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哲学というのは、あらゆる学問のもとと言ったりします。

日々、いろいろな疑問が出たときに、専門のカテゴリーで質問するのもいいですが、哲学のカテゴリーであれば、手っ取り早いですか。なぜなら、全ての学問のもとと言われるぐらいだから、わかるはずです。

もしも、そうでないとしたら、哲学というのは、専門を廃した何かです。

どんな疑問に答えてもらえるのですか。

哲学者と言われる歴史上の人の考えとか、歴史を聞けばいいのですか。

それには答えられますか。

それとも、哲学というのは形而上の何かを考えることですか。


そうでないとしたら、哲学というのは、何ですか。

他の学問ではなく、哲学ならではのこととは、何ですか。

A 回答 (5件)

哲学とは


「フィロ・ソフィー」知恵を愛する事です
よりよく生きるための知恵です

人生観 生き方 宗教で、役立てる学問です
深い哲学とは
大海原での羅針盤、登山での道標に当たります、車のナビにも例えられます、
哲学がない 誤った哲学だと思考が 
強い弱い 好き嫌い 損徳 だけでの判断となります
正しい哲学があると
理性 道徳 妥当性 論理的 義 が行動の基本となります
哲学とは 人類共通の願いである 
「幸福」に寄与できなくてはなりません
それができないない哲学などただのコミです 
永遠にゴミの議論をするかアホになるかゴミに気がつくかです
理論の整頓方式。そんなの議論しているやつ○○に見える
哲学は
全ての学問の、全ての治世産業の基礎でなければならないのです。
何故か
歴史が教えるように、哲学により滅び、哲学により反映するからです
経済の背後に政治がある 政治の背後に社会がある 社会の背後に道徳がある 道徳の背後にあるのが哲学です。
20世紀を席巻した狂信的イデオロギーを生み出す格好の土壌は
ファシズムやボリシェビズムと言う哲学なのです
例えば
哲学のない文学や芸術はゴミです、最近ゴミに感動するゴミがおおいですね。
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不可思議な現象に出会います。


すると、人間は、それに対する答えを
欲します。

かつては、それは神話で説明
していました。
神様だよ。

しかし、時代が進むとそれでは飽き足らず
もっともらしい理屈で
説明するようになりました。

これが哲学です。

この哲学は、やがてキリスト教と結びつき
西洋哲学へと発展します。

現代、哲学、哲学と言っているのは
この西洋哲学です。

西洋哲学はその歴史から判るように
真理の探究が目的です。

しかし、真理の探究なら科学の方が
はるかに優れています。

かくて、哲学は、科学では未解明の
モノを説明するニッチ学へと衰退しました。



これに対し、東洋哲学てのがありますが
これは、真理探究というよりも
人生の指針を示すモノが多いですね。

理論ではなく、感情や経験に訴える
モノが多いです。
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次のように考えます。



1. エワとアダムの物語――意志自由について――

エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。

その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 
言ってみればまだまっすぐであった。
 
言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限ら
ない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。

そういう意味でも 自己表現は自由なのだ。このことを やがてエワ
だけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれが自由
に及ぶこととなった。



2. われあやまつなら われあり――哲学のはじまり――

ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われ
たとも言い得る。(ひとが社会生活をいとなむということでもある)。

その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツハリという嵐に遭い 難
破することも生じ得る。
 
こうなると ひとの自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たと
えば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。

――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。
――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。

あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわ
った自由意志とその自由がある。したがって 自己表現の自由は そ
こに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。
 
このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思
考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)
ともあるいはルーアハ(霊性)とも言った。



3. 超経験思考としてのわが自由:非思考としての《信仰》

すでに非思考の領域へと飛躍している。身(感じる感性)と心(考え
る知性)を超えているので 霊性・生命性は 信じるという言葉を当
てる。

この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ず
であるにもかかわらず 人間の言葉で(言葉をシルシ・代理物として)
思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

アダムらの子孫であるアブラハムなるぢいさんが この空想とも呼べ
る飛躍の中で こう思った。:

  神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
  ならば――つまりは へそを曲げウソをつくこともあるのではあ
  るが これをあやまちとして気づくときそのわれがわれである自
  由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すこともなければ む
  さぼることも裏切ることもなかろう。

この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする
ウゴキが現われる。



4. 信仰内容の思考化・思想化:宗教

《殺すなかれ(不殺生戒)・むさぼるなかれ(不慳貪戒)・姦淫する
なかれ(不邪淫戒)》という戒律としてまた道徳として 神の霊〔へ
の信仰〕に代えて崇拝するやからが現われる。

つまりそのときこれを神のおきて(法)として説き始めたのが 《宗
教》である。
 
一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしら
え この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌
(さば)こうと言うのだ。(宗教者は 自由のためだと抗弁する)。

やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それ
にあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれる
なら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰
り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。信仰と
いう蝉の抜け殻である。屁の河童なり。



5. 《科学》としての哲学の展開

科学は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。

それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中
でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分
立しうると考えたからである。

利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによ
って 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学とな
る。
 
あるいは 誰れの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識し
うるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり
分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。



6. 《芸術》と哲学

果てさて 《芸術》は――文学をふくめて――これらの哲学・科学・
宗教の定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に
表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。

ゆえに手段は 言葉に限らない。あらゆる表現方法を模索する。

哲学に通じる人間の真実がそこに描かれていると人が感じ得るなら 
よいものだと言われる。
 
ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 
芸術行為であると考えられるかも知れない。けれども その根っこは
哲学である。

つまりは このわれわれの生活日常がおのおのの芸術行為であり ひ
ょっとすると 科学の芽は 科学者の芸術行為にあるだろうか。

しかし 考えてみれば 誰もがひとりひとり哲学する人間である。



7. 哲学って?

――というふうに いま・ここにあるわれが その世界における位置
関係を精神的に捉えようとする自己了解が 哲学の核心である。

哲学的な自己了解が 哲学の仕事である。
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現在の哲学は屁理屈を捏ねるだけの落ちぶれた脱け殻です。



元々の哲学は、天文学、物理学、化学、地学、医学、数学、・・・など、現代の科学を含んだものでした。

そこから、天文学、物理学、化学、地学、医学、数学などが独自分野として哲学から出て行った為、今は何も残っていません。

20世紀を代表する物理学者のラザフォードやボーア、数学者のリンデマンは、ケンブリッジ大学の同級生ですが、所属していた科は「哲学科」。

化学科、物理学科、数学科などは無く、1括り「哲学科」だったからです。
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長く哲学って?と思って来ました。



何かの真理に辿り着く思考。昔はこの世の森羅万象を解く一つの真理を探究していたようです。そんな物は人智の及ぶ所ではない。一神教の考えに同じです。歴史上哲学者は何人もいます。それらを統一する哲学はありません。もし、ビッグバンが本当にあったすればそれが哲学でしょう。ビッグバンからすべて始まったのだから。ビッグバンを理解することが哲学。
日本の哲学書は難解な用語を使い重箱の隅を突っついて捏ね繰り回しているので余計に漠然としている。頭脳の良さを誇りたいヒマ人の手慰み芸だと思います。芸者です。
ギリシャ哲学は何でもあり。生物学、物理も化学など学問分野のない時代です。アメリカの博士号は哲学博士Doctor of Philosophy (Ph.D.)です。
哲学は真理を探究し、エッセンスを見出します。エッセンスは微小なので元の物は何か分かりません。純化すれば全てが見えるのではなく分からなくなります。哲学ってそんな学問?、やはり遊び、芸です。

哲学は科学ではありません。人間の知が及んでいない真理・知を探究する学問。無知の知。この辺が出発点でしょうか。
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