闘し(対処法すら考え、または自分を超越したもの(国家や科学や宗教や神などに依存してでも))、それなりの人生をなんとかして肯定しようという結論(普通に真剣に人生と向き合い生活し、人生を最後まで生き抜け)を出したのだと解釈いたしました。
☆ 結論は 前項と同じです。それをみちびく思考の過程 ここが 何だか ややこしい。


☆☆ >5. 人生は 無意味だと言うことらしい。だが 無意味ならそれならそれで しかもふつうに真面目に生きると言う。それだけでじゅうぶんなのではないか? 

★ そうです。
☆ ですよね。


★ 結局、このブラジュ先生の5の解釈・主張と同じです。
いかに「人生を無意味」と感じても、生き抜くことを放棄せず、ふつうに真面目に生き抜く、それだけで十分立派だと、ネーゲル氏もブラジュ先生の5と同じ主張・結論のようです。
☆ ですよね。英語さんによると 思考の過程では キリスト教の神が入ってくる。オシへの神が あたまの中に侵入して来て うるさくてかなわない――と言ったかどうかは分かりませんが 生きることをネガティヴに受け取るようにみちびかれる。っていうことなんでしょう?



★ しかし、一読して理解できるブラジュ先生には脱帽しました。やはり普段から難解な哲学書を読んでいらっしゃる、その差だと思います。
☆ いや。いえ。そういうことぢゃなくて いやそうだとしても ネーゲルが どうしてややこしく考えるのか そのことが引っ掛かったんです。聞いてみたかった。


★ 私なんかは何回もブログを読み返し、自分なりに時間をかけて考えないと理解できませんでした・・・恐れ入ります。m(..)m
☆ 例のフランス構造主義ほどではないですが むつかしく分かりにくく書いているように思いますね。日本語訳も こなれていないように感じます。

お礼日時:2021/11/10 18:08

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12663978.html

というコーナー開設中

茲の関連コーナー
となることを
祈ります。

読んでいてぴったりとも感じます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


そうですね。つまり あなたが補足コメントに挙げた《人生いろいろ》に尽きる・・・のでは?



そうですね。わたしの場合は――わたしも 独身ですけれど―― そうしようと思ってなったわけではないですね。

初恋のあとのあらたな恋路が――けっこう長い間にわたったにもかかわらず―― うまく行かなかったことが 尾を引いています。

回答というほどでもないんですよね。

・・・

お礼日時:2021/11/10 03:08

私もネーゲルの著作は一冊も読んだことがないので、この論文自体知りませんでしたし、まったく無知です。

なので、調べてみました。

ネーゲルは「人生の無意味さ」の対処法として4点挙げているようです。
1.東洋の宗教(たぶん仏教)のように真剣さ・真面目さを放棄する。つまり真面目に生きない。
2.自殺です。
3.嘲笑と反逆です。これはカミュが推奨したものらしいのですが、あまりにもロマン主義的過ぎるとネーゲルは述べており否定しております。
4.アイロニーです。ネーゲルはこれをよしとしているそうです(私にはなぜアイロニーがいいのかよくわかりません)。

>5. 人生は 無意味だと言うことらしい。だが 無意味ならそれならそれで しかもふつうに真面目に生きると言う。それだけでじゅうぶんなのではないか?

私もそう思います。たとえ、中島義道のように「人生は結局、最後は死んでしまうのだから何もかも無意味」とせず(いや、ヤケを起して他人に迷惑をかけないのなら無意味という規定でもよいと思います。しかし、ニヒリズムで生きていると人生を楽しめなくなるというデメリットが生じてきますよね?)、私個人的な感想・意見になりますが、別に今夜・明日、死ぬとわかっていても、普通に真面目に生活して最後(死)を迎えると思います。つまり、結局、人生が無意味であろうがなかろうが、普段通りの生活をします。そして、死ぬ時になって神とキリスト様に感謝して「いままで、ありがとうございました」と呟いてくたばっていく。

人生に対して特別に意味を期待しておりませんし、本当に必要なのかなと疑問すら感じます(まあ、私の場合はキリスト教と仏教がありますので)。しかし、中には無意味(明日、死んでしまう)などと知ってヤケクソになって、犯罪行為に走る不真面目な連中も現れると思いますので、やはり無意味と言い切ってはいけないのかなと。そういう連中には「人生の意味は主観的(個人的)なものでいいから自分で探して見つけろ」というしかないか、宗教に頼るか、何かしら「死んでしまうけれど、決して無意味じゃない!いままでよく頑張って生きてきたじゃないか、立派だよ!」と嘘をついて幻の意味(人生の有意義性)を与え、だまくらかしておくしかないのかなと。

一旦、ここらへんで回答しておきます。難しいですね。(^^;)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ネーゲルは「人生の無意味さ」の対処法として4点挙げているようです。
1.東洋の宗教(たぶん仏教)のように真剣さ・真面目さを放棄する。つまり真面目に生きない。
☆ 諦観を ものごとの放棄だとでも解釈したんでしょうか。

★ 2.自殺です。
3.嘲笑と反逆です。
☆ 自暴自棄ですか。ほとんど。


★ これはカミュが推奨したものらしいのですが、あまりにもロマン主義的過ぎるとネーゲルは述べており否定しております。
☆ 人生にネガティヴな場合にも ロマン主義に成り得る?

★ 4.アイロニーです。ネーゲルはこれをよしとしているそうです・・・
☆ アイロニーは 人生にネガティヴでもポジティヴでも 持ち得ると思えますが。

☆☆ >5. 人生は・・・無意味ならそれならそれで しかもふつうに真面目に生きると言う。それだけでじゅうぶんなのではないか?

★ 私もそう思います。
☆ この短い文章からは そう帰結されるように思います。


★ たとえ、中島義道のように「人生は結局、最後は死んでしまうのだから何もかも無意味」とせず(・・・
☆ どう規定するかだけでは まだ哲学・思想は決まらないとも思えます。


★ しかし、ニヒリズムで生きていると人生を楽しめなくなるというデメリットが生じてきますよね?)、
☆ じぶんのえらんだ思想・えらんだ道なら たのしいからそうするのでは? それとも 無意味と規定したとおりに――たのしみなど皆無にて――生きるだけなんでしょうか?


★ 私・・・別に今夜・明日、死ぬとわかっていても、普通に真面目に生活して最後(死)を迎えると思います。つまり、結局、人生が無意味であろうがなかろうが、普段通りの生活をします。
☆ あぁ。これは いいですね。それが 生きるということではないですか。何かによる規定に左右されないという点で。


つづく

お礼日時:2021/11/09 19:00

超越的なものよって、己の人生が、特定の設計図=コンセプトをもって、この世にあるわけではない。

そんな背後世界の力の影響下の意味のある人生など送ってはいない。キリスト教壇の教えへのアンチクリスト、サルトルのマロニエの根にみる、実存のカオスなどの上にたって、ネーゲルさんは、「人生が無意味」とするのでしょうか?それとも主観が意味、価値を外部世界に見いだしてるだけであって、外部の物理世界には意味価値はない。ゆえに物理世界の人生が無意味ということなのでしょうか。物理世界が情報構成体であるなら、それもまた違うかな、と考えています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 超越的なものよって、己の人生が、特定の設計図=コンセプトをもって、この世にあるわけではない。
☆ 《「永遠の相の下」の視点》というのは すでにそこに〔人間の把握しうる〕概念がふくまれている――というわけですか。

いやぁ そこまでは考えなかったですね。(この短い文章だけを持ち出しているというのが 間違いだった?)

▲ ある視点(* 一歩後退した視点
☆ ですからね。


★ そんな背後世界の力の影響下の意味のある人生など送ってはいない。
☆ つまり その《視点》は 人間が概念として把握しうる内容を持ち しかも人間の生活に影響をおよぼすチカラを持っていると。

そして そういう影響力を持つと概念において認識し得る《視点》は わたしには関係ないのだというわけですね。

うーむ。つまり そんな視点なら ただ人間がちょっとあたまの中で作り上げたチカラに過ぎないように思われます。

そういう人間の思考・想像の産物なら ただ自作自演しているだけの人生になることは 分かっている。というのに。


★ キリスト教壇の教えへのアンチクリスト、サルトルのマロニエの根にみる、実存のカオスなどの上にたって、ネーゲルさんは、「人生が無意味」とするのでしょうか?
☆ 人間の捏造した《永遠の相の視点》の影響下にある人生は無意味だと。――なんか おかしかないですか?


★ それとも主観が意味、価値を外部世界に見いだしてるだけであって、外部の物理世界には意味価値はない。
☆ いえ。ほんとうは 《外部》という規定が ひじょうにあいまいなんです。

外部だと内部と同様に まだ経験世界なんです。少なくとも その境界は 経験世界です。

ちなみに 神は 超自然かつ超経験です。


★ ゆえに物理世界の人生が無意味ということなのでしょうか。物理世界が情報構成体であるなら、それもまた違うかな、と考えています。
☆ しかし この有限で相対的な世界を無意味だと規定したということは 同じ人間が 〔相対的な〕有意味としても規定しうるのではないかと考えられて来ます。無意味の無は これも相対的な内容でしかないのですから。

どこかで有意味と隣り合わせに成っているかも知れず あるいは無意味の無の中から有意味がにじり出て来るかも知れない。うんぬんかんぬんです。

お礼日時:2021/11/09 18:39

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