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何故、徳川政権は朱子学を官学に採用したのでしょうか?

徳川家に忠誠を誓わせるため、朱子学を官学にしたのでしょうが。
後講釈っぽいのですが、
すでに初期の水戸藩のように、忠誠の対象が、徳川家から天皇家へ移動する(尊王)という恐れは、予期できなかったのでしょうか?

A 回答 (3件)

昌平黌を官費で運営したので官学なのでしょうが、そこで学んだことが箔になるとか、役職任用の資格になるというものではなくて、多分に趣味的なもの、一種のディレッタンティズムなのでしょう。


学ぶ内容も、知の競い合いのようなのには役にたっても、現実の行政にも、司法にも、経済政策に役立ちません。 (赤穂浪士事件の処理にあたって、国法遵守か私的忠義かが問題にはなったようです)
科挙の制度があるわけでも、僧侶の位階にも関係ないとなれば、昌平黌も朱子学も、知的興味がこの方面に強い人にしか関係ないです。 葬儀、法要も、そして行政的支配も仏教宗門寺門を重視しているのであって、儒学も、朱子学も陽明学も、一部の好き者が集まるものでしかないです。

江戸時代を通じて、朱子学はついに国民的レベルでの体制教学にはならなかった。人は死ねば菩提寺に葬られる。 儒学や朱子学を好むものは多くはない。 ただし、こちらに魅入られた人々の間では朱熹の『四書集註』が広
く読まれ、人生訓、倫理、道徳、訓戒となって、一般の仏教的、寺門の教えとぶつかりあっても、朱子学的見解が、世の中に広まることはなかった。 ただし、一部、光圀やある藩で、南朝の正統性を言い出すとか、将軍はただの役職の一つに過ぎないという見解に魅力を感じた人物が出現したきっかけにはなったのでしょう。

朱子学を、政治の基礎におこうというような意図も気持も、基本的にはもっていません。 ただ、仏僧、禅僧というだけでなく、儒者も近くに置きたかった将軍もいたとで、官学にして存続基盤を造っただけでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<多分に趣味的なもの、一種のディレッタンティズム>ですね。
<儒者も近くに置きたかった将軍もいたとで、官学にして存続基盤を造っただけ>なのですね。

お礼日時:2023/03/16 09:16

徳川政権としては、戦国時代に戻っては


困る訳です。

それで、思想面から天下を治めようと
朱子学を官学に採用したのです。

朱子学は身分秩序を重んじる思想であり、
身分の上下関係や家族、社会、国家の秩序を
維持するための理念が強いので
都合が良かったのです。




すでに初期の水戸藩のように、忠誠の対象が、徳川家から
天皇家へ移動する(尊王)という恐れは、
予期できなかったのでしょうか?
 ↑
朱子学からいえば、徳川よりも天皇に
傾く可能性は否定出来ません。

だから、徳川の征夷大将軍という地位は、天皇から任命
される、という形式を採ったのだと
思われます。

西洋が、王の権威は神から授かったとしている
王権神授説と似ています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
徳川として<征夷大将軍という地位は、>けして天皇の権威を否定していることではなく、朱子学を尊重しているのだ、と表明しているのですね。

お礼日時:2023/03/15 12:47

江戸初期に完全に幕府に抑えられていた朝廷が復活し始めたのは、光格天皇の時代からになる。


光格天皇は父親の称号を巡って老中松平定信と「尊号一件」と呼ばれる事件で激しくやり合った人物だ。幕府に毅然とした態度で要求したり、やり合う天皇が久々に登場したわけだ。

松平定信は何とか光格天皇の要求を抑えることに成功したが、妥協せざるを得なくなった部分もあり、この事件が幕閣と諸大名の朝廷を観る眼を変えてしまった。そして、それが黒船来航以降の幕末の尊王思想の急速な盛り上がりに繋がっていく。

松平定信は、何とも時代錯誤というか、間が悪いというか、時代や世界情勢を読めない人物だったが、朱子学を嫌っていた将軍吉宗のために一時は沈滞していた朱子学を大いに盛り上げようとした人物でもある。
彼は、自分が盛り上げた朱子学が、まさか幕府を倒す原動力のひとつになるとは、夢にも思っていなかっただろう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
定信は、<自分が盛り上げた朱子学が、まさか幕府を倒す原動力>になるとは‥‥、ですね。良かれと思ってしたことが・・・。
人生は、時の流れは、読みずらいものですね。

お礼日時:2023/03/15 12:40

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