上座部仏教と大乗仏教
私は「できるだけブッダの直接の教えに近い仏教を学びたい」との思いからテーラワーダ仏教にたどり着いて、スマナサーラ長老の教えをよく聞いております。
かねがねから大乗仏教には疑問を抱いていて、「自分が悟れないものがなぜ大衆を救えるのか?」と不審に思っています。
しかしその一方、お釈迦様も衆生を教えようとなさいました。自分が悟っただけでは無意味だとお考えのようです。
こうしてみると、上座部仏教も大乗仏教も言わんとしているところは一緒で、なぜ上座部仏教と大乗仏教は袂を分つ必要があったのでしょうか?
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
大乗仏教は、おそらく既成権力化した教団に対する在家信者の反乱でしょうね。
大乗仏教で重視されるのは菩薩です。
菩薩は「上求菩提・下化衆生」とされており、自らの悟りをおいて先に衆生を救うものとされています。また菩薩は仏と異なり金品財宝で体を飾り立てています。おそらく在家信者の理想の姿を投影したものでしょう。
釈迦の直弟子であるシュラーバカ(声聞)よりも社会の悟りを理解している在家信者の方がより悟りに近い、このような考えがおそらく根底にあるのでしょう。そのことは大乗経典の維摩詰所説経(維摩経)に生き生きと描写されています。
出家僧たちは単に言葉の遊びをしているだけであり、在家信者の方がより悟りに近い、このような考えが大乗仏教の勃興をもたらしたのでしょうね。
ただ、大乗仏教は釈迦を超人的な存在にまつりあげ、釈迦が人にあわせて法を説くという基本的なことを忘れ、土着信仰と融合し、結果的には論理的だった仏教を堕落させたと思っています。
この図式は理解できるのですが、私としては「堕落していたのはどちらなのだろうか?」という点に疑問があります。
もう今となっては調べようがないもので、あまり「どちらが良い、悪い」という話にはしたくないのです。
No.4
- 回答日時:
> こうしてみると、上座部仏教も大乗仏教も言わんとしているところは一緒で
「お釈迦様も衆生を教えようとなさいました。自分が悟っただけでは無意味だとお考え」だとしても、"大乗仏教"と一般に呼ばれるものが、「自分も悟ろう!」という志向性をもっているのではなく、「自分も救ってもらえる」という期待感をベースにしてるのであれば、《言わんとしているところは一緒》とは見なせないでしょう。
> なぜ上座部仏教と大乗仏教は袂を分つ必要があったのでしょうか?
必要があって分離したのではないでしょう。 志向が違ったので、どんどん乖離し、一致する面が少なくなってしまっただけでしょう。
A:悟りを自ら求め、自分が悟ったと思っていることを他にも説く
B:救済されることを願い、祈る、救済者を崇める
「バウッダ・佛教・ 中村元・三枝充悪 小学館ライブラリー」には、次のような説明が記載されています。
~~~~~~ 部派仏教の人々 ~~~ 部分抜粋 ~~~~~~
部派仏教の出家者たちが、堅固で安全な僧院を本拠に、ひたすら「さとり」を求めつつ修行し、しかも自己の完成に専念した
~~~~~~ 大乗の人々 ~~~ 部分抜粋 ~~~~~~
在家信者を中軸とする新たなる仏教運動は、その自己のほかに、自己とまったく対等の他者を見いだして、互いに連帯し合う。もしくは、自己をも包み込んで、かっての釈尊のごとき、崇高で、傑出した徳と力とを有する、一種の絶対他者を立てて、自己の悲惨と無力とから、そのような自己を救済することを希求し、それにすがり、信仰する
この後者には、たとえば「廻向」の語の格別の用語例が随伴して、従来のいわゆる「自業自得」とは異なり、おそらく後述する「空」の思想とも表裏しつつ、自己の善業による結果すなわち善報をそのまま他者にふりむけるという、一種の質的な転換がなされる。これらの種々なる「他者」は、いわばないまぜとなりつつ、民衆の要望に応じた救済仏また菩薩の登場
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> お釈迦様も …… 自分が悟っただけでは無意味だとお考え
A:悟りを自ら求め、自分が悟ったと思っていることを他にも説く
七回目の七日の瞑想のとき、天上界から梵天(ブラフマー神)がおりてきて、「さとった理法を人びとに説いてください」とたのむ。しかしブッダは最初のうち、「わたしのさとった甚深微妙のこの真理は、むさぼりといかりのとりこになっている世の人びとには、理解できないだろう」と、教えを説くことを躊躇していた。それにたいして梵天は、「立て、勇気ある者よ。世間に遊行し、ダルマ(法)を説きたまえ。衆生かならずよくさとるであろう」ブッダに合掌し、二度、三度とかさねて法を説くように勧めた。ブッダはついに梵天の熱心な勧請によって法を説く決心をする。
身体中から光を発しているブッダは、瞑想の座から立ちあがり、歩きだした。
「わたしがさとったこの甚深微妙の真理を、まずだれに説いたらいいのだろうか、だれがこの法を理解することができるだろうか」とブッダは考えた。
ブッダはその日のうちに五人に自らがさとった法を説いて聞かせた。
鹿野苑で発せられたブッダの布教の第一声、仏教のはじまりは、法(ダルマ)の輪(チャクラ)がはじめて転じられた、ということから〈初転法輪〉とよばれている。
ブッダと五人の比丘たちは交代で托鉢に出かけ、喜捨を受けた食物をみんなで食べ、またブッダの教えを聞く、という毎日がはじまった。
五人の弟子たちも、やがてブッダとおなじ境地に達することができた。
人間存在のすべての要素"五蘊"は"苦"であって、苦についての四種の真理"四諦"と、それを克服、実現するための道は、快楽主義と苦行主義の両極端を捨てた"中道"であり"八正道"である、とブッダは五人の比丘たちに説いたと仏典はしるしている。
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大乗の特徴
《信者》という立場の出現 現実を越えたスーパー仏の信仰
大乗仏教の成立については、在家信者と出家者からなる、ストゥーパ信仰者の集団が大きな役割を果たしたといわれている。
仏塔などを建設し、土地や財物を寄進して、その管理運営にあたるのは在家信者たちで、出家者の戒律に制約されることなく、自由な発想で活躍することができた。
仏教の拡大にともなって、多くの信者にうったえる、ブッダや仏弟子の前世を主題にする本生譚や、ブッダの伝記を描く仏伝など、文学活動もさかんになり、大乗経典のモティーフとなる思想が形成されていった。
ブッダの本生譚から発展して、〈過去七仏〉が説かれ、未来仏〈マイトレーャー〉(弥勒仏)が説かれるようになる。三世に拡大されたブッダは空間的にも拡大され、多方仏となる。こうして釈迦仏を超えて出現したあらたな諸仏は、大乗仏教の成立をみちびく重要な要素のひとつだった。
No.2
- 回答日時:
人間性の理解が甘いと善意のつもりがわがままの押し付けになる。
それが横行すると限界を越えさせあう世の中になる。
そして争いが蔓延する地滑りが起こる。
そういうことを避けるために
人間性を理解するための修行の時期が必要になる。
現時点から振り返ると
上座部仏教と大乗仏教は本来そういう位置づけだったに過ぎなかった。
しかし未熟な時代ほど全方向からの争い念頭の圧力が強く
致死量という限界のある人間同士のたすきリレーとしては
対立の図式に飲み込まれた形でしか
伝統をつないでこれなかったということだと思います。
それは、もちろん歴史自体が時代の臨界点の積み重ねでしかありえない
という限界の一つです。
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