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1. 《わたし》は 生まれながらにおのが身と心に《仏性》もしくは《神の霊性》をやどす。空性ないし神性が 霊として生命性としてこの世界にあまねく満ちているという想定のもとに。


2. そのわたしは 物心がついてから 初めてのウソをつきイツハリをおこなったとき ふとわれに還る。ウソをウソだと知ることは たましい(感性)がよこしまを嫌い あたま(理性)がそのマチガヒをみづからに認めることを意味する。われに立ち還ったわれは 感性と理性とを含み包む広い知性なる境地としてのわれである。


3. われに立ち還るというのは 自己還帰とか自己到来とも呼ばれるが 立ち還ったわれは 数として《一》なる存在だとすれば: 

 (α) わたしは わたしである。 1=1


4. そして立ち還るときの姿としては:

 (β) わたしは 《わたしがわたしである》わたしに立ち還る。1x1=1


5. 人はみづからのウソからわれに還り 他人(ひと)のイツハリにあざむかれたと知ってやはりわれに還る。このとき (β)のわれは言わば自己の二乗を繰り返し《わたし》を生きる:

 (γ) 《わたしがわたしである》わたしが わたしする。 1^n=1


6. ところで 上の(α)の姿は 人間の意志や思考を超えている。存在そのものは 思考した結果得るというものではなく 同じく意志によって得たものでもない。つまり人間なる存在にとって 所与の条件である。

7. この条件を受け容れることが 自己の内なる仏性ないし生命性にめざめることである。そのときわたしは 仏性につうじている空性ないし神性に向かうなら それについて きよらかなおそれをいだく。ここで《非思考の庭》が成る。


8.  非思考の庭 これが 《信仰》のことである。もし
     
 ▲ 欲望(意志による信仰)

というのであれば それは (β)および(γ)における意志行為が その基本であり中軸を成す。花が咲き実が成るという場合も 中核は (α)の《わたしはわたしである》でありその動態が実存の過程ある。


9. あとは この世の中のシガラミであり よく言えば飾りや誉れであったり よくもわるくも自己の心の充足である。これは 空であるが 仮りのものごととして確かに現象している。



10. 《さとる》とは――つまりすでに生まれつきブッダである者がそのブッダであることを成就するというのは―― シガラミやら栄光の関係やらそれらの縁起(因果関係)から 自由となることである。栄誉からも自由でなくては 空性とは言えない。
 
11. 生身のまま完全に自由となることは出来なくとも その視点としては 自由を実現することである。(α)・(β)・(γ)なる存在にとっての自由である。


12. 言いかえると この《自由の視点 ないしそれとしての人間の境地》は 人が社会的動物として関係性において生きているからには つねに他者とともにあって 《〈わたし〉たち》が互いにコミュニケーション過程をとおして 実現しようとするものである。
 

13. ここに(α)の《わたし》にそなわる仏性は 《慈悲――ともだちであること――》もしくは《愛――意志をめぐるユヅリ愛――》という言葉で説明される。
 
・・・


14. 以上について問います。なぜ神観を持ち出さなければ 理論立てることができないか? という問題です。

A 回答 (3件)

ブッダの教えにこだわる必要は全く無いと思いますよ。


自分の見聞きしたり、出会った人たちから学ぶのは当然のことです。
往時、ブッダを自称する御釈迦さんに実際に出会った人たちは、御釈迦さんを尊敬したり侮蔑したり様々したでしょう。その内で、御釈迦さんを尊敬した人たちが、御釈迦さんとした話を没後にまとめて、記した。これが原型であります。
その時にはまだ仏教は発生して無かったとおもう。
次第にその記述されたものが評判を呼び、また読まれて、議論され、仏教になっていったのだと思います。


・・・☆ そこにおける《わたし》論なんですが 考えるに なぜ・どうして神論を基礎としなくては 哲学できないのか? これが 引っ掛かっています。

存在の起源を探ったところに、神とか無とかが登場するわけですから、私とは何か、この存在は一体どういうわけか?と問うていくと、神や無と深く関わり、またそこに分け入っていくことになるのではないですか?
一神論的神や無は個性を持ちません。「わたし」と言う個性、固有性が、個性を持たない絶対性に遭遇する時に、確信が発生する。
孤独な世界(思索世界)において、「わたし」は存在すると言う事に通じやすくなるのだと思います。そこでは、実在の他者存在は排除されがちでもあるからです。


私と言う存在へのアプローチでは他に、他者、とりわけ他の人との関係性を論じるアプローチがあると思います。

ここでは神や無は出てこず、形而上学の話はしないで済みながらも、「わたし」と言う固有のものについて知って行くことが出来ると思います。もちろん、それは生まれて死に行く私ではあるけれど、そこにこそ大事なものがある気がします。
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この回答へのお礼

★ ブッダの教えにこだわる必要は全く無いと思いますよ。
☆ そうですか。それなら いいです。だいじょうぶです。


★ 自分の見聞きしたり、出会った人たちから学ぶのは当然のことです。
・・・
☆ ゴータマ・マジックを用いた詐欺師であるというのが わたしの結論です。


・・・☆ そこにおける《わたし》論なんですが 考えるに なぜ・どうして神論を基礎としなくては 哲学できないのか? これが 引っ掛かっています。

★ 存在の起源を探ったところに、神とか無とかが登場するわけですから、私とは何か、この存在は一体どういうわけか?と問うていくと、神や無と深く関わり、またそこに分け入っていくことになるのではないですか?
☆ そのとおりだと思います。でも 経験科学としてつらぬけないものか と。


★ 一神論的神や無は個性を持ちません。「わたし」と言う個性、固有性が、個性を持たない絶対性に遭遇する時に、確信が発生する。
☆ なるほど。《わたし》論に神論は とうぜん基礎となる・・・ですか。


★ 孤独な世界(思索世界)において、「わたし」は存在すると言う事に通じやすくなるのだと思います。そこでは、実在の他者存在は排除されがちでもあるからです。
☆ ふむ。先ほどの《個性は おのおの絶対性に遭遇するとき 〔確信としてでしょうか〕生じる》といった見方に感服しました。相対性なる世界のみだと のっぺらぼうになるかもと思って。


★ 私と言う存在へのアプローチでは他に、他者、とりわけ他の人との関係性を論じるアプローチがあると思います。
☆ ふむ。これは 《他者》論が 《神論》の役目を果たせるか? ではないかと。


★ ここでは神や無は出てこず、形而上学の話はしないで済みながらも、「わたし」と言う固有のものについて知って行くことが出来ると思います。もちろん、それは生まれて死に行く私ではあるけれど、そこにこそ大事なものがある気がします。
☆ びみょうですね。前項とのかかわりにおいて。

まぁ みなが顔見知りのいわゆる村社会であっても 異人は出て来ますし 多様性がないわけではない。

そう考えると 《人間である他者》にふれるだけでも おのおの個性が現われる・・・かも。


あっ。けっきょく 《他者》論には 潜在的にその根っ子に絶対性につうじる神の民話や伝承が ふくまれる・・・のかもですね。

お礼日時:2023/04/17 23:31

私の回答の本旨は、



仏教にも形而上学に通じる教えや説は沢山ありますが、それらは仏教にとっては補助部材であって、仏教の骨子は、「修行して人生を完成させる」事ではないだろうか、と言う事です。(もちろんこれは竪超説を支持するものではありません。)

一方で、「わたし」や神性は、形而上学のど真ん中の題材だと思います。
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この回答へのお礼

そうですね。


★ 仏教の骨子は、「修行して人生を完成させる」事ではないだろうか
☆ もしそうならば いちいちわざわざ《オシへ》はなくてもいいですね。

いえ。オシへや教訓や人生の知恵等々は一般にあるわけなんですが わざわざブッダのオシへとする必要はないはずです。

あらゆる人生観を集成すればいいわけですから。

なぜ ブッダのオシへなのか? だと思います。




★ 一方で、「わたし」や神性は、形而上学のど真ん中の題材だと思います。
☆ 《神 ‐ われ》関係についての梵我一如なる類型として 捉え得ます。

無梵無我一如とすれば 無神論もおなじ類型――つまり 信仰――だと見られますし ほかに仏仏一如や霊霊一如としても 同じ信仰類型として理論立て得ます。



☆ そこにおける《わたし》論なんですが 考えるに なぜ・どうして神論を基礎としなくては 哲学できないのか? これが 引っ掛かっています。

お礼日時:2023/04/17 22:37

表題と1.についてだけお答えしたいと思います。

また、一度回答全文を読まれてから、お返事を書かれることをお勧めいたします。文章全体を一つの回答としてお示ししているので。

以下回答。

仏性と言うのは、人間性の究極の相、人間性が開花したものなのだと思います。人間は仏の種です。なので、人間であるなら仏性は誰にでもある。人間性とは何かを考究することによって、仏性とは?の答えにも近づけると思います。

仏性には、絶対性、有限、相対、など存在論に親和性がある単語は適用し難いです。
どちらかと言うと、こころとか、情けとか、想いとか、世の中とか、人間とか、善悪とか、そういう単語と親和性が高い。


一方、神性と言うのは、純化や存在、一者性、絶対(対がない)、等に係る言葉と私は考えています。そして、「わたし」というものも、神性に深く関わるものと思います。

「わたし」たる一人称は存在論と究極的な点において関わりがあります。
「わたし」というものは一者性を持っていて、純化の対象であり、存在者でもあり、神との共通点が多いと思います。

この「わたし」が死によって滅ぶのに、神に死による滅びはないという事実観点から、「わたし」の限界を規定する事も出来ますが、「わたし」にある神性が、死によって滅ぶかというと、それは無いと言わざるを得ない。神性、一者性、存在、純化されたもの、あるいは、個としては無いもの、が、死によって滅ぶとは考え難いと思います。
そして、「わたし」が滅んでも、その中の神性は滅びないなら、その神性を霊性と呼べると思います。


仏教の始祖が死んでしばらくしてから、覚りと存在論の混同が始まり、その勘違い、未だ判じ得ない妄見が延々続いて、現代にいたると言うのが、仏教界隈の実体だと思います。

いや、もしかしたら、始祖の生きている往時から、世の中全体に渡って既にこの混同はあって、それが世に広まった仏教世界の未分の本質となっているのかもしれません。経典のどこからどこまでが始祖の発言を具に反映しているかどうかと言うことは、私は根拠を示せませんが、そこら辺の研究が進めば、つまり仏教とは何かが分かれば、その本質も見えてくるものと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 仏教の始祖が死んでしばらくしてから、覚りと存在論の混同が始まり
☆ うんぬんについてですが そもそも ゴータマ氏は みづからの得た《さとり》とは何かを明らかにしなかったのです。

順を追って見て行きますが まづゴータマ氏の出現の目的は 《さとりを人びとに得させること》だと言います。 

▲ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~
http://fallibilism.web.fc2.com/130.html

 ――シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべ
   きこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあ
   って、
   ・・・
   すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させると
   いう目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべ
   き如来は世間にあらわれるのである。

(松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』2001)
~~~

☆ したがって 当然のごとくそのさとりについて説明してくださいと弟子のシャーリプトラは懇願しますが ゴータマ氏はこれを否定した。

▲ (法華経・方便品) ~~~
世尊は再び長老シャーリプトラに言った。

  ――シャーリプトラよ。その訳を説明して 何になろう。
    その訳を説明すれば 神々も世間の人々も恐れおのの
    くであろう。
    そして 僧たちはうぬぼれの心をおこして 大きな穴
    に落ちるであろう。

    ・・・

    ここで教えを説いて何になろう。
    この智慧は微妙で 追究しがたい。
    多くの愚か者が うぬぼれの心を起こし
    教えが説かれても理解せず それを捨てよう。

~~~

☆ 次のように ぎゃくの説明もあるのですが。

▲ (方便品) ~~~
  ――過去に入滅した仏であれ あるいは現にこの世にいる
    仏であれ これらの仏から そのとき 教えの一部分
    でも聴く人があれば それらの人々はすべて 《さと
    り》に到達するであろう。(97)
    ・・・
    かれらの教えを聴いて仏とならない者は 一人として
    ない。
    ・・・
~~~

☆ trigger_note さんのご趣旨は これらの如是我聞について 真偽を検証しなくてはならないってことですかね。

お礼日時:2023/04/17 20:44

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