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1. じんるいは それぞれおのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対性》という言葉を持つに到り これを使っています。

1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《神は無い・つまり 無い神》をも―― 持ちます。

2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。

2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。経験事象としての《有る・無い》をも超えています。

2-2. つまりあるいは ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。

 


3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対性=無限=永遠》は、経験世界に属します。

3-1. 経験存在たるわれわれ人間が用いているものです。

3-2. 《非経験の場》とも名づけますが 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。したがってシルシとして 内側からそれを超えた場を指し示すものです。

3-3. 次元の違いを無視したタトヘですが:月を指し示す指を 月そのものだと思って受け取るひとはいないのに 指が月だ 指が絶対性なる神だという錯覚が ここから起きがちです。このとき指は オシへでしょう。つまり 宗教です。
 

4. 錯覚とまでは言えない場合は 次です:
このいまの《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 霊として降りて来た》といった派生的な・第二次の想定を持つことがあります。これは 信教・良心の自由にかんする限り自由であり ゆるされています。

4-1. たとえば梵我一如なる類型。

・梵=ブラフマン:絶対性
・我=アートマン(霊我):相対存在にやどる絶対性(=つまりブッダター)

4-2. 蛇足として・まったくひとしい類型として 仏仏一如:

・仏=アミタ―バ・ブッダ
・仏=ブッダター(仏性):相対存在なるわれにやどる生命性



5. ここまで 絶対性(または 霊性・生命性)が 人間たるわれと カカハリを持つに到るところまでを捉えようとしたものです。


6. どころで 《絶対性》ってなに?


7. というよりも ひとは――現代人であっても―― 絶対性と相対性とをなおまだ混同しているのではないか? [3]の問題です。

7-1. 絶対性が何かを知らなくても それと相対性との区別は はっきりしているのですから 混同――とそれによる互いの誤解 ややもすればひとの意志を踏みにじる人権侵害――は ゆるされないと言っていいのではないか?


☆ 断言してさえいいのではないでしょうか? カルト問題の終息をねがって問うています。

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