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遣唐使船のルートは、当初、朝鮮半島沿岸沿いのルートでしたが、白村江の戦いを経て新羅が朝鮮半島を統一してから、東シナ海を渡るルートに変更しています。
ルートの変遷について写真添付します。引用は、地図で読むビジュアル日本史(2011年8月10日発行、日本文芸社)の26ページからです。Aが第7回までのルート、Cが第13回のルート、B・Dがその他のルートです。

当時の日本は外洋航海ができる船の造船技術や航海技術を有しておらず、無謀なことをしています。しかも、遣唐使はそれから何回も実行しているにもかかわらず、これらの技術について何も学習していないと感じます。また、明治になるまで技術獲得できていません。

質問は、
遣唐使船のルートは途中から東シナ海ルートになりましたが、朝鮮半島沿岸沿いルートを継続するために新羅と交渉することもなく、外洋航海技術を有していないのに、何故、無謀な東シナ海ルートを選択したのでしょうか?

「遣唐使船のルートは途中から東シナ海になり」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • 質問を締め切ります。
    残念ながら、このサイトには私のような視点で歴史を考える人はいないようです。

      補足日時:2022/04/07 00:01

A 回答 (1件)

白村江の戦い直後のルート変更は言うまでもないですが、その後新羅は唐と戦争をして治安が乱れています(670~676年)。

その後も新羅では疫病が流行ったり、長安の大明宮で開催された唐の朝賀で日本と新羅の使者と席次を争う事件(753年)が起きるなどで、日羅関係がしっくりいってなかったことが東シナ海ルートを取った原因と考えられます。また8世紀末には新羅国内が乱れたり、9世紀には新羅に遣唐船の難破の際の援助を求めたところ、新羅側執事省から尊大な態度の返事をよこされたり、新羅から日本の周辺海域に入寇を繰り返されるなどで、日本側がかなり憤慨したことが原因と考えられます。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。
朝鮮半島沿岸部経由のルートは断念せざるを得なかったことが良くわかりました。

Cルートはどういう経緯で選択されたのかわかりませんが、このルートが可能であれば朝鮮半島沿岸を経由せずに、陸地を長くとることを考えたルートを考えた人はいなかったのかな?と思いました。

お礼日時:2022/04/05 06:01

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